第七話「幽霊の少女はひまわり畑で過去を語る」
太陽が容赦なく降り注ぐ中、日陰は手元のスケッチブックを掲げていた。そこには、少し雑な文字で「宮城県行きたい」と書かれている。
美晴が「良いところ知ってるんだ〜」とスケッチブックに文字を書き出したのだ。場所は近所で最も車通りの多い道。時刻は午前10時を少し過ぎた頃だが、道行く車たちはただ日陰の前をスルーしていくばかりだった。
「……こんなので、本当に止まるのかよ」
日陰は小さく呟きながら、スケッチブックを掲げる手が少しおずおずとしている。周りの目が気になるし、何より自分がこんなことをしている状況が信じられない。少し遠慮気味な態度では、当然車が止まるわけもない。その様子を見ていた美晴が、腕を組んで大きなため息をつく。
「ダメだよ!そんなんじゃ!」
そう言うなり、美晴はすばやい動きで日陰の手からスケッチブックを奪い取った。
「おい!美晴さん、何を――」
日陰が制止しようとする間もなく、美晴はぴょんぴょんと軽やかに跳ねながら、スケッチブックを高く掲げて叫び始めた。
「乗せてくださーーーい!!」
その元気いっぱいの声と動きは、彼女がその場を完全に支配しているかのようだった。セーラー服のスカートがふわりと揺れるたび、彼女のすらりとした脚のラインが目に入る。
(や、やめろ……)
思わず視線を向けてしまった自分に、日陰は内心で慌てて「ダメだ!」と強引に目を逸らす。そんな日陰の様子に気づいていない美晴は、さらに元気よく跳ねながら叫び続けた。
「乗せてくださーーーい!!宮城まで行きたいんですーーー!!」
その声の大きさに、周囲の車道を行き交う車の何台かがクラクションを鳴らした。やっぱり目立ちすぎている。
「ほらー!!!日陰!!日陰!!!」
日陰が顔を背けている間に、美晴が大きな声で日陰を呼ぶ。その声に反射的に振り向くと、ちょうど彼女の目の前で白い少し大きめの車がゆっくりと減速し、道端に停車した。
(す、すげぇ……)
思わず心の中で呟きながら、日陰は美晴の横に駆け寄り、車に近づいた。運転席の窓が開き、優しい声が降りてくる。
「ヒッチハイクかー。宮城までは無理だけど、茨城まで行くから、そこまでなら乗せていくよ!」
運転席に座っていたのは、30代半ばくらいの清潔感のある男性だった。その顔にはどこか余裕を感じさせる穏やかな表情が浮かんでいる。助手席には、同年代と思われる綺麗な女性が微笑みながらこちらを見ている。そして後部座席には、小学生低学年くらいの男の子が無邪気な顔でこちらを見つめていた。
「す、すみません!ありがとうございます!」
日陰は頭を下げながら、少し緊張した声で感謝を伝えた。その横で、美晴は満足そうに頷きながらにっこりと微笑んでいる。
「いやー、ありがとうございます!助かります!」
美晴が明るく礼を言うと、運転席の男性は軽く笑みを浮かべて頷いた。
「ヒッチハイクなんて、なかなか勇気あるね。特にこの暑さの中でさ」
「いやいや、彼がどうしても行きたいって言うので!」
美晴が冗談めかして日陰の方を振り返る。
「えっ、俺!?美晴さんが言い出したんだろ!」
日陰は驚きながら反論するが、美晴は悪びれる様子もなく肩をすくめた。
助手席の女性がくすくすと笑いながら言った。
「仲が良いんですね。どうぞ、後部座席へ。」
そう言って助手席の女性が後部座席に視線をやり、「将太。奥に詰めてくれる?」と優しく声を掛ける。すると後部座席に座る男の子が移動した。
「ありがとうございます!」
美晴が先に後部座席のドアを開け、日陰を促す。車内に乗り込むと、空調の効いた涼しい空気が二人を包み込み、日陰は思わずほっと息を吐いた。
「これでとりあえず茨城までは行けるね!」
美晴がにっこり笑いながらスケッチブックを日陰に渡し、日陰はトートバッグにしまう。美晴の笑顔を見て、日陰は小さく肩をすくめた。
(相変わらずすごい行動力だな……でも、それに助けられてるのも事実か)
車は静かに走り出し、旅がまた一歩進み始めた。
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車は穏やかなエンジン音を響かせながら、国道を走り抜けていく。運転席の男性がバックミラー越しに視線を向けてきた。
「そういえば、自己紹介がまだだったね。俺は
「こんにちはー!」
元気な声で挨拶する小さな将太に、美晴が手を振り返す。
「ありがとうございます。僕は佐藤日陰、で……」
日陰が横目で美晴を伺うと、彼女がにっこり笑いながら続けた。
「美晴でーす!16歳で、好きな食べ物は酢昆布です!乗せてくれてありがとうございます!」
(ちゃんと自己紹介だ……。あと酢昆布好きだったのか……)
日陰は苦笑いする。
「へえ、日陰くんと美晴ちゃんね。二人とも若くて、すごく仲良さそうだねぇ」
舞香が微笑みながら振り返り、そのまま何気なく問いかけた。
「もしかして……二人って恋人同士だったりするの?」
その言葉に日陰は大きく目を見開き、体をのけぞらせるようにして否定した。
「ち、違います!!!」
声が少し裏返り、前の席の博文たちが小さく笑う。その様子を見た美晴が、半目でじっと日陰を見つめながら、にやりと笑みを浮かべた。
「ふーん、じゃあ私たちの関係は~?」
ニターッとした笑顔を浮かべ、からかうように言う美晴。
「え、えっと……」
日陰はぎこちなく視線をそらし、顔を真っ赤にして小さな声で呟いた。
「と、友達……です」
「日陰からちゃんと聞けて良かった♪」
美晴は満足気に笑いながら、博文たちはそのやりとりに微笑ましい空気を感じたらしく、舞香が振り返りながら朗らかに言った。
「いいね、青春って感じで。将太も大きくなったらこんな風にヒッチハイクとかしちゃうのかしら」
「将太にはいっぱいいろんな景色を見てほしいな!」
博文が微笑みながら言うと、後部座席から将太が「みんなで行こうね!」と声を上げた。
その様子に美晴も笑い出し、車内は和やかな雰囲気に包まれた。
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車内の会話は博文たち家族の話題へと移り、何気ない日常の温かさが垣間見える。
「おじいちゃんとおばあちゃんに早く会いたいなー!」
将太が楽しそうに足をバタバタさせながら言うと、舞香が微笑みながら振り返った。
「きっとおじいちゃんたちもそう思ってるよ!将太がいっぱい遊んでくれるのを楽しみにしてると思うわ」
「お盆休みは毎年帰ってるんですか?」
日陰が何気なく尋ねると、博文がハンドルを操作しながら答える。
「うん、できる限りね。仕事は忙しいけど、こういう時間を作るのが大事だと思ってるから」
「そうそう!うちの夫はわざわざ休みを調整してくれてるのよ。感謝してるわ」
舞香がそう言うと、博文は少し照れくさそうに鼻をこすった。
「まあ、家族のためだからね。少しでも長く一緒にいたいんだ」
その言葉に美晴はじっと耳を傾けていたが、ふと視線を窓の外に向けた。流れる景色をぼんやりと見つめながら、彼女の表情にほんの少し寂しさが浮かぶ。
日陰はそんな美晴の様子に気づき、少しだけ不思議そうな表情を浮かべた。
「……美晴さん?」
小さな声で呼びかけると、美晴は慌てて笑顔を取り繕い、いつもの明るい声で答えた。
「ん?何?どうしたの?」
「いや、別に……」
日陰はそれ以上言葉を続けられなかったが、美晴の心の中に何かがあることだけは、なんとなく感じ取っていた。
車内の温かい空気の中で、二人の心にはそれぞれ異なる感情が渦巻いていた。
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茨城県のサービスエリアに到着すると、博文が車をゆっくりと停め、後部座席のドアを開けてくれた。
真昼の太陽が眩しく照りつけ、名残惜しさが漂う中、美晴がふと何かを思いついたようにスケッチブックを胸の前で抱え、明るい声を響かせる。
「ねえ、せっかくだからみんなで写真撮りませんか?」
突然の提案に、日陰は驚いたように目を丸くする。
「写真?」
「そうだよ!こういうの旅の記念になるでしょ!」
美晴はスケッチブックを片手で掲げながらにこりと笑う。その笑顔につられて、博文一家も顔を見合わせて頷いた。
「良いね!将太、おいで。」
博文が柔らかい声でそう言い、舞香も頷きながら「そうね、いい思い出になるわね」と優しい笑顔を見せた。
「じゃあ、撮ってくれる人探してくるね!日陰、カメラ貸して!」
美晴はスケッチブックを抱え、日陰からカメラを受けてると勢いよく車を出た。
そして近くのベンチに座っている人に駆け寄り、屈託のない声で話しかけた。
「すみません!写真撮ってもらえませんか?」
その明るく丁寧な声に、お願いされた人もすぐに快く引き受けてくれた。「いいですよ!」とカメラを受け取ると、美晴が皆を呼び寄せる。
「じゃあ、みんなここに並んで!私が真ん中で、このスケッチブック持つね!」
美晴は「宮城行きたい」と大きく書かれたスケッチブックを手に立ち、嬉しそうに振り返る。その隣に日陰が立つが、少し恥ずかしそうに目をそらしていた。
「日陰、ちゃんとこっち向いて!」
「いや、こういうの慣れてなくて……」
美晴が笑いながら肘で軽く日陰の腕をつつく。それに押されるようにして、日陰は渋々ながらもカメラの方を向いた。
「将太くん、ここにおいで!」
美晴が柔らかい声で呼ぶと、小さな将太が嬉しそうに美晴の横に駆け寄る。舞香が優しく将太の肩に手を添え、反対側には博文が立つ。全員が並ぶと、撮影者が構図を確認しながら声をかける。
「はい、撮りますねー!そのまま笑って、はい!チーズ!」
カメラのシャッター音が響く。
真昼の太陽の下で、楽しげな写真が撮影された。
美晴はスケッチブックを胸元で抱えながら、眩しい笑顔を浮かべている。
一方で隣の日陰は引き攣った様な笑顔だ。
将太は元気いっぱいの笑顔、博文と舞香も穏やかな表情で写り込んでいる。背景には、博文一家の車とサービスエリアの建物が見える。
「はい、撮れましたよ!」
撮影者からカメラを受け取った美晴は、その場で画面を確認しながらにっこりと頷いた。
「うん、最高の写真!ありがとうございます!」
彼女のその言葉に、全員が小さく笑い合う。真昼の太陽の下、少しだけ別れの寂しさが和らいだようだった。
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「ここまでだけど、気をつけてな!」
運転席からの博文の声に、美晴は笑顔で手を振っている。日陰も合わせて手を振る。
助手席から舞香が顔を出して優しく微笑む。
「若いって本当に素敵ね。今を全力で楽しんでね!気をつけてね!」
その優しい声に、美晴は明るく「はい!」と返事をする。舞香の言葉は、まるで背中を押してくれるような力強さがあった。
「またねー!!!」
後部座席の将太が涙目になりながら小さな手を力いっぱい振る。その姿に美晴は笑顔で手を振り返したが、「またね」とは言わなかった。言葉を飲み込むように、ただ手を振り続けるだけだった。
「日陰くん!美晴ちゃんを守ってあげるんだぞー!」
運転席から博文が冗談めかして声をかける。その言葉に日陰は少し驚き、困ったように笑いながら頷いた。
「大丈夫ですよ!私の方が絶対強いです!」
そう言って、美晴が拳を作り、軽くシャドウボクシングの仕草を取る。それを横目で見た日陰は苦笑いしながら思った。
(……確かに、守るっていうより、美晴さんの方が守ってくれそうだな)
車はゆっくりと走り出し、再び道を進んでいく。後部座席の窓から将太が小さな手を振り続けているのが見えた。
「楽しい家族だったね」
美晴がぽつりと呟いた。その声には、ほんの少しだけ寂しさが混じっているような気がして、日陰は彼女の横顔を盗み見るように観察した。
サービスエリアの施設に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が二人を包んだ。店内には軽食を楽しむ人々の賑やかな声が響いている。
「日陰、そろそろお腹空いたんじゃない?」
美晴が何気なくそう尋ねた。その言葉に、日陰は自分の空腹にようやく気づいた。確かに朝から何も食べていない。
「あ……そういえば、ちょっとお腹減ったかも」
「じゃあ、何か食べようよ!ほら、あそこのラーメンとか美味しそうだし」
美晴が店内のフードコートを指差す。その元気な声に日陰は頷き、軽食を探すためにカウンターを見回した。だが、美晴はその場で立ち止まったまま、日陰が注文する様子を眺めている。
「美晴さんは何食べるの?」
何気なく振り返って尋ねると、美晴は首を横に振った。
「私はいらないよ?」
当たり前のような調子で返事をする美晴。その言葉に、日陰は小さく眉を寄せた。
「え……でも、何か食べないと……」
言葉を発しながら、海に行った日の帰りに寄った定食屋の光景が脳裏に蘇る。
(そうだ。あの日も…)
あの定食屋の時も、美晴は一日中活動をしていたのにも関わらず、何も食べず、ましてや水分すら摂らなかった。夏の暑さの中でそれをしないというのは、明らかに“普通”ではない。
「平気平気!気にしないでいいから」
さらりと言い切る彼女の言葉に、日陰はますます不思議な気持ちを抱いた。午前中から元気に動き回っているのに、疲れた様子も空腹の素振りも喉が渇いたという一言すらない。それどころか、彼女の笑顔は崩れることなく、まるで何も必要としていないかのように見える。
(……美晴さんって、本当に何者なんだろう)
美晴が幽霊であり、“普通”の人間ではないことは理解している。
それでも、彼女はいまここに存在していて、普通に一緒に話して、笑っている。
「ほらほら、早く買っちゃいなよ!」
美晴が無邪気な笑顔で促す。その笑顔があまりにも自然で、日陰は深く考えるのをやめるようにして首を振った。
そして、フードコートのカウンターへと足を向ける。
「……とりあえず、ラーメンでいいか」
ぼそりと呟きながら注文を済ませ、席に戻ると、美晴はさっきと同じように微笑んで座っていた。日陰はトレーをテーブルに置きながら、ふと彼女の顔を見つめた。
(……もっと美晴さんのことを知りたい)
日陰は自分でも驚くような思考を抱いているとは理解しつつ、静かにそう考えながら、ラーメンを一口すくった。
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ラーメンを食べ終えた日陰はトレーを片付け、軽く体を伸ばした。昼の暑さはさらに厳しさを増し、アスファルトから立ち上る陽炎がサービスエリア全体をぼやけた景色にしている。
「さて、行きますか!」
美晴がスケッチブックを掲げ、駐車場へと向かう。そこには大小さまざまな車が並んでおり、その中には数台のトラックも停まっていた。
「次はトラック狙いでいこう…か。長距離走ってることが多いし、宮城行きの可能性も高いかも」
日陰が提案すると、美晴は一瞬身体をピクリと震わせ、何かを考え込むような表情を浮かべた。
「ト、トラック……か……」
小さな声でそう呟くが、すぐにハッとして首を振り、いつもの調子に戻った。
「いいねー!日陰、意外と頭いいじゃん!」
「別に普通の発想だろ……」
美晴に褒められたことが少し嬉しい日陰は、俯きながら軽く笑みを浮かべた。だが、美晴の一瞬見せた違和感のある反応が、心のどこかに引っかかる。
「それで、宮城ナンバーを探せば効率がいいかも……」
「おおー!それ採用!」
スケッチブックを抱えた美晴は、軽快な足取りで駐車場を歩き始めた。日陰も彼女の後を追いながら、停まっている車両のナンバープレートに目を走らせる。
しばらくして、一台の大型トラックが駐車場の端に停まっているのを見つけた。ナンバープレートには確かに「宮城」と書かれている。
「あった!宮城ナンバー!」
美晴が指差し、嬉しそうに小さく飛び跳ねる。その元気な姿に日陰は少し苦笑いを浮かべながらも、トラックへと向かった。
運転席の窓に近づくと、日陰は一瞬立ち止まった。その車内には、短髪の白髪が混じった50代くらいの渋い男が座っていた。ガッチリした体格に、どこか鋭い目つきの強面な顔が印象的だ。
(……なんか怖い人だな)
そう思いつつも、日陰がためらっていると、美晴がスケッチブックを持ったまま勢いよくトラックの窓を叩いた。
「すみませーーーん!ヒッチハイクしてて、宮城まで行きたいんですけど、乗せてもらえませんか?」
元気いっぱいの声で呼びかける美晴。その無邪気な笑顔と調子に、日陰は少し呆れながらも感心してしまう。
トラックの窓がゆっくりと開き、中から渋い低音の声が響いた。
「……宮城か。乗れよ」
その一言に、日陰は思わず息を飲んだ。その声はまるで映画のワンシーンのように渋く、そしてどこか威圧感があった。
「ありがとうございます!」
美晴はまったく怯える様子もなく、大きな声で礼を言う。ニコニコと笑顔を浮かべながら、スケッチブックを掲げたまま助手席側に回り込む。
日陰は彼女の堂々とした態度に驚きつつも、どこか羨ましさを感じていた。
(……美晴さんって、本当に誰に対しても分け隔てなく接するよな)
どんな人にも明るく屈託のない笑顔を見せる美晴。その姿勢が、どうしても日陰にはまぶしく見える。
「ほら、日陰も早く!」
助手席に向かう美晴が手招きする。その無邪気な声に日陰は小さくため息をつきながらも、運転席の男性に軽く頭を下げてからトラックに乗り込んだ。
トラックの中は広く、運転席の隣に2人が並んで座れるスペースがある。美晴が真ん中に座り、窓側に日陰が座った。
運転席に座る男性がチラリと二人に視線をやり、低く渋い声で言う。
「シートベルト、ちゃんと締めろよ」
「は、はい!」
「はーーい!」
返事をする日陰の隣で、美晴がニコニコと微笑みながらシートベルトを締めている。
トラックがゆっくりと発進し、再び二人の旅が進み始めた。
「すごい、ほんとに乗せてもらえたね!」
美晴が真ん中の席で嬉しそうに足をバタつかせながら言う。彼女の満面の笑顔に対して、日陰はまだ少し緊張していた。運転席の男性の風貌がどうしても気になってしまう。
「おじさん!乗せてくれてありがとうございます!お名前とか、聞いてもいいですか?」
美晴が元気よく尋ねると、男性は真っ直ぐ進行方向を見たまま、短く答えた。
「俺か?……
その声は低く渋いが、どこか温かみも感じられるものだった。
「吉賀さんかー!!ありがとうございます!」
美晴の無邪気な返答に、吉賀も思わずわずかに笑みを浮かべる。
「大したことじゃねぇよ。帰り道だし、久々に長距離の助手が乗っただけだ」
「助手!私たち助手かぁ。じゃあ何か手伝った方がいいですか?」
美晴が楽しそうに聞くと、吉賀は小さく笑いながら「いや、いい」と答えた。
「ちっとは警戒しろよ。あぶねー奴だっているからな」
吉賀の言葉に、日陰は少しビクッとするが、美晴はいつもの調子でニコニコと笑いながら言う。
「でも吉賀さん、絶対いい人だってわかるもん!」
その屈託のない笑顔に、吉賀は苦笑しながら「まぁ、気をつけろよ」と低く言った。
車内には、どこか心地よい空気が漂い始めていた。
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トラックは国道を滑らかに進み、遠くには山々の緑が見える。吉賀がふとバックミラー越しに日陰と美晴の方を見た。
「で、お前らは宮城に何しに行くんだ?」
渋い低音が車内に響く。その問いに、日陰が答えようとしたが、美晴が一足早く口を開いた。
「ひまわり畑を見に行くんです!」
美晴が元気よくそう答えると、吉賀が少し驚いたように片眉を上げた。
「ひまわり畑か……そういえば、有名なのがあったな。確か田舎のほうに」
吉賀が思い出すように呟く。その言葉に、日陰は思わず美晴を横目で見た。
(なんで美晴さんがそんな場所を知ってるんだろう……)
日陰の胸には小さな疑問が浮かぶ。しかし、美晴はそんな日陰の視線に気づくこともなく、満面の笑顔で吉賀の言葉に頷いた。
「そう!そのひまわり畑なんです!ずっごく楽しみなんですよね〜!」
「近くまでなら、送ってやるよ。今日はちょいと時間に余裕がありそうだから」
吉賀の申し出に、美晴は大きく目を輝かせた。
「本当ですか!?ありがとうございます!」
彼女の明るい声が車内を満たし、日陰もその申し出に安堵しつつ「ありがとうございます」と頭を下げた。
トラックがさらに道を進む中、吉賀がぽつりと話し始めた。
「お前を見てると、うちの娘を思い出すよ」
その言葉に、日陰と美晴は同時に顔を上げた。
「娘さん、いるんですか?」
美晴が嬉しそうに問いかけると、吉賀は少しだけ表情を緩め、前を見据えたまま頷いた。
「ああ、高校2年生だ。お前さんと同じぐらいだろ。でもな、俺は長距離の仕事をしてるせいで、ほとんど家に帰れねぇ。帰ったとしても、会話なんてろくにできやしねぇよ」
吉賀の声には、自嘲混じりの苦笑が含まれていた。
「無愛想で不器用な親父だって思ってるだろうさ。たまに帰ると、距離を感じるんだ。嫌われてるのかもな」
その言葉に、美晴の表情が一瞬曇った。彼女の目は遠くを見つめているようだったが、すぐに笑顔を作り直して「そうなんですか」と返した。
(美晴さん……)
日陰はそんな彼女の微妙な変化に気づき、またも胸に小さな違和感を覚えた。
吉賀は言葉を続けた。
「次の連休が少し取れそうなんだ。だから、家族をどこかに連れて行ってやりたいと思うんだが……」
その声には、ほんの少しのためらいがあった。それを聞いた美晴は目を輝かせ、真剣な口調で言った。
「絶対連れて行ってあげてください!」
その言葉に、吉賀は驚いたように視線を美晴に向ける。彼女の表情はどこまでも真剣で、少しも冗談めいたものが感じられなかった。
「娘さんだって、本当はお父さんと出掛けるのを楽しみにしていると思いますよ!後悔しないように、絶対に誘ってみてください!」
「……でもよ、俺が誘ったところで、あいつが一緒に行きたがるかどうか……」
吉賀の声には、不安と迷いが混じっていた。それでも美晴はまっすぐに吉賀を見て、力強く言葉を続けた。
「きっと行きます!だって、お父さんと一緒にどこかに行けるなんて、本当はすごく嬉しいことだと思うから!」
その言葉に、吉賀はハンドルを握る手を少し強くした。その横顔には、わずかに新たな決意が滲んでいるようだった。
「……そうだな。一度、声をかけてみるか」
低く呟く吉賀に、美晴が明るく「それがいいです!」と笑顔で応えた。その無邪気な笑顔に吉賀もつられるように小さく笑みを浮かべた。
トラックは順調に宮城を目指して進んでいた。車内の中で交わされたその会話は、吉賀だけでなく、日陰と美晴の胸にもそれぞれ異なる想いを残していた。
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ひまわり畑の近辺に到着したのは、吉賀のトラックで移動を始めてから約4時間後のことだった。途中、サービスエリアで短い休憩を挟みながら、道中は穏やかで快適だった。トラックの窓から見える景色はどんどん緑が増え、徐々に田舎の風景へと変わっていった。
「ここらで降りたら、すぐ近くだろう。」
吉賀が車を停め、2人に視線を送った。
「本当にありがとうございました!」
美晴が満面の笑顔で頭を下げる。日陰も続けて「ありがとうございました」と丁寧にお礼を言った。
「まあ、道中楽しませてもらったしな。それに……」
吉賀は少し照れたように、ハンドルを握る手を緩めながら続けた。
「お前さんのおかげで、娘を誘ってみようって気になったよ」
その言葉に、美晴の顔がパッと明るくなった。
「本当ですか!よかった!絶対に一緒に出かけてくださいね!」
その真剣な声に、吉賀は軽く笑みを浮かべて頷いた。どこか肩の力が抜けたような、その笑顔には、彼自身も少し前向きな気持ちを抱いていることが感じられた。
その時、美晴が何かを思いついたように日陰のトートバッグからカメラを取り出し、レンズを日陰と吉賀の方に向けた。
「ねえ、最後にみんなで写真撮ろうよ!」
その言葉に日陰は一瞬目を見開き、戸惑いの表情を見せる。
「こ、ここでか?」
「そうだよ!吉賀さんと一緒にここまで来たんだもん。記念に撮らなくちゃ!」
美晴はまっすぐな笑顔で言い切り、二人をぐいっと自分の近くに引き寄せる。
「ほら、日陰も吉賀さんもくっついて!」
カメラのフーレームに3人が入るように、美晴が真ん中の席で両手をグッと伸ばしている。
「え……」
日陰は動揺しながらも美晴に言われた通り、彼女に体を寄せた。
吉賀も美晴の熱意に押されたのか、軽く肩をすくめて「仕方ないな」とばかりにほんのり笑みを浮かべる。
「はい、準備オッケー!いくよー、3、2、1!」
——カシャ。
美晴は掛け声とともにカメラのシャッターを切った。
日陰はぎこちなく微笑みを浮かべ、吉賀は自然な微笑みを湛えている。美晴はその二人の間で満面の笑みを浮かべ、まるで太陽のように明るい表情だ。
遠い町の夏のひと時が写真に収められる。
「よし!撮れた!ありがとう!」
美晴はカメラを確認しながら満足そうに頷いた。そして日陰と吉賀にも画面を見せる。
「ほら、めっちゃいい感じじゃない?」
「……まあ、悪くないな。」
吉賀が小さく呟くと、美晴は嬉しそうに手を叩いた。
「いい写真だね。これ、絶対宝物にする!」
美晴のその言葉に日陰もつられて微笑んだ。
車内には穏やかな空気が流れ、吉賀と別れる寂しさが少し和らいだようだった。
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日陰と美晴はトラックを降り、美晴は満面の笑みで吉賀に手を振っている。
「気をつけて行けよ。嬢ちゃん、坊主」
吉賀は運転席から2人を見下ろし、少しだけ表情を和らげた。
そして優しい声で続けた。
「良い彼女を持ったな」
その一言に、日陰の顔が一瞬で真っ赤になった。
「ち、違います!!!彼女じゃないです!!」
慌てたように手を振る日陰の様子に、吉賀は軽く肩を揺らして笑う。
「そうかそうか。まぁ、どっちにしても大事にしてやれよ」
そう言い残すと、吉賀はエンジンをかけた。トラックの重たい車体が再び動き始め、少しずつ二人から離れていく。
「吉賀さん!本当にありがとうございました!気をつけて帰ってくださいね!」
美晴が大きく手を振ると、吉賀は軽く手を挙げて応じた。
「じゃあな。お嬢ちゃん、坊主、気をつけてな」
そう言い残し、トラックはゆっくりと道を進み、やがて遠ざかっていった。
トラックが見えなくなった後、美晴がふっと息を吐いて日陰に向き直る。
「さて、ひまわり畑はもうすぐだね!」
明るく笑う彼女の顔を見て、日陰は少しだけ安堵しながらも、不思議な胸の高鳴りを感じていた。
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ひまわり畑の入り口まで、二人は数分ほど歩いた。道を進むたびに、黄色い花々の一部が視界に広がり、ついに門の前に立つと、そこには一面のひまわり畑が広がっていた。
空まで届きそうなひまわりの背丈と、鮮やかな黄色の海。その壮観な景色は、日陰の心に深く刻まれた。門をくぐる前から、その圧倒的な光景に、日陰はしばし足を止めた。
「すごい……」
日陰がぽつりと呟いた瞬間、美晴も立ち止まった。彼女の視線はまっすぐ前を見つめており、ひまわりの海に心を奪われたようだった。風に揺れる花々の音が静かに耳を撫でる中、美晴はその場でじっと景色を眺めている。
その瞳には、懐かしさと切なさ、そして喜びの入り混じった何かが浮かんでいるようだった。
美晴の横顔を見た日陰は、一瞬息を呑むようにしてから思わず声を掛けた。
「美晴さん……?」
その言葉に、美晴がハッとしたように瞬きをして振り返る。そして次の瞬間、まるで何かを振り払うように明るい声を上げた。
「行こう行こう!早く行こう!」
彼女はいつもの調子を取り戻し、笑顔を浮かべながら駆け出した。スカートがふわりと揺れ、真紅のリボンが風に靡く、その背中がひまわりの中へと消えていく。
日陰は彼女の様子に少し驚きつつ、安堵の息を吐いた。
(いつもの美晴さんだ……)
そう思いながら、彼も彼女を追うように門をくぐった。
ひまわり畑の中に足を踏み入れると、その景色はさらに圧巻だった。頭上高くまで咲き誇るひまわりたちが太陽に向かって揺れている。周囲はどこを見ても黄色一色。風にそよぐ葉と花の音が心地よく、夏の日差しが一面に降り注いでいる。
観光客がちらほらと園内を歩いている。
親子連れや友達同士、カメラを片手にしている人の姿も見える。時折、誰かの笑い声が聞こえ、夏の活気を漂わせている。しかし、不思議なことに、日陰にはその光景がどこか遠いものに思えた。
美晴がひまわりの間を楽しそうに駆けていく姿だけが鮮明で、彼女と自分の周りだけが特別な空間になっているようなそんな不思議な感覚を覚えた。
他の人々が視界の隅に映りながらも、まるでこの広大なひまわり畑が二人だけのものに感じられる。ひまわりたちの揺れる音が二人のためだけに奏でられているような錯覚さえ覚えた。
「すごい……本当にすごいな」
日陰は声を漏らしながら、バッグからカメラを取り出して首に掛けた。思わず夢中になってレンズを向けるが、その景色はどこを切り取っても絵になるものばかりだった。
その時、美晴が振り返った。ひまわりの間を楽しそうに駆けていた彼女が、太陽の光を全身に浴びながら、眩しい笑顔をこちらに向けている。
「日陰、早くおいでよ!」
彼女の声が風に乗って届く。その瞬間、日陰はカメラを構え、彼女の無邪気でキラキラと輝く表情をフレームに収めた。
——カシャ。
シャッター音と共に、美晴の笑顔が切り取られる。日陰はカメラを下ろして画面を確認し、その写真を見つめながら、自然と口元に笑みが浮かんだ。
(……すごいな)
彼女の笑顔は、ひまわりに負けないくらいの輝きを放っていた。それは日陰にとって、この夏を象徴するような一枚だった。
「どう?うまく撮れた?」
美晴が駆け寄り、カメラを覗き込もうとする。その無邪気な様子に、日陰は少し照れくさそうにカメラを隠した。
「ま、まぁ……それなりに」
「ふーん、見せてくれないってことは、自信作だね!」
ニヤリと笑う美晴に、日陰は苦笑いを浮かべる。彼女とひまわりに囲まれたこの時間が、特別な思い出になることを、日陰は心の中で確信していた。
すると美晴が不意に目を細めて自然な笑みを浮かべながら言葉を発した。
「ねえ、日陰。今、楽しい?」
その問いかけに、日陰は思わず動きを止めた。彼女の声には、ひまわり畑の柔らかな風のような優しさと、どこか確信めいた響きがあった。
日陰は一瞬考えたが、すぐに自然と微笑みが浮かんだ。
目の前に広がる美しい景色と、美晴の明るさに包まれているこの瞬間――心の底から楽しいと感じていた。
「……うん、楽しい」
その言葉を聞いた美晴が、ふわっとした笑顔を見せた。それは、まるでひまわりそのもののような輝きを放つ笑顔だった。
「よし、それでこそ日陰!その笑顔を残すよ!さあ、カメラセットして!」
美晴がニコニコしながら言い、日陰は「あっ」と反応する。昨日の事を思い出した。
美晴は昨日『日陰が自然な笑顔のツーショットを撮ろう!』と言っていた。
ため息を吐きながらも、渋々カメラのレンズを自分の方に向ける日陰。
それを確認して美晴が満面の笑みでこちらに向かって走ってくる。
その無邪気な様子に思わず自然と笑みが溢れる。
「はーい!チーズ!!」
美晴の声に合わせて日陰が指を動かし、カシャッというシャッター音が響く。
美晴がすぐに日陰からカメラを取り、撮影された写真を確認すると凄く満足そうに笑った。
「ほら!見てよ、日陰!すっごくいい感じ!」
画面には、ひまわり畑を背景に、美晴の無邪気な笑顔と、普段とは違う日陰の自然な笑みが写っていた。日陰はそれを覗き込みながら、なんとも言えない感覚に襲われる。
「あれ……俺、こんな顔してたのか?」
「そうだよ!これが日陰の自然な笑顔!これで青春の証、ばっちり残せたね!」
美晴が得意げに言うと、日陰は少し照れくさそうに目を逸らす。
その反応を見て美晴が嬉しそうに笑い、もう一度写真を見つめた。その光景に、日陰もつい口元が緩む。
心を穏やかに溶かされるようなそんな優しい感覚に包まれていた。
---
たくさんの写真を撮り終えた二人は、ひまわり畑の片隅に腰を下ろした。柔らかな土の感触と、風に揺れるひまわりのざわめきが心地よいBGMとなっている。頭上には夏を象徴するような大きな入道雲と青空が広がり、太陽の光が優しく降り注いでいた。
美晴は足を伸ばし、手を後ろについて空を見上げている。その横顔を眺めながら、日陰もゆったりとした気持ちになっていた。
「日陰。」
美晴がぽつりと口を開く。その声はいつもよりも少しだけ低く、静かな響きがあった。
「すごくすごーく。ありがとう。」
彼女は振り向き、まっすぐに日陰の目を見つめた。その瞳には感謝と喜びが溢れている。
日陰は一瞬驚いたが、すぐに微笑んで頷いた。
「いや、むしろ俺が美晴さんに感謝しなきゃだ。こんなに綺麗な景色を見せてくれて、ありがとう。」
その言葉は自然と口から出た。普段は口下手な彼だったが、今この瞬間だけは素直な気持ちを伝えることができた。
美晴は少しだけ目を見開き、驚いたような表情を浮かべた。
「何〜!素直になったね〜」
彼女はからかうように笑い、肩を軽くすくめる。
日陰はその言葉にハッとし、自分が普段はこんなに自然な調子で感謝を述べないことに気がつく。
急に恥ずかしさが込み上げ、顔が熱くなるのを感じた。
「じゃあ、ちょっと成長した日陰くんに、もう一つ成長してもらおうかな。」
美晴はニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべながら、彼に近づく。
「美晴って、呼んでよ。」
彼女はニコッと微笑み、期待するような瞳で日陰を見つめた。
日陰は思わず視線を逸らし、心臓がドキドキと高鳴る。
「呼び捨ては…」
小さな声で呟くように言う。普段から「さん」付けで呼んでいた彼にとって、今更呼び捨てにするのは大きなハードルだった。
「えー!いいじゃん!友達なんだし!『さん』なんて堅苦しいよ。」
美晴は不満そうに頬を膨らませる。
日陰はしばらく考え込んだ。どうしようかと頭の中で葛藤が渦巻く。美晴は友達だからといっているが、日陰にとっては友達でありながら、憧れのようなそんな特別な存在だ。
だからこそ、呼び捨てにするのは照れくさかった。
しかし、美晴の期待する視線と、自分自身も変わりたいという思いが心の中で芽生えていることに気がついた。
意を決したように、日陰は深呼吸を一つした。
「み…美晴…」
声は小さく震えていたが、確かに彼は彼女の名前を呼び捨てにした。
「合格!」
美晴は右手で丸を作り、満足そうに微笑む。その笑顔は太陽よりも眩しく、ひまわりよりも鮮やかだった。
その瞬間、日陰は息を呑んだ。彼女の笑顔があまりにも美しく、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
(こんなに綺麗だったんだ…)
彼は改めて美晴の存在の大きさを実感した。心臓の鼓動が早まり、視線を彼女から逸らすことができない。
周囲のひまわりたちが二人を見守るかのように揺れている。時間がゆっくりと流れ、世界には自分たちしかいないような感覚に包まれた。
---
ひまわり畑の景色は夕陽に染まり、金色の光が花々をさらに輝かせていた。風が吹き、無数のひまわりが揺れる音が、遠くで聞こえる蝉の声に重なる。美晴は少し目を細め、空を見上げている。その横顔は、どこか物思いにふけったようでありながらも穏やかだった。
日陰は隣に座り、カメラを首から下げたまま彼女の方をそっと見つめた。今日のひまわり畑での時間、美晴の笑顔、そして時折見せるどこか遠くを見つめるような表情――それらが頭を駆け巡る。胸の奥で言葉が渦巻いていた。
「美晴……」
不意に名前を呼ぶと、美晴がふっと顔をこちらに向けた。彼女の瞳は夕陽を映し、純粋な輝きを放っていた。日陰はその瞳に一瞬飲み込まれそうになるが、深く息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「俺……美晴のこと、もっと知りたい」
その言葉は自分でも驚くほど自然に出てきた。日陰の顔が熱くなるのを感じながらも、視線を逸らさずに続ける。
「なんかさ、美晴は……笑ってるけど、時々すごく遠くを見てるみたいに感じる。今日だって、楽しそうにしてたけど、何か抱えてるんじゃないかって思ったんだ。教えてくれないか。美晴のことを……」
美晴は一瞬目を見開き、驚いたように日陰を見つめる。しかし、次第にふわりと柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔は、どこか寂しげでもあり、暖かさも含んでいる。
「……そっか。私のこと、知りたいんだ」
美晴がぽつりと呟く。その声には、どこか嬉しさと戸惑いが入り混じっているようだった。彼女は一瞬視線をそらし、もう一度ひまわり畑を眺めた後、日陰に向き直る。
「じゃあ、ちゃんと話さなきゃね。私のこと」
美晴はひまわり畑を見つめたまま、ゆっくりと語り始めた。
「私ね、実は小さい頃、家族とこのひまわり畑に来たことがあるんだ。確か、保育園くらいの時だったかな。その時はね、すっごく綺麗だなって思ったのと……なんだか、すごく幸せだった記憶があるんだよね」
彼女の声は穏やかで、でもどこか切なさを孕んでいた。それを聞いて、日陰は美晴がこのひまわり畑を知っていた理由が理解できた。
「でも、それくらいなんだ。私が家族と幸せだった思い出って」
日陰はその言葉に息を呑む。美晴の横顔が、一瞬だけ苦しそうに歪むのを見た。
「お父さんもお母さんも……仕事ばっかりでね。家にいることなんてほとんどなかった。喧嘩して、私が小学校2年生の時に離婚して……それからはお父さんと二人で暮らしてたけど、何も変わらなかった。むしろもっとお父さんとの時間は減っちゃった。お父さんはずっと仕事で遅くて、たまにある休みの日も疲れて寝てばかりで……」
美晴は一瞬言葉を詰まらせ、ひまわりの花をそっと撫でるように空気を指で触れた。
その指先は、どこか哀しさを帯びているように見える。
「私、家で一人でいることが多くて……だから、学校が大好きだったんだ。友達といる時間だけが楽しかった。学校で笑って、明るく振る舞って、みんなに『美晴は元気だね』って言われるのが嬉しくて。でも……」
美晴は小さく息を吐き、日陰に視線を向けた。その瞳には、かすかな悲しみが宿っている。
「本当はね、もっと遊びたかった。お父さんとお母さんと、どこかに行きたかった。でも、そんなこと言えなかった。言ったら、お父さんがもっと疲れるんじゃないかって思ったから」
日陰はその言葉に胸が締め付けられるような感覚を覚えた。同時に、自分の家族のことが頭をよぎる。
小さい頃から毎年のように家族で旅行に行ったこと。今年の夏休みだって、両親から何度も誘われたけれど、全部断ったこと。写真部に入る時も、高価なカメラを当たり前のように買い与えられたこと――。
それらが、どれだけ特別で恵まれたことだったのか、初めて気づいた。
美晴は唇を少し噛み、辛い過去を思い出すような表情で続ける。
「……そんな毎日が続いて、高校に入る直前、トラックに轢かれる事故にあったんだ。」
その一言に、日陰は息を呑んだ。隣に座る美晴の横顔は、夕陽の光に包まれながらひまわり畑の一部のように見えた。しかし、その声には、彼女の明るい表情では決して隠しきれない深い影が宿っていた。
「その事故で……両足を失ったの。もう、動くことも自由に歩くこともできなくなった。」
淡々と語る美晴の声は、聞き手を拒むかのように感情を抑えていたが、その裏には癒えない傷が刻まれているのが伝わった。日陰は彼女の顔を見つめたが、美晴は視線をひまわり畑に向けたまま動かない。
「その時は、まだ生きているって実感が湧かなかった。むしろ、なんで私だけこんな目に遭わなきゃいけないんだろうって、そればっかり考えてた。」
彼女の声には、痛みと、自分ではどうしようもない絶望への苛立ちが滲んでいた。
「最初はね、いろんな人が見舞いに来てくれたんだ。お父さんも、友達も……でも、だんだん来なくなった。」
美晴の息が小さく漏れる。その声には、諦めと虚無が絡みついている。
「高校に入った友達はみんな忙しくなるし、お父さんも仕事でほとんど来られなくなった。……だから、病院のベッドで一人になる時間が増えて、気づいたら、ただ一日が終わるのを待つだけの毎日だった。」
その言葉を聞いた日陰は、胸が軋むような感覚に襲われた。病院の冷たいベッドの上で、美晴がどれほど孤独だったのか――その重さを想像するだけで、日陰は言葉を失った。
「夜中に目が覚めるとね、病院の天井がやたら白くて広く見えるんだ。真っ暗な中で、その白さが迫ってきて怖かった。」
美晴の声は笑いを含んでいるようにも聞こえたが、その笑顔は空虚で、どこか壊れやすそうだった。
「誰もいない静かな夜に、私はずっと考えてた。『私なんて、もう必要ないんじゃないか』って。……当たり前にできてたことが、何もできなくなってさ。走ることも、歩くことさえできなくなって、学校で友達と笑い合うことも。何の役にも立たないし、誰の支えにもなれない。そんな私が生きている意味なんて、あるのかなって。」
日陰は目の前が揺れるような感覚を覚えた。美晴の言葉が胸を突き刺し、ひとつひとつが痛みを伴って響く。
「でもね……」
美晴はひまわり畑を見つめながら、かすかに笑った。その笑顔には、明るさの裏に隠された傷が滲み出ているようだった。
「こんなこと、誰にも言えなかった。だから、一人で泣いてた。……寂しかったし、怖かった。でも、それを誰かに伝えたところで、もうどうにもならないって思ったから。」
日陰は言葉を出すことができなかった。自分の無力さが痛いほど分かった。
「……でもね、そんな時でも私、学校の友達のことをずっと思い出してた。あの頃は、みんなが私の居場所を作ってくれてたから。だから、少しでもその記憶があれば、耐えられる気がしてたんだ……。」
美晴は柔らかく微笑んだ。その笑顔は、言葉では表せないほどの強さを湛えていた。
「だから明るく振る舞おうって思ったの。いつまでも落ち込んでちゃダメだって。前を向かなきゃって。そうすれば、またどこかで自分の居場所が見つかるんじゃないかなって思って。」
彼女の声には、明るさと同時に悲しみも滲んでいた。それは、心の奥底から湧き出た本音だった。日陰はその言葉に胸を揺さぶられた。彼女の明るさは生まれつきのものではなく、彼女が必死に掴み取ったものなのだと痛感した。
「でも……現実はそんなに甘くなくてね。友達も……結局、誰も来なくなっちゃったの。…それで気づいちゃった。」
その言葉を聞いた日陰は、胸の中で何かが崩れる音を感じた。彼女が病室で味わった孤独と、愛情を求めて得られなかった苦しみ。それを想像するだけで、言葉が喉に詰まった。
「…もう私はこの世界には必要ないんだって…」
その言葉を聞いて日陰はその後の事が容易に想像できてしまった。
美晴はそこで自分の人生を諦め、終わらせたのだ。
「せめて……家族なら。お父さんがもっと……来てくれてたら……変わってたかな…」
美晴は震える声で言葉を紡ぐ。その目には、押し殺していた感情がじわりと浮かび上がっていた。
日陰はその姿を見つめながら、唇をきつく噛んだ。目の前にいる彼女が、これほど深い孤独と痛みを抱えていたことに気づけなかった自分を強く責めた。
「……美晴」
静かな声で彼女の名前を呼び、日陰は一度深く息を吐いた。
「……本当に何も気がつけなかった……それに、自分がどれだけ恵まれてたかも今更知った。」
その言葉は、彼自身の内面を抉るような響きを持っていた。彼は初めて、自分がどれだけ浅はかで、周りを見ていなかったかを思い知らされた。
「私と比べて自分が恵まれてるなんて思わなくていいんだよ。人それぞれ悩みはあるだろうし…。ただ、私は愛されてなかった。それだけだから。」
その言葉に、日陰の中で何かが切れたような感覚があった。
「そんなこと、絶対にないよ。だって……」
その瞬間、日陰の中で、ぐるぐると膨れ上がるような自問自答が始まった。
絶対なんて、何を根拠に?浅はかで、凄く無責任だろう。
美晴の話を聞いて、自分がどれだけ恵まれた環境にいたかに気付いたばかりの人間だ。
小さい頃から家族に愛され、何不自由なく育ち、退屈を言い訳に自分自身を変えようともせず、ただ流れるように当たり前の日常をやり過ごしてきた。
世界がつまらないのは世界のせいだと思い込むことで、自分の無気力を正当化してきた。
そんな人間が、何を偉そうに言えるんだ?
(俺なんかが……彼女に何かを伝える資格があるのか?)
自分の言葉がいかに無力かを痛感する。こんなにも空虚な言葉で、彼女を救えるはずがない。むしろ、それを聞かされる美晴はもっと傷つくのではないか――。
それでも、日陰は唇を噛みしめ、拳を固く握りしめた。
美晴の寂しげな表情を見て、ただ黙っていることの方が許せなかった。
たとえ空虚な言葉だとしても、それを言わなければ、自分自身を嫌いになってしまいそうだった。
俺の言葉なんて、きっと無力だ。それでも――言いたい。伝えたい。これだけは伝えたいんだ。
日陰は喉の奥から声を絞り出すように続けた。
「家族が美晴を愛していなかったら、君はこんなに明るくて、優しくて、心の綺麗な女性になんて育ってないよ」
その言葉を紡ぎ終えた瞬間、彼の中で何かが弾けるような感覚があった。心臓の鼓動が耳に響くほどに速くなり、顔が熱くなる。自分でも驚くほど強い声で言い切ってしまったことに、恥ずかしさと安堵が混ざり合う。
その言葉に、美晴は一瞬驚いたように目を丸くした。次いで、ほんの少し頬を赤らめる。その顔には、いつもの無邪気さではない、どこか真剣な感情が浮かんでいた。
「……ありがとう、日陰。なんか、ちょっとだけ救われた気がする」
その声は小さくて、けれど静かに心に響くものだった。美晴がゆっくりと立ち上がる。夕陽を背に、彼女の表情は少し遠くを見つめるようなものへと変わった。その姿は、どこか決意を感じさせる。
「……ねえ、日陰」
美晴の声は優しく、それでいて揺るぎないものだった。彼女は立ち止まり、ひまわり畑の外へと続く小道を指さすように視線を向ける。
「私が昔住んでた家……一緒についてきてくれないかな」
その言葉には少しの躊躇いを感じたが、まるで自分の心の中にある重い扉をそっと開けるような響きがあった。
日陰は一瞬驚き、返答に詰まる。しかし、すぐに美晴の横顔に視線を向け、その瞳の奥に宿る何かを感じ取る。彼女の決意。それは過去と向き合うための第一歩なのだと、自然と理解できた。
「……うん。行こう」
日陰の返事は短く、しかし心からのものだった。彼もまた、胸の奥にある感情が静かに動き出すのを感じていた。家族の温かさに囲まれて育ったはずだが、それを理解できていなかった自分。美晴の過去を聞いたことで、それがどれほど恵まれていて愚かなことであったか、痛いほど実感したのだ。
二人は並んで歩き出した。夕陽の光が背中を優しく照らしている。ひまわり畑の黄金色の景色が、彼らの背後に広がっていた。
美晴は前を見つめ、どこか静かな表情で言った。
「私ね、ずっと怖かったんだ……自分の生きていた頃を思い出すのが。あの家に行ったら、たぶん、いろんなことを思い出すと思う。でも……今はそれでいいかなって思えるの」
日陰は彼女の言葉を聞きながら、小さく頷いた。
家に行って美晴が何をするかはわからない。ただ、その横顔を見ていると、彼女がどれほど強い気持ちでこの旅を決意したのかが伝わってくる。
「美晴……」
「ん?」
日陰は一瞬言葉に詰まり、そしてそのまま言葉を飲み込んだ。彼女の覚悟に、自分が何かを言うよりも、ただ隣にいることが一番の応えになると思ったからだ。
「なんでもない」
「そっか」
美晴は柔らかく微笑むと、再び前を向く。その歩みは、どこか軽やかで、しかし確かなものだった。彼女の背中を見つめながら、日陰は心の中で小さく息を吐いた。
---
ひまわり畑を出て、園の門を抜けると、美晴が両手を頭の後ろに組みながら大きく伸びをした。
「さて!帰りが大変そうだけど、ヒッチハイク頑張りますかー!」
いつもの調子で楽しそうに声を上げる美晴。夕陽に照らされたその笑顔は、まるでこの世の何もかもを楽しんでいるかのようだった。
日陰はその姿を見て、少し安心しながらも、心の奥にほんの少しの後ろめたさを抱えていた。手元のトートバッグに入れた封筒の重みが、今になってずっしりと感じられる。
「……あのさ、美晴」
日陰が声をかけると、美晴がきょとんとした顔で振り返った。
「ん?どうしたの?」
「実は……帰りのこと、少し考えててさ」
日陰はバッグから封筒を取り出す。中にはきっちり揃った紙幣が入っていた。美晴がその中身に気づき、首を傾げる。
「それ、何?」
「これ……今朝、家を出る時に母さんからもらったんだ」
日陰は少し恥ずかしそうに頬を掻きながら説明を続けた。
「ヒッチハイクで宮城に行くって言ったら、もしもの時のためにって……新幹線の往復分の交通費を渡されてさ」
その言葉に、美晴は一瞬驚いたように目を丸くし、それからゆっくりと微笑んだ。
「……そっか。やっぱり愛されてるね、日陰」
その一言が心に深く刺さる。日陰は改めて、自分がどれだけ恵まれているのかを痛感し、静かに頷いた。
「本当にそうだよ。俺、自分がこんなに恵まれてたなんて、全然気づいてなかった。今回の旅でようやくわかった」
その言葉を聞き、美晴は再び柔らかく微笑んだ。
「じゃあさ、それで帰る?このままヒッチハイクだと、夜遅くなるし、きっとお母さん心配するよね」
「……そうだな。そうする」
日陰は頷き、封筒を見つめながら続けた。
「往復分あるから、美晴の分も払えるよ。一緒に新幹線で帰ろう」
その提案に、美晴は口元に手を当てて少し笑いながら首を横に振る。
「いやいや、私は透明になって隠れておくから、大丈夫だよ?」
「やめてくれ!犯罪だから!」
日陰が慌てて否定すると、美晴はケラケラと笑った。
「わかったわかった。本当にありがとうね。でも、まずは駅に行かないとだね。ここから最寄りの駅まで……結構遠そうだよね」
美晴の言葉に日陰は「確かに…」と頷き、ポケットから取り出したスマホで距離を調べた。
「古川駅まで10キロ……だってさ…。さすがにこれを歩くとなるとかなり時間かかるよな」
日陰は少し途方に暮れたように美晴に視線をやると
美晴が日陰のトートバッグからスケッチブックを取り出し、何かを書き始めた。
「ほら、またこれが活躍するよ!」
そう言って美晴が掲げたスケッチブックには、大きな文字で「古川駅行きたい」と書かれていた。美晴は得意げにそれを掲げ、日陰に向かってウィンクする。
「これで駅に向かう車を探そう!ね、日陰」
「……結局、またヒッチハイクか」
日陰は苦笑しながら、美晴と並んで歩き出した。車通りは少なく、しばらく歩きながらの挑戦になりそうだ。それでも、美晴が掲げるスケッチブックの文字が、どこか旅の続きへの期待感を漂わせていた。
「まぁ、これも旅の思い出の一つってことで」
美晴が笑いながら言うその言葉に、日陰も自然と笑みを浮かべた。
「……だな」
そう答えると、日陰はスケッチブックを掲げる美晴の横顔をちらりと見た。夕陽の残照が二人の背中を包み込む中、二人は真っ直ぐ歩いていく。
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新幹線の座席に腰を下ろした日陰は、窓の外に広がる夕焼けに目を向けながら、今日という一日を振り返っていた。5キロも歩いた果てにようやく地元の方の車に乗せてもらい、やっと辿り着いた古川駅。そこから新幹線に乗り込むまでの間、美晴はずっと笑顔でいてくれた。そんな彼女を見て、日陰は少し安堵している自分に気づいた。
座席に座ると同時に、どっと疲れが押し寄せてくる。しかし、それ以上に心に残るのは、ひまわり畑での時間だった。日陰は深く息を吐き出しながら、ふと隣に座る美晴の方へ目をやった。彼女は窓の外を見つめており、その瞳には何かを思い出しているような影が宿っていた。
新幹線が静かに動き出し、少しずつ景色が流れていく。すると、美晴が口を開いた。
「ねえ、日陰……明日は予定ある?」
その声は、いつもの明るさとは違い、どこか躊躇いを感じさせるものだった。日陰は少し驚きながらも、自然な調子で答える。
「特にはないけど……どうして?」
「友達とは、どこか行かないの?」
美晴は窓の外を見たまま、ぽつりと呟くように尋ねた。日陰はスマホを取り出して、画面を開く。すると、亮からのグループチャットのメッセージが目に入った。「夏休み最終日、花火大会行こうぜ!」という短いメッセージ。画面を美晴に見せながら、日陰は少し苦笑いを浮かべた。
「誘われてるけど……まだ行くか決めてない。ていうか、これしか誘われてないんだよな」
その言葉を聞いた美晴は一瞬目を丸くしたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「そっか……花火大会かぁ。いいなぁ」
そう呟く彼女の横顔は、なぜかとても儚げだった。まるで、そのまま消えてしまいそうなほどに透明で、か弱い。その表情に気づいた日陰は、言葉を失ったまま彼女を見つめていた。
「……予定ないなら、私が生きてた頃の家に着いてきてくれる約束…それ、明日でも良いかな…」
静かな声で美晴が言った。その声には、いつもの唐突さや明るさはなく、どこか遠慮がちで、ためらいが感じられた。まるで、日陰に断られることを期待しているような――そんな微妙な感情さえ漂っている。
しかし、日陰はその空気を壊すように、はっきりとした口調で言葉を放った。
「行こう」
彼の声は、驚くほど力強く、そして迷いがなかった。その言葉を聞いた美晴は、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにふっと笑みを浮かべた。
「ありがとう。日陰」
小さな声で、けれど確かにそう言った美晴の姿を見て、日陰の胸がじんわりと温かくなる。彼女のその笑顔には、どこか安心感が滲んでいた。
新幹線は滑らかに走り続け、流れる景色が次第に夜の闇に溶け込んでいく。
その後二人の間に特別な言葉はなかったが、その静けさの中には、確かな信頼と絆が漂っていた。
---
学校に戻ってきた頃には、夏の夜風が少し涼しく感じられるようになっていた。校門の前で立ち止まった二人は、ひまわり畑の余韻をまだどこかに残したまま、無言で空を見上げる。夜空にはいくつもの星が輝き、その静けさが一日を締めくくるように包み込んでいた。
「じゃあ、明日……またここで」
日陰が言うと、美晴はニッと笑いながら頷いた。
「うん!8時にね。遅刻しないでよ、日陰!」
「わ、わかってるよ」
美晴に軽くからかわれた日陰は、少し照れながら返事をする。その姿を見て満足げに笑った美晴は、軽く手を振りながら校門を抜けると、いつの間にか姿を消していた。
「やっぱり……慣れない…な」
そんな非現実的な光景に汗を滲ませ、一人残された日陰は校門を振り返りながら呟いた。
そして、トートバッグの中からカメラを取り出し、そっと確認する。
ひまわり畑で撮った数々の写真――その中でも、美晴の笑顔が写った写真を見つめると、自然と小さく息を吐き出していた。
---
家に帰り、シャワーを浴びてベッドに腰を下ろした日陰は、スマホを手にしながらぼんやりと天井を見つめていた。
(……濃い一日だったな)
ひまわり畑の眩しい黄色、美晴の無邪気な笑顔、ヒッチハイクの旅路、そして美晴の過去――あまりにも多くのことが詰め込まれた一日だった。日陰はふと目を閉じて、美晴の語った言葉を思い返す。
『私なんて、もう必要ないんじゃないか』
彼女の穏やかな声と共に滲み出ていた悲しみ。その裏にある孤独と痛みは、想像するだけで胸が締め付けられる。自分にはどうしても理解できない深さの傷。美晴の笑顔の裏には、こんなにも重たい過去があったのだと、改めて実感する。
(美晴……)
自然と呼び捨てで名前を思い浮かべた自分に気づき、日陰は急に顔が熱くなるのを感じた。
(呼び捨て…なんか急に恥ずかしくなってきた……)
動揺しながら頭を振る。
我ながら、よく頑張ったなと自分を褒めてやりたい。
すると吉賀の渋い声が不意に蘇る。
「良い彼女を持ったな」
その言葉が頭に浮かび上がった瞬間、日陰はベッドの上で飛び跳ねるようにして起き上がった。
「な、ななななな、なんでそれを今思い出すんだ!」
顔が真っ赤になり、手で頭を抱えながらベッドの上でゴロゴロと転がる。心臓が妙に速く鼓動しているのが自分でもわかる。
(美晴は……そういうんじゃない!全然違う!)
心の中で必死に否定するが、一度意識してしまうと、それが頭から離れない。美晴の笑顔、楽しそうな声、そして自分の名前を呼ぶときの柔らかい響き。それらが次々に脳裏に浮かび、どうしようもなく恥ずかしさが押し寄せてくる。
「……くそ、何を考えてんだ、俺……」
天井に視線を集中させ、必死に冷静になろうとする日陰。
だが上手くいかず、何かから隠れるように1人しかいない部屋の中で、布団に潜り込み悶え続ける。
それでも頭の中は美晴のことでいっぱいだった。
「俺は……美晴のことが……」
ふと呟きそうになったその瞬間、日陰は勢いよく布団から飛び起きた。
「いやいやいや、違う!!絶対違う!!」
声に出して強引に自分を否定する。頭を振り、深呼吸を繰り返すうちに、ようやく少しだけ冷静さを取り戻した。
「……明日は、美晴にとってすごく大切な日になる」
そう呟くと、日陰はスマホのアラームをセットし、ベッドに横たわった。目を閉じると、ふわりとひまわり畑の光景と、美晴の笑顔が脳裏に浮かぶ。
「……よし、早く寝よう」
日陰はそう言い聞かせながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
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