第六話「君と授業ごっこと切り取る青春」

日陰は、午前7時にセットされたアラーム音で目を覚ました。まだぼんやりとした頭でスマホを手探りし、画面を確認すると、新着通知のアイコンが目に入る。


(グループチャット……か)


スワイプして開いた画面には、星奈、翔子、亮、そして自分の4人が参加しているグループチャットが表示されていた。亮が海に行った日の夜、「撮った写真を送り合おう!」と張り切って作ったものだ。それ以来、そこに話題が投稿されることはほとんどなく、静かなものだったが、今朝は違っていた。

グループの最新通知に、亮の熱意に満ちたメッセージが表示されている。


『今年の夏休み最後の日!みんなで花火大会行こうぜ!』


「花火大会か……」


日陰はぼんやりと呟きながら、その言葉を目で追う。毎年この時期、近所で開催される割と大きめの花火大会を思い出した。今年ももうそんな時期かと考えながらスマホを閉じると、静かに息を吐いた。


(そういえば……海に行ってから、もう1週間か)


その言葉が頭をよぎると、自然とその時の記憶が蘇る。


「楽し…かったな」


自然と独り言が出る。胸の中に温かい感覚を覚え、

浸りつつも日陰は頭を振って意識を切り替える。

スマホをベッドの上に置き、身体を起こして伸びをした。


「よし!」


軽く呟いて、寝巻きを脱ぎ、普段着に着替える。そしてデスクの上に置いてあるカメラに目をやると、そっと手に取り、しっかりと握りしめた。


「今日こそは」


そう小さく呟いた言葉には、不思議なほどの決意が込められていた。ずっしりとしたカメラの重みが手のひらに伝わり、自然と背筋が伸びる。汗ばんだ掌が、その重さをさらに実感させた。

そして自室の扉を開けようとした瞬間、思い出したかのように「あっ」と呟き、デスクの横に掛けられたトートバッグを肩にかけた。何か準備していたのか中身が入っている。

その後、洗面台に立つと歯磨きをしながらぼんやりと鏡越しに自分を見つめる。

いつも通りの無表情な顔。しかし、その中に、どこか少しだけ違うものが映っている気がした。

軽く髪を整え、身だしなみを確認すると、玄関へと向かう。

靴を履き、鞄を肩にかけ、ドアノブを回して外に出ると、夏の朝の空気が身体を包み込んだ。少し湿った風が頬をかすめ、街の静けさの中で蝉の鳴き声が遠くに響いている。


「行ってきます」


小さく呟きながら玄関を閉めると、日陰は歩き出した。目指すのは、廃校だ。

まだ朝日が昇り切らない時間の柔らかな光が道を照らし、アスファルトに長い影を落としている。空の青さが徐々に深まっていく様子に、夏の日差しの強さが予感された。どこからか聞こえる鳥のさえずりが、耳に心地よく響く。

カメラを握る手が少し汗ばんでいるのは、夏の暑さのせいなのか、それとも胸の奥にある小さな緊張のせいなのか。日陰自身にもその理由は分からない。ただ、一歩一歩を確かめるように踏みしめながら、彼の足は確かに廃校へと向かっていた。


---


廃校への道を歩きながら、日陰は校門の向こうに並ぶ緑陽の桜並木を見上げた。夏の青空の下、まだ葉を茂らせた桜の木々が涼しげな影を地面に落としている。やがて校門が見えてきたその時、日陰の足は自然と止まった。

校門のすぐそばに、そこだけ別世界のような雰囲気を漂わせた姿があった。

美晴が、いつもの制服姿で立っている。夏の日差しに溶け込むような白い肌に、風になびく艶やかな髪。そして、その瞳には底知れない透明感が宿り、どこか儚げでありながらも、この世界に鮮やかな存在感を放っている。まるで夏の幻のような、神々しいまでの美しさだった。

彼女がふっと微笑んだ瞬間、日陰は思わず息を呑んだ。

──しかし、次の瞬間。


「何してたのーーーー!!!!!」


美晴が勢いよく駆け寄ってきたかと思うと、日陰の肩をポカポカと叩き始めた。その姿は、先ほどまでの神秘的な雰囲気を一瞬で吹き飛ばすほどにコミカルだった。


「え、な、何って……何が?」


日陰は慌てて両手を挙げながら、汗を滲ませて美晴の様子を伺う。


「全然会いに来てくれないから……!」


美晴は目を潤ませながら、寂しそうにぽつりと呟いた。その表情に、日陰は驚いたような顔をする。


「会いにって……約束してなかったし……」


声が小さくなりながら、日陰は自信なさげに答える。その言葉を口にした瞬間、彼の中でここ1週間の葛藤が脳裏をよぎった。

海に行ったあの日から、日陰は毎朝7時にアラームをセットしていた。しかし、その度にベッドの上で悩み続けた。

(約束もしていないのに、会いに行っていいものか……?)

何度も何度も自問し、その結果、「今日はやめておこう」と諦めてしまった日々が続いた。行く勇気を出せない自分に苛立ち、同時に、会いたいという思いを抱えること自体に戸惑っていた。

そんな自分を振り返り、日陰は唇を噛む。


「約束がないと会っちゃいけないの?会いたいと思わなかったの?」


美晴はぷんすかぷんすかと怒りながら、少しだけ頬を膨らませた。まるで小さな子どものような仕草に、日陰は視線を逸らしてしまう。

しばらく黙った後、彼は小さく息を吐き、目を伏せたまま呟いた。


「……会いたかった。だから今日来ました」


その言葉は、本当に小さな声だった。夏の風にかき消されそうなほどの微かな音。しかし、不思議とその声は確かに美晴の耳に届いた。

日陰は自分の耳にその言葉が返ってきた瞬間、何を口走ったのかと激しく後悔した。なんて恥ずかしいことを言っているんだ──。顔がじわりと熱くなるのを感じ、慌てて「今の無し!」と打ち消そうとしたその時、美晴の顔がわずかに赤くなったように見えた。いや、実際には赤くなっていないのかもしれない。ただ、どこか雰囲気がそんな気がする。


「ふーん……じゃあ許してあげる!」


美晴は視線を少し逸らし、若干そわそわしているようにも見えた。その姿が新鮮で、少し可愛らしいとすら思えてしまう。

美晴はくるりと踵を返し、校門の向こうを指さす。


「早く行こ!私、ずっと待ってたんだから!」


その背中を見つめながら、日陰は小さく頷く。そして彼女の後に続くように校舎へと足を進めた。


校舎の入り口近くに差し掛かった時、美晴が何かを思い出したように立ち止まり、振り返る。首を少しかしげながら、小さな声で問いかけた。


「……今日まで1週間とちょっと?くらい?かな……何してたの?」


突然の問いに、日陰は言葉に詰まる。亮たちと海に行った日のことが脳裏をよぎる。

ただ、それだけではない。この1週間、毎朝7時にアラームをセットしては廃校に来ようと決意し、その度に布団の上で悩み続け、結局勇気が出ずの繰り返しの生活を送っていたなんて恥ずかしくて言えない。


「いや、その……ちょっと、用事があって……」


「ふーん、用事?」


美晴はじっと日陰を見つめた。その視線に耐えきれず、日陰は顔を逸らす。


「べ、別にいいだろ……」


視線を外し、ぼそりと答える日陰に、美晴は小さなため息をついてみせた。


「そっか。私のこと忘れるくらいの用事だった?」


彼女の声には隠しきれない寂しさが滲んでいた。その言葉が胸に刺さり、日陰は慌てて言い返す。


「忘れるわけないだろ!ずっと……ずっと考えてた」


日陰の言葉に、美晴は驚いたように目を丸くする。それから、少し照れくさそうに口元を緩めて笑った。


「ははは……ストレートすぎるよ!いつからそんなに素直になったの?」


彼女の明るい笑い声には、嬉しさとほんの少しの寂しさが混じっているように思えた。

日陰は顔を真っ赤にして視線を泳がせながら、ぎこちなく答えた。


「美晴さんのせいだよ……」


その一言に、美晴の顔がぱっと明るくなり、目を輝かせる。


「そうやって思ったことをちゃんと言葉にしてくれて嬉しい」


彼女の言葉に、日陰はさらに恥ずかしさを感じたが、決して悪い気はしなかった。自分が少しずつ変わっているのを感じる。そして、その変化の理由が美晴だということも、心のどこかで分かっていた。


---


「今日は何しよっか?」


校舎に足を踏み入れると、美晴が軽やかに振り返って日陰に問いかけた。その声はどこか弾んでいて、彼女自身がこの時間を楽しみにしていたことが伝わってくる。


「あ!そうだ!約束してたひまわり畑でも行っちゃう?」


満面の笑みで提案する美晴に、日陰は一瞬考え込むような仕草を見せた。けれど、次の瞬間、彼はまるで意を決したかのように顔を上げる。


「いや、今日は校内の写真を撮りたいんだ」


その言葉には強い意志が感じられ、美晴は驚いたように目を瞬かせる。


「校内の写真?」


「あぁ、前にここで撮ったとき、結局外ばかりだったから……今日はその、校内で撮りたい」


日陰の言葉はぎこちなく聞こえたが、その裏に込められた思いを、美晴はすぐに察したようだった。彼が本当に撮りたいのは、美晴がこの学校で青春を送っているかのような、そんな瞬間なのだろう。


「いいね〜!私もその方が楽しいかも!」


美晴が笑顔でそう答えると、日陰は少しホッとしたように息を吐き、首にかけたカメラを軽く持ち上げる。


「前回撮れなかったし、今日はその分しっかり撮る」


「ふふっ、じゃあまた日陰が先生してくれるの?」


美晴がいたずらっぽく笑いながらそう尋ねると、日陰は一瞬顔をしかめたが、すぐに小さく頷く。


「ま、またか?…わかった。下手だけどやるよ」


その素直な返事に、美晴はにたーっと笑みを浮かべ、手を叩いて喜んだ。


「じゃあ決まりだね!それじゃ、日陰先生!まずはどこから行きますか?」


美晴が楽しそうに笑いながら尋ねた瞬間、日陰は自分の肩に掛けていたトートバッグを軽く持ち上げた。その動きに、美晴が不思議そうに首をかしげる。


「これ……使って」


日陰はそう言いながら、トートバッグの中から教科書とノート、それに筆記用具を取り出して美晴に差し出した。


「え、これって……?」


「教室で写真を撮るなら、やっぱりこういうのがあった方がリアルだろ?」


日陰はどこか恥ずかしそうに視線をそらしながら言った。その言葉を聞いて、美晴の顔がぱっと明るくなる。


「すごい!日陰、用意周到じゃん!先生のくせに、意外と気が利くね〜!」


美晴が嬉しそうに教科書を手に取ると、日陰は少しだけ照れくさそうに小さく肩をすくめた。


(先生のくせにってなんだ)


「いや、ただ思いついただけだし……別に大したことじゃない」


そう言いながらも、彼が教室での撮影をかなり真剣に考えているのが伝わってきた。美晴はノートとペンを大事そうに抱えながら微笑む。


「よーし!日陰先生の授業を真面目に受けて、いっぱい青春しちゃおっと!」


「……ちゃんと撮らせてくれるなら、それでいい」


日陰がそう言うと、美晴は満足そうに頷き、二人は教室へと向かった。


---


教室の窓から差し込む太陽の光が眩しい。外では蝉が勢いよく鳴き、真夏の朝の空気が校舎の中にも入り込んでいる。窓の外には大きな入道雲が悠々と浮かび、鮮やかな青空を背景にその存在感を主張していた。

日陰と美晴は、静かな廃校の中で唯一活気に満ちたこの教室に足を踏み入れた。机や椅子は多少の埃を被っているものの、その配置はかつてのままだ。

二人が座ると、一瞬だけ教室が本当に生徒で満ちていた頃を思い出させるような感覚が訪れる。


「蝉の声、すごいね。なんだか、本当に夏って感じ」


美晴が窓の外を見ながら呟く。陽射しを受けた彼女の姿は、まるでそこに溶け込むように美しかった。


「……確かにな」


日陰は美晴に渡した教科書とノートを見つめ、改めてその重みを感じていた。それを用意したのは軽い気持ちだったが、実際に美晴がそれを手に持ち、ここに座っている光景は、日陰の予想以上にリアルな高校生の姿で胸を打つものだった。


「はいはーい!日陰先生ー!授業まだですかー!」


美晴が教科書を机に置き、ノートを開く。その動作一つ一つが、彼女が「青春」というものを楽しもうとしている姿そのものだった。

ため息をつきながらも日陰は教壇に立ち、美晴にカメラのレンズを向ける。美晴がニタッと笑いながら日陰を見上げる。その笑顔はとても純粋で綺麗だった。


——カシャ。

というシャッター音とともにその笑顔が切り取られた。


---


次に訪れたのは理科室。

白衣を見つけた美晴は「日陰先生、これ着ていい?」と嬉しそうに尋ねる。


「好きにしてくれ……」


日陰は苦笑いで答える。それを聞いて嬉しそうに白衣を羽織る姿にカメラを構える手が少し止まった。彼女はいつもの無邪気な笑顔で振り返り、「似合う?」とくるりと回る。思ったより似合うな……と言う感想を心の中で呟いた後、その姿にカメラを向けた。


——カシャ。

可愛らしい仕草をシャッターに収める。

「日陰先生、この薬品混ぜてもいい?」美晴がイタズラっぽくビーカーを手に持つ。日陰はその手元を見つめながらカメラを構えた。


「……いや、それ、絶対危ないやつだろ」


「大丈夫だって〜!ほら、ほら〜」


美晴の明るい笑顔が理科室の中を照らしているかのように、窓の外の陽射しが強まり、理科室全体が夏の光で満たされていた。


---


昼頃、二人は図書室へと移動した。ここは他の場所よりも静かで、空気の中にわずかな埃の香りと古い紙の匂いが漂っている。


「本を読むふりとかする?」


美晴が一冊の分厚い本を手に取り、椅子に座る。窓から差し込む陽光がその髪を柔らかく照らしている。カメラを覗き込む日陰は、美晴の作り物のように綺麗で可憐なその佇まいに、ただただシャッターを切る。


——カシャ。


そして思わず見惚れてしまっていた日陰だったが、美晴の声がその静寂を破った。


「何これー!わっけわかんないや!」


分厚い本をパタンと閉じる美晴の仕草に、日陰はハッと我に返り、思わず苦笑した。


---


体育館に入ると、外の溶けてしまいそうになるほどの暑さとは反して、少しひんやりとした空気が二人を包み込んだ。

窓から差し込む陽射しが床を淡く照らし、その向こうに広がる夏空がぼんやりと映り込んでいる。静寂の中に聞こえるのは、外から微かに届く蝉の声だけ。


「日陰先生、バスケしよー!」


美晴が体育館の隅で見つけたバスケットボールを拾い上げて声を上げる。無邪気にボールを両手で持ちながら、日陰に視線を向けている。


「いや、バスケは専門外だ……前のでわかっただろ。せめて卓球にしてくれ」


「えー、日陰先生、ノリ悪い!卓球は球が小さくて難しいんだもん!」


文句を垂れながらバスケットボールを持ち、軽やかに駆け回る美晴。その姿は、まるで体育館そのものに命を吹き込むようだった。日陰は自然とカメラを構え、美晴の動きをフレームに収めていく。


——カシャ。


弾ける笑顔、軽やかな動き、そして窓から差し込む光が一つになり、そこだけ時間が止まったような錯覚を覚えた。


---


午後も過ぎ、夕陽が校舎をオレンジ色に染め始めるころ、美術室に立ち寄った二人。窓際の机に座った美晴が、使われなくなったスケッチブックを取り出し、楽しそうにペンを走らせ始めた。


「先生、これ、どう?」


差し出されたスケッチブックには、日陰と思しき人物が描かれていたが、どう見ても棒人間だった。

日陰は思わず吹き出し、その絵をフレームに収めながらシャッターを切った。


——カシャ。


「……笑いすぎ!私なりに頑張ったんだよ!」


「棒人間を……?」


「もう!先生失格!教育委員会に言いつけます!」


二人の笑い声が、美術室の静けさを暖かく包む。窓の外には夕陽が沈み始め、校舎全体が赤く染まっている。美晴の横顔を見つめながら、日陰は今日一日の時間がとても短く感じられた。


「さて、先生。授業もそろそろ終わりかな?」


美晴が振り返り、穏やかに微笑む。その笑顔には、どこか切なさも含まれているように見えた。

一瞬の躊躇の後、日陰はカメラを構え直し、言葉を絞り出す。


「……あと、音楽室とか、どうかな」


美晴は満足げに微笑みながら小さく頷いた。


---


音楽室には、鍵盤が開かれたままのピアノ、並んだ譜面台、壁際に立てかけられた楽器たちが静かに佇んでいた。どこか寂れた雰囲気が漂っているが、それがまた廃校の一部として魅力を増している。


「日陰先生、音楽教えられるの?」


美晴がニコニコしながらピアノの前に腰掛ける。日陰は窓際の譜面台に置かれた古びた楽譜を手に取り、苦笑を浮かべた。


「いや、音楽はさっぱり……とりあえず、適当に弾いてみてくれ」


「適当でいいの!?じゃあ……こんな感じ!」


美晴が鍵盤を軽く叩くと、不揃いな音が音楽室に響く。彼女はそんな音でも楽しそうに笑い、手元を見つめていた。その姿に、日陰は思わずシャッターを切る。


「ほら、次は日陰先生が弾いてみてよ」


美晴が席を立ち、日陰を手招きする。渋々ピアノの前に座る日陰だったが、鍵盤を叩くと出てきた音は、不協和音の嵐だった。


「ぶはっ!日陰先生、不器用すぎ!」


美晴が大笑いしながら、ピアノの隣に腰掛ける。赤くなった顔を隠すようにピアノに向き直る日陰を、美晴は隣で楽しそうに眺めていた。 


---


廊下に射し込む夕陽が校舎全体を優しく包み込んでいる。日陰と美晴は音楽室を出て、並んで歩いていた。その時、美晴がふと足を止め、日陰に向き直る。


「ねぇ日陰。一緒に写真撮ろうよ」


不意の誘いに、日陰は目を丸くし、思わず顔を背けた。


「お、俺は……いいよ」


一瞬、翔子のことを思い出す。

あの時、翔子が日陰に見せた感情を思い返し、「ああ、そういうことか」と心の中で呟く。美晴の笑顔をシャッターに収めるだけではなく、自分も一緒にその瞬間にいたい。そんな感情が自分の中にもあるのだと、日陰は初めて気づいた。


(俺も美晴さんと一緒に写真を撮りたかったのかもしれない)


「もーー!貸して!」


美晴が笑顔で日陰の首にかけられたカメラを奪い取り、レンズをこちらに向ける。そして、彼に体を寄せるように近づき、自撮りのポーズでシャッターを押した。


——カシャ。


画面に映るのは、無表情で固まった日陰と、いたずらっぽく笑う美晴のツーショットだった。


「わーー!!日陰、なんなのこの顔ー!!」


写真を見た美晴がケラケラと笑い出す。


「消せ!!消してくれ、マジで!」


日陰は恥ずかしさのあまり声を荒げるが、美晴はさらに笑いながらカメラを守るように抱きかかえた。

二人の声が廊下に響き、夕焼けの空とともに校舎に溶け込んでいった。 


---


夜風がやさしく吹き、廃校の門の前で日陰と美晴は並んで立っていた。夕焼けが地平線に沈み、空は深い紺色に染まり始めている。虫の声が遠くで響き、夏の終わりの静けさが辺りを包んでいた。


「今日もすっごく楽しかった!」


美晴が満面の笑みを浮かべ、校門の錆びた柵に手を添えながら明るく言う。その声には、心の底から楽しいと思っている気持ちがにじみ出ていた。


「俺も……」


日陰は少しだけ照れたように視線を逸らしながら、小さめの声で応える。それでも口元には自然と微笑みが浮かんでいた。


「私の青春を切り取ってくれてありがとう!」


美晴はイタズラっぽい笑みを浮かべ、日陰の方をじっと見つめる。その言葉に、日陰は少し誇らしげな気持ちを抱きながら「役に立てたなら良かったです」と心の中で呟く。

ふと、美晴が先ほどの笑顔を消して真面目な表情になり、じっと日陰を見つめた。

その様子を見て何か伝えなければと思い、日陰が口を開く。


「俺……多分、友達ができたんだ」


日陰がぽつりと呟く。その言葉には、彼自身が驚いているような戸惑いと、ほんの少しの自信が混じっていた。


「なんかね!そんな感じしたよ!」


美晴は驚くこともなく、どこか嬉しそうに、そして納得したような顔で応じる。その反応に日陰は驚きを隠せない。


「え?」


日陰は思わず美晴の顔をじっと見る。その視線に、美晴は微笑んだまま続ける。


「なんか今日はすごく素直だし、『会いたかった』とかちゃんと言葉にしてくれるからさ!誰かが日陰に影響を与えたのかなって」


その言葉に、日陰は一瞬息を呑む。彼にとってそんな風に自分を変えてくれる存在は美晴以外に思いつかなかった。だが、美晴の言葉を聞いて、ふと海での出来事や、亮、翔子、星奈とのやり取りが頭に浮かぶ。


(……確かに美晴さんの影響は大きい。でも、他にも何か、少しずつ変わった要因があるのかもしれない……)


そう考えた瞬間、胸の奥に妙な感覚が生まれた。自分自身が少しずつ世界と繋がりを持ち始めているのではないかという期待と、それに対する漠然とした不安。


「で?それは女の子?」


ふいに美晴の声が低くなり、ジト目でこちらを見つめているのに気づく。どこかおもしろくないと言わんばかりの表情だった。


「え……あ……まぁ女の子も……かな……いや、女の子は友達なのかな……」


日陰はしどろもどろになりながら答えるが、頭の中では亮を思い浮かべつつ、翔子と星奈の顔も自然と浮かんでしまう。


(……いや、あの二人は友達って言っていいのか?俺だけがそう思ってたら、めちゃくちゃ痛いやつだよな……)


そんなことを考えていると、美晴が急に身を乗り出し、大げさに声を上げた。


「あーーーーー!!!女の子なんだ!しかも友達かあやふやってことは、まさか!付き合って……」


「いや!付き合うとか!そんなことは絶対ない!!!」


日陰は顔を真っ赤にしながら全力で否定する。その必死さに、美晴は肩を揺らして笑った。


「なーんだ!まぁそこまで急展開はないか、日陰だし」


美晴はあっけらかんとした口調で言い放つが、どこか日陰をからかうようなトーンだった。その一言に、日陰は少しムッとした表情を浮かべるが、反論の言葉が見つからず、ぐっと唇を噛んだ。


(……言い返せないけど、なんか悔しいな)


日陰は心の中でそう呟きながらも、なぜか居心地の良さを感じていた。美晴との何気ないやり取りは、どこか日常に溶け込むような温かさがあった。


「友達とは写真撮ったの?」


ふいに、美晴が興味を引くような口調で問いかけてきた。日陰は驚きながらも、ほんのりと微笑んで頷く。


「……うん」


その返事には少しの照れ臭さと、どこか誇らしげな響きが混ざっていた。


「いいねぇ〜!!見せてよ!」


美晴がぱっと目を輝かせて前のめりに言う。その明るい声に、日陰は少しだけ戸惑ったように眉を下げた。その反応を見逃さず、美晴は怪しむようにジト目を向けてくる。


「なに〜?やましい写真でもあるのかな〜?」


「いや、ないって!ほら!」


日陰は慌ててカメラを操作し、美晴に画面を見せる準備をする。どこか落ち着かない様子でカメラを差し出すと、美晴はそれを受け取り、興味津々で画面を覗き込んだ。


「うわ!!!!海じゃん!!!!また行ったんだ!パリピじゃん!」


美晴が驚きの声を上げる。画面に映るのは、青い空と広がる海。美晴の表情が一段と明るくなった。


(パリピって…久しぶりに聞いたな…)


「すご!日陰とは真反対みたいに元気そうな子だね!」


ピースを決めて仁王立ちしている亮の写真を見て、美晴はニコニコと笑う。その無邪気な笑顔に、日陰は少しだけ気恥ずかしさを覚えた。

美晴は写真をスライドしながら、次々と画面を操作していく。明るい海の景色、笑顔の亮、そして何気ない一枚一枚に目を止めていたが、ある瞬間、動きを止めた。


「なっ!?か、可愛い!!」


突然驚きの声を上げる美晴。画面に映るのは、翔子と星奈の写真だ。翔子の清楚な笑顔と、星奈の圧倒的な存在感。彼女たちの姿に、美晴は目を丸くした。


「で、でかいっ……」


星奈の胸元に視線をやり、圧倒されるように息を吐く美晴。そして、じっと日陰を見つめた。


「はは〜ん。こういう子がタイプなんだね〜日陰さん」


美晴がニタニタと笑いながら意地悪そうに言う。その言葉に、日陰は顔を真っ赤に染め、慌てて大きく手を振った。

「だから!そういうのじゃないから!!!」

全力で否定する日陰の必死な様子に、美晴はびっくりしつつも大笑いした。


「ご、ごめんごめん!でもそこまで否定すると逆に本当っぽいからね!」


美晴は楽しそうに肩を揺らしながら笑う。その言葉に、日陰はぐっと言葉を詰まらせ、さらに顔を赤くしてしまった。


(……否定すればするほど怪しくなるなんて、理不尽だろ……)


内心でそんな不満を抱えながらも、日陰は恥ずかしさを隠しきれない。


「この写真、すごくいいね!!!」


美晴がスライドする手を止め、嬉しそうに言った。その写真には、日陰、亮、翔子、星奈が並び、背景には青々と輝く海と夏を彩る入道雲が広がっていた。眩しい夏の瞬間を切り取ったその写真を、美晴はじっと見つめている。


「ぷはっ!日陰の顔なんなの」


美晴が吹き出すように笑った。写真に写る日陰の顔は、ぎこちない笑顔。むしろ、笑顔と言っていいのか迷うほど不自然な表情だった。


「う、うるさいな!もう返せ!」


日陰は恥ずかしさに耐えきれず、美晴からカメラを奪い取る。その動きに、美晴は口を尖らせ、ぷくっと頬を膨らませた。


「あーーもう!ケチ!」


美晴がむくれた顔を見せた瞬間、日陰は思わず笑ってしまった。その声に、彼女もつられて笑みを浮かべる。廃校の校門前、二人の笑い声が夏の夜の静けさの中で優しく響いていた。


「決めた!」


美晴が突然声を上げる。腰に左手を当て、バシッと右手の人差し指を日陰の方に向けている。月明かりに照らされて、その仕草が妙に堂々として見える。

日陰は一瞬驚き、何のことだと続きを待つ。


「日陰が自然な笑顔のツーショットを撮ろう!」


その言葉に、日陰は思わず頭の上に『?』マークを浮かべたような表情になる。


「だから!私が日陰の自然な笑顔を引き出すの!その瞬間に一緒に写真を撮るの!」


美晴の勢いに圧倒されながらも、その内容を理解した日陰は急に恥ずかしさを覚えた。カメラを向けられると、どうしてもぎこちなくなってしまう。

自分が写真の被写体になることが得意ではないことは、日陰自身が一番よく分かっている。


「あとね。ちょっとだけ……悔しいから」


急に美晴の声色が変わる。その言葉には、どこか寂しさを含んでいるような響きがあった。日陰は思わず美晴をじっと見つめる。


「日陰が楽しそうで凄く嬉しいんだけどね!」


美晴はぱっと表情を明るくし、まるで誤魔化すように勢いを取り戻した。


「でももっと楽しいって思ってほしいの!恥ずかしいとかそんなのなしで、自然に笑顔になって私と一緒に写真を撮るの!」


断言するように言い切る美晴。その堂々とした言葉に、日陰は目を丸くする。自分が自然な笑顔で写真に収まるなんて想像できなかったが、美晴がそこまで真剣に言うものだから、顔がどんどん赤くなっていく。


「な、なんだよそれ……」


日陰が照れくさそうに呟くと、美晴は満足げにニターと笑う。そして、あっけらかんとした口調で続けた。


「明日、ひまわり畑でそれを実行します!」


その言葉に、日陰は目を見開いて驚きの声を上げる。


「あ、明日?」


急に予定を決めてくる美晴に、思わず声が上ずった。美晴の行動力には感心しつつも、日陰は戸惑いを隠せない。


「え?予定入ってた?」


美晴が首をかしげ、無邪気に尋ねてくる。その仕草が自然すぎて、日陰は言葉を詰まらせた。確かに予定はない。ただ、この数日で海に二度も行ったことで、出費がかさんでいるのも事実だ。


「い、いいけど……あんまり遠くだと交通費が……」


日陰は申し訳なさそうに視線を逸らしながら言う。すると、美晴は一瞬『?』という表情を浮かべた後、「あ!」と何かに気づいたように手を打った。


「違うんだよ日陰く〜ん!今回はヒッチハイクで行こうと思ってるの!」


美晴が自信満々の笑顔で得意げにそう言った瞬間、日陰の思考は一瞬止まった。そして、次の瞬間、言葉が反射的に口から飛び出る。


「ひ、ヒッチハイク!?」


その声が廃校の静寂を突き破るように響き渡る。夜の校庭に反射したその声は、どこかシュールなほど大きく、空に吸い込まれていった。

美晴はその響きに満足げにクスクス笑いながら、「やっぱり青春っぽいでしょ?」と、さらりと言い放つ。

一方の日陰は、呆れと戸惑い、そして諦めが入り混じった表情で立ち尽くしていた。

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