第9話
全くと言っていいほど知らなくて驚いたこともあった。
それは母がこの家に年に数回姿を見せては掃除や片付けをしていたことだ。
荷物は粗方纏められていて中身も綺麗に整えられている。自宅にもある曽祖父母の遺影も先祖の遺影が飾られた仏間も綺麗であり、私が中学高校と趣味で描いていた油絵とそれに伴っての賞状なども置かれていて、私のことを仏前で報告している母の姿を思い起こさせる。
母は優しくて強い人だった。
一度は悲しみの淵に立たされてどんなに苦しくなろうとも、しっかりと立ち上がって前を向いて進んでゆくことのできる立派な女性だ。だから今は意識がなくともやがては目覚めて立ち上がってくれるに違いないと娘の私が確信を抱けるほどに。
ふと分厚い一冊の10年日記帳が仏壇横に置かれているのに気がついた。
手にとってページを捲る。曽祖母の最後の日まで途絶えることなく綴られた日記帳だった。
毎日のあれやこれやの出来事がスラリスラリと書き記されていて、私が生まれて毎年の夏休みに来る度の成長していく姿が溢れんばかりの喜び伴って噛み締めている旨が事細かに普段と違う踊る文字で書かれていた。そして5歳の最後となってしまった夏休みの帰ってしまった日、そのページに書き出された一文を見つけた。
『布袋 鴻池 あずさの名入り』
「なんだろう……」
不思議に思いながらゆっくりとページを巡っては読み進めてゆく。
あの日を境に途切れた日記帳の白紙を3ページほど捲った時のこと。
大きな付箋が貼り付けられていて日付と共にそこに母の力強い言葉がしっかりとした文字で書かれていた。
『もう大丈夫だから安心してね、二人に育てて貰ったように、私はあずさを立派に育ててみせるから見守ってください。時折、知らせに来るから聞いてね』
仏前でより深く拝み知らせている姿が思い浮かぶ、ページを捲るごとに貼られた付箋には事細かに私の成長が母の思いと共に記されて末尾には必ずどうか見守ってくださいとの言葉で締め括られていた。
読み進めるごとに私が如何に愛しみ深く育まれたかがよく理解できるほどに、じんわりと沁み込むような一言一句で満ち溢れていた。
じんわりと心から沸き上がる涙が溢れ出してポロポロと落ちて膝を濡らしてゆく、慌てて袖口で拭ったがこんこんと湧き出でる涙を止めることなどできす、ギュッと唇に力を入れ声だけは漏らさないように我慢した。
トイレから戻ってきた康太が部屋に現れ、私を見てから気まずそうな顔をしたが、やがて意を決したように私に声をかけてきた。
「なあ、泣けよ」
「なか、ない……」
日記帳を手に持ち固まったままで涙を零す私に駆け寄ってきた康太は背中を叱るかのように優しく叩く。
「我慢する奴があるか!しっかり声を上げて泣けよ、泣ける時に泣かないでどうすんだよ、溜めてばかりいたら壊れるぞ、誰も聞いてないんだから泣けよ、しっかりと泣けばいいんだよ」
叩かれた後に優しく背中を摩られ、同じくらいに優しく厳しい言葉に私は堰を切ったように色々なものが溢れ出ていくるのが分かった。
あの日、父の死と母の入院からずっとずっと心の奥底に吹き溜まっていた理不尽に対しての苦しさや辛さ、患難辛苦などでは到底収まらない我慢に我慢を重ねた思いが、母の文字で綴られた優しさで癒され、一人で頑張り続けていた私には背中を摩ってくれる温かさと言葉に縋るように甘えてしまうのは致し方ないことだと思う。
暫くの間、私は初めてしっかりと声を上げて泣き続けていた。
そして康太の胸の内に抱きしめられると縋るようして更に泣き、康太はただ優しく抱き止めては背中をゆっくりゆっくりと摩ってくれたのだった。
からんころんでカッカッカッ! 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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