第8話

「行ってきます」


 スーツケースにお泊まりのための一式を詰め込んで、朝なのに薄暗く陰気を宿らせる玄関に声をかけた。母の暖かな見送りの言葉など聞こえるはずはないのに、あるはずがないのに欠かさずに毎日、毎日欠かさずに口にする。


 やめてしまうと家さえも消えてしまうような気がするから。


 車庫に止められている父の車に初心者マークを貼り付け運転席に座った。

 母の退院に備えて免許をとり運転にもだいぶ慣れた。

 駐車場からエンジンをかける以外には動くことのない母のワンボックス。

 それとは別の小さな車。

 小型車が大好きな父は通勤用にずっとコペンに乗っていた。

 高校卒業に合わせ、母には内緒で私と相談してくれてコペンの新車を購入した。

 将来は私に譲るからと言ってくれており、だからだろう、この車に乗っていると父に守られている気持ちになる。

 とても身近に感じられて安心感に甘え、マニュアル車であるが故に運転中は他所事を考える暇などないこともありがたかった。

 Amazon musicでランダムに音楽を聴きながら、名古屋から郡上八幡インターまでをPAであったりSAであったりに立ち寄っては休憩を挟みながら走っていく。


 家族連れを見る度に心が軋む。

 羨ましい。

 いや、恨めしい。

 世の中はこんなにも幸せが溢れているのに。

 私の家族はどうして…。


 怨嗟の旅路は大した渋滞もなく、午前9時前に郡上八幡のインターを無事に通過した。

 馬鹿みたいに車内で涙を溢しながら。

 国道256号線を疾走し郡上市役所の前を抜けて、特徴的な形の総合スポーツセンターの脇から暫く吉田川沿いの先に目的地見えてくる。

 森と川沿いの挟まれたところに平屋建ての日本家屋だ。駆け回った記憶のある広い庭、その前に止まっている「旭酒店」とデカデカと表記されたハイエースが見えた。


 それにあの親戚の男の子が乗っているはずだった。


 布団で目覚めると見知らぬメールとレインが入っていて、親戚の息子さんであるくだんの男の子、康太くんからだった。

『連絡ないので記しておきます、明日朝9時に家の前で待ってます、時間はあるのでゆっくり来てください。可能なら連絡くれると嬉しいです」

連絡が入っていた、連絡をしなかった非礼を詫び、その時間に間に合わせることの返事を送っていた。

 そして今、慎重にその車の後ろにつけてエンジンを切って車を止める、するとこちらに気がついたのだろう、ハイエースの運転席のドアが開いた。


「人違いだったのかな……」


 降りてきた男性を見て思わず声を上げてしまう。

 降りてきた人影に過去の坊主頭の男の子の面影は消え去っていたからだ。

 白い半袖Tシャツ、デニムにスニーカー、至ってシンプルだけれど雰囲気にマッチしている。引き締まった体に筋肉質な腕、精悍な顔立ちはとても素敵だった。180センチを超える長身、芸能人かと思うほどの格好の良さ、思わず戸惑ってしまった。

 そして次の瞬間、警戒心を解くかのようにだらしなく大欠伸をしてから両手を天高く伸ばし、気だるそうにこちらをじっと見つめてくる。


「康太くん?」


 恐る恐る車から降りて私がそう呼びかけると、彼は返事ではなく首を縦に振り、家を指差した。


「朝方、お袋が窓とか開けて簡単な掃除はしたらしい。一階の辺りから見て欲しいってさ」

「う、うん」


 近寄ってきた康太くんに思わず後退る、路肩の水の流れる小さな用水路に片足が取られて、あやうく転びそうになった私の手を慌てて駆け寄った康太くんが掴んだ。


「そんなに怖がらなくても…」

「違うの、ごめんなさい」


 私は顔を真っ赤にしていたと思う、康太くんはクスッと笑ってから私の手を引いて引き寄せた。


「あと、今夜はお袋がウチに泊まれって、一人でこの家に泊まるつもりなら危ないからやめなさいってさ、1日俺も片付けに付き合うことになってるから、よろしくね」

「迷惑かけてごめんなさい、でも、一人で……」

「途中で帰ったらお袋に何言われるか分かんないから、邪魔んならないところで大人しくしてる、遠慮しないでこき使ってくれてかまわないから」


 断りをいれようとして康太くんは手を放し、そのまま先に家の方へと入っていく、私は慌てながら後を追って中へと向かった。

 玄関から続くすべての部屋は掃除をする必要がないほどに綺麗に片付けられていた。

 塵一つなく、埃っぽくもない、廊下も、床の間も、キッチンも、トイレも風呂場も、すべてがすぐに使えるほど清潔で美しく保たれている。


「お袋にとっても、この家は思い入れが強いからな、お母さんとウチのお袋、じつは同窓生っての知ってた?」


 長窓が続く廊下で立ち止まった康太くんが吉田川の流れを見つめてそう口にする。


「そうなんだ、康太くん……」

「康太でいい、呼びにくいでしょ、歳も近いし、ああ、頭の出来は違って馬鹿だけど、そこは気にしないでいいから」


 そう言って笑う康太の横顔に、坊主頭の男の子だった頃の笑みを垣間見た気がした。


「康太」


 すっと口をついて呼ぶことができた。

 気恥ずかしさもなにもなくだ。


「うん、それでいいよ」


 腕がこちらに伸びてきて私の頭に手が置かれる。

 髪の毛をクシャクシャされながら頭を撫でられる。幼い頃から頭を撫でられることからとても嫌だったのに、今はその温かさに触れていられることが嬉しかった。


「さて、片付けというか、何がどこのあるかだけでも把握していこう」

「うん、よろしくお願いします」

「よろしくでいいよ、よろしくで」


 再び彼が同じように笑った。

 私も久しぶりに笑うことができた。

 こうして各部屋の見分が始まり、私達は夕方近くまで、部屋にあるものを押し入れから棚中に至るまで持ってきた私のiPadに書き記していく。

 良く分からないモノには写真を撮った。

 康太は寡黙な人かと思いきや意外とおしゃべりだった。今の八幡のことや家業のこと、街のことなどを 私の気を紛らわすかのように語ってくれて、それを聞きながら時より返事をして作業を進めていく、話してくれることが深く考え込むようなことをさせずに居させてくれた。

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