第6話 夫の常識がおかしい
ルーチェは今日、クラウスと洋服を買いに来たのだ。店を買いに来たわけじゃない。
馬車の中でクラウスも、服を買おうと言っている。ルーチェの記憶違いではない。
「クラウス、今日は店じゃなくて、服を買いましょう」
「でも店を買った方が、いつでも新しい服が手に入るよ。ルーチェの魅力を最大限に引き出せるデザイナーが、常にあなたのために服を作り続けるのが良いと思って」
「バルト伯爵の言う通りですね」
オーナーはなぜかうんうんと頷いている。
(職人の意地とかで、自分の好みに合った人にしか服を作らないとか言ってきたりしないのから?)
ルーチェのそんな疑問を見透かしたように、オーナーは口開く。
「ご安心ください、奥様。財力のある方々は、職人を専属としてお抱えにする事があります。今回も規模が少し違いますが、そのようなものです。あまりお気になさらずとも、大丈夫ですよ」
「そうなのね」
(……これはお金持ちな貴族の、常識なのかしら?)
ルーチェには全く遠い世界の常識だった。しかしクラウスもオーナーも気にしている様子もないので、とりあえずそういうものなのねと納得した。
「じゃあとりあえず、この店を買おう。ルーチェの好きな服を選ぼう。明るい色の服が似合いそうだ。橙色が好きって言っていたね。まずはその色合いの服を来て見せて」
「どうぞ奥様、こちらカタログになります。実際の品物も、すぐにお持ちいたしますよ」
店の買い物で、服だけじゃなく、帽子や靴まで。すべて自分の好きに選べたのは、初めてだった。
母や姉から押し付けられた物は、ひとつひとつはそれなりにまともだけど、組み合わせるとおかしなものばかり。
ルーチェはいつも、そのおかしなものを身に付けて出かけるしかなかった。
笑われたって、両親や姉はルーチェのことを気にしたりしなかった。
兄は恥ずかしいから近付くなと怒った。
妹は、ルーチェの手を引いて歩き、人前で聞こえるように、今度は私がお姉様の服を選んであげるわと言っていた。
一度たりとも、妹がルーチェの服を選んでくれたことも、プレゼントしてくれたこともないけれど。
「すごい、よく似合っているよ、ルーチェ」
「本当によくお似合いです、奥様」
鏡に映った自分の姿を、クラウスや店員たちが称賛した。お世辞かもしれないけれど、ルーチェは褒められたことに嬉しさを感じた。
「華やかな色合いがとても可愛いよ、ルーチェ。花が咲き誇っているかのようで、本当に綺麗だ。あなたは綺麗で可愛い」
「褒めすぎだわ」
「いいじゃないか、私がそう思っていることを、あなたに伝えたいのだから」
ダメだったのかと少ししょんぼりとした顔で見つめられたルーチェは、ダメじゃないわとしか言えなかった。
(クラウスにそんな顔で見られるのは、耐えられない)
可愛いと一度思ってしまったら、あとはもうそうとしか思えないのだと、ルーチェは知った。
クラウスがルーチェにおねだりでもするかのように、ダメなのかと尋ねてくるときの顔。その顔を見ていると、なんでも許してしまいそうになるのだ。たった一日で自分は、よく知らない夫に諭され始めている。
(……きっと、こういうところが。私の悪いところよね)
少しだけ優しくされると、すぐに相手のことを受け入れてしまう。その後でひどく惨めな思いをしたとしても、また優しくされるかもしれないと期待して、理不尽なことでも耐えてしまうのだ。
ルーチェの家族がそうであったように、クラウスもそうかもしれない。それを忘れないようにしなければと、ルーチェは手をきつく握りしめた。
「ルーチェ?」
「……なんでもないわ、クラウス」
「そう、疲れたのなら、少し休もうか」
気遣ってくれるクラウスに、ルーチェはもう一度強く大丈夫だと主張した。それなら良いけどと、クラウスはそれ以上言ってこなかった。
(彼が優しいからって、勘違いしてはだめ。みじめなおもいをするのは、もうこりごりだもの)
「素敵な服を買ってくれて、ありがとう」
クラウスにお礼を言うと、満面の笑みを浮かべて喜ばれた。夫とは適度な距離を保って、友好的な関係でいようとルーチェは思った。
「ルーチェが喜んでくれて良かった!」
どんな思惑があるにしろ、彼はルーチェに今のところは優しい。このままでいてほしいが、そうはならない可能性の方が高い。だからいつか離婚されても良いように、覚悟を決めておかないといけない。
(きっとこれも、一時の夢だもの)
ルーチェが悲壮な思いで覚悟を決めている間、クラウスは喜びの言葉を喋り続けていた。そしてついには、ルーチェの前で跪いて言った。
「あなたのためなら、私は財産の全てを差し出しても良いと思っているんだ。遺産相続の話をしたついでに、今日は他の財産の譲渡の話でもしないかい? ルーチェはどんな鉱山が良いとかあるかい? さっきの服に似合う宝石は、やっぱりダイヤモンドだと思うから、その鉱山をルーチェに……」
「待って」
「……あ、もしかして金鉱山が良かったかい。あそこはあと十年くらいで、鉱脈が尽きると思うから、あまりおすすめはできないけど……」
「違うわ、クラウス。そうじゃないの」
「もしかしてえめらるどかい? それともルビー? アメジスト? その辺りも鉱山も所有しているけど、規模が小さいから。貴方に相応しい宝石の採掘量がある鉱山を、今からでも買おうか」
「クラウス、ちょっと落ち着いて」
(距離を保とうとした途端、財産譲渡の話って、どういうことなの)
距離の詰め方がおかしい。
これがお金持ちの常識なのかと一度は納得しかけたルーチェだったが、やっぱり常識と照らし合わせても、クラウスの行動はおかしいと思う。
「クラウス、そういうものは気軽に他人に渡そうとしてはダメよ」
「でもルーチェと私は、夫婦だから他人じゃない……」
「ふ、夫婦でも簡単に渡してはいけないわ」
じっとクラウスに見つめられ、彼の言葉を思わず肯定しそうになってしまった。先程の決意など簡単に吹き飛びそうになり、ルーチェは自分の不甲斐なさを責めた。
「クラウス。そういうことは、もう少し時間をおいてから話しましょう。ね?」
「……ルーチェがそう言うのなら」
しょんぼりとした様子で、クラウスが頷いた。その姿があんまりにも可哀想に思えてしまって、ルーチェはクラウスの手を取ると、街歩きをしましょうと提案した。
「せっかく旦那様と街に来ているのだから、いろいろとお店を見て回りたいの。クラウス、私に付き合ってくださらない?」
目を瞬かせたクラウスは、見る間に笑顔となる。ルーチェの手を握り返し、もちろんだよと頷いてくれたのだった。
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