第5話 思っていることは口に出すべき

 朝、目を覚ました時にはすでに、ベッドにはクラウスはいなかった。

 どんな顔をして起きれば良いのだろうと、眠る寸前に悩んでいたことが馬鹿らしい。ある意味安心したルーチェだったが、少しだけ寂しいと思ってしまった。


「おはようございます、奥様。よろしいでしょうか?」


 扉がノックされ、外からノーラの声が聞こえてきた。どうぞと声をかけると、入室し恭しくお辞儀をした。

「ご朝食はどうなさいますか?」

「え、えっと……」

「夕食を召し上がったのと同じ部屋か、お部屋か、もしくはお天気がよろしいので、テラスでの食事はいかがでしょう」


 窓の外をみると、空は晴れやかに澄み渡っていた。


 言われるがまま頷くと、準備をしてまいりますとノーラが出ていく。朝食をどこで食べるか聞かれるのは初めてだった。


 オルロープ家の女主人であった母は、よく部屋で食べていた。屋敷内の報告を聞いたり、細々とした指示を出したりしながら。

 そんな母を真似して、姉も部屋で食べていた。メイドにあれやこれやと仕事を言いつけているのを見たことがある。


 母と姉がそのように振る舞っていたから、使用人は朝から大忙し。


 母は女主人としての仕事だけど、姉は単なる我儘だ。妹は朝食を食べず、昼近くまでのんびりと部屋で過ごしている。

 父と兄は食堂で食べていて、朝から領地や事業に関することばかり話をしていた。話をしている二人に挨拶をしたことがあるけれど、邪魔をするなと強く咎められてからは、ルーチェは食堂には立ち入らなくなった。


 だからルーチェは、いつも厨房の隅に用意されたものを、一人で食べていた。


 部屋で食べたいと言ったこともあるけれど、それをメイドは母に報告して、手が足りていないのに仕事を増やさないでちょうだいと叱られた。どうして姉と妹は許されているのに、ルーチェは駄目なのだろうかと、何度も思った。


 伯爵の娘だから、使用人たちはルーチェと食事の席を並べるわけにはいかない。だからルーチェが食事を終えるまで、厨房の隅のテーブルが使えないため、早く食べ終えて出ていって欲しいという視線が、いつも突き刺さっていた。


(……みじめ)



 テラスに用意された椅子へ座り、入れてもらったお茶を飲みながら、ルーチェは思った。

 ルーチェは伯爵の娘、貴族なのだ。貴族の娘が受けられる当然の権利をルーチェが行使しようとすると、決まって両親が叱ったのだ。まるでルーチェには、そんな権利など持ち合わせていないとでも言うように。


(その扱いに不満を持っていても、受け入れるしかなかった自分が、……みじめだわ)


 どうして私だけと不満を言うことができなかった。家族全員にいい顔をしていれば、いつかルーチェもごく当たり前に受け入れられるはずだと、そう思っていた。


(そんな願いを持つ事自体が、すでにおかしいというのにね)


 幼い頃からの扱いに慣れてしまって、もっと良い子にしなきゃとルーチェは思い続けた。でもその結果が、ルーチェを抜かした家族四人の団欒する姿だ。


 あんな人達のことは忘れなければと思っても、ルーチェの胸はズキズキと痛む。


 まるで傷口にある瘡蓋のよう。

 ふとしたきっかけで、治りかけているはずの傷口から、痛みと血が溢れ出てきてしまう。


(ここはもう、オルローブ家じゃない)




「奥様、ご朝食をお持ちいたしました」


「ありがとう。……あの、クラウスは?」

「旦那様は、朝から手紙などの書類の整理をしております。呼んでまいりましょうか?」

「い、いいの。仕事が忙しいのなら、私のことは気にしないで」

 ノーラは瞬きをした後で、平坦な声色で言った。


「旦那様は本日、奥様と街に出てお買い物をしたいと申しておりました。ですので、その準備をしているだけです。奥様とお仕事でしたら、奥様と過ごす時間を選ばれますので、ご安心くださいませ」


「は、はあ」

 困惑しながらも返事をすると、ノーラの眉がわずかによった。

「もしや旦那様は、本日のご予定を奥様にお伝えでない?」

「あ、はい、そうです」

「まあ、なんてことでしょう。女性のお出かけには、いろいろと準備が必要だと伝えましたのに。申し訳ございません、奥様。私どもの力不足で……っ!」

 心の底から悔やむような様子で、ノーラが頭を下げた。

「そんな、謝らないでちょうだい」

「今後は私ども一同、より気をつけてお仕えいたします」

「ありがとう」


 どう対応するのが正解なのか分からず、ルーチェはお礼を言った。ノーラはそれに対してはお辞儀で返してきた。


 あまり表情を変えないノーラだけれども、ルーチェにいつも真摯に対応してくれている。粗雑に扱われないというのは、こういうことなのだなと、ようやくわかった気がした。


 朝食を食べていると、執事に連れられてクラウスがやってきた。


 ルーチェの姿を見た途端、蕩けるような笑みを浮かべて駆け寄ってくる。その姿がまるで、大きな犬のように見えてしまった。


(成人した男性を、そんなふうに思うだなんて……)


 ルーチェの手をとって、うっとりとした表情で挨拶をするクラウスに、朝から顔が熱くて堪らなくなったのだった。




***





「まずはルーチェの服を買おう」

 馬車に乗って向かった先は、高級店街だった。貴族の中には、屋敷に仕立て屋を呼ぶ家もあるけれど、クラウスは違うらしい。ルーチェの実家は、この高級店よりランクの落ちたお店の仕立て屋を呼んで、ドレスを買い漁っていたけれど。


「もしかして、屋敷に仕立て屋を呼びたかった?」

「い、いえ、そういうわけではないけど」

 予想と違ったので、驚いただけだ。


「私がどうしても、ルーチェと二人きりで買い物に行きたくて。……我儘を通してしまった。次は、ルーチェの望む通りにするから、今日は許してほしい」


「……はい」

(そんな目で見ないで)


 クラウスの潤んだ瞳で見つめられると、なんでも許してしまいそうになる。そもそもクラウスは、そこまで我儘な事を言っているわけでもない。


「着いたみたいだね。さあルーチェ、手をどうぞ」

 クラウスは自然にルーチェをエスコートしてくれた。夫の腕に手を添えて歩き、生まれて初めて高級な店へと足を踏み入れた。

 すぐにオーナーがやってきて、奥へと通される。

「バルト伯爵、本日は……」

「うん、妻のルーチェにをプレゼントしたくて」

「なるほど」


(……待って)


 今、明らかにおかしな言葉が出ていた。オーナーもなるほどと納得したけど、そうじゃない。会話が絶対におかしいと、ルーチェは思った。


「あの、クラウス。私の聞き間違いかしら? この店をプレゼントって」


「ああすまない、ルーチェの好みを聞かずに先走ってしまったね。ダメだな、これは悪い癖みたいなものだ。ルーチェ、どの店が良いとかあるかい?」


「待って」


 今度は心の声が口に出た。

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