第2話 お金で私を買ったあなた
見ず知らずの男がなぜ、わざわざルーチェを指名して結婚を申し込んできたのだろうか。
ただ急ぎの結婚ということは、きっと何らかの理由があるはずだ。
嫁いだ先でどのような扱いが待っているのか。きっとろくなものではないだろうなと、ルーチェは思った。
父の借金を返済した、つまりはルーチェを金で買ったと同意義だ。物のように扱われるのだろうか、言うことを聞かないのなら殴られたりするのだろうか。噂に聞く酷い夫を想像し、ルーチェは身震いする。
物のように扱われたって、殴られたりしたって、ルーチェはもうどうだってよかった。自暴自棄になっていたというべきだろうか。
(それでも、あんな人たちと一緒に暮らすよりは……)
荷物をまとめていた時、ルーチェが本当に大事だと思っているものは少なかった。
お気に入りの詩集。
おばあさまから頂いた裁縫道具。
自分のお小遣いで買った髪飾り。
たったそれだけ。
ルーチェのクローゼットは、母や姉のゴミ捨て場でしかない。ああなんて、ろくでもない事実だろうと、ルーチェは笑った。
馬車は貴族街を走り抜けていく。やがて街外れの方にある、一際大きくて豪華な屋敷の前へとやってきた。
(まさかとは思うけど、ここではないわよね?)
しかし馬車は、その屋敷の門をくぐり、噴水のある庭を通り、そして使用人たちが勢揃いしている玄関の前へと到着した。
もしかして来る場所を間違えたのではと、ルーチェは冷や汗が吹き出した。しかし乗る前に名前を確認されたし、行き先もクラウス・バルト伯爵の屋敷だと言われている。
(それにしたって、爵位は同じでも、全然暮らしぶりが違い過ぎるわ)
馬車の扉をノックされ、ゆっくりと開かれる。
するとそこには、優しげな笑みを浮かべる一人の男性がいた。
「ああ、ルーチェ。私の屋敷に来てくれてありがとう。さあ、手をどうぞ、我が妻よ」
緊張が頂点に達していたルーチェに、男性は手を差し伸べる。
その手を取ると、男性はそのまま優しくエスコートをしてくれた。こんな扱い、父や兄にさえされたことがない。
「私はクラウス。クラウス・バルト。長い時間の移動、疲れただろう。少し部屋で休憩を? それとも何か甘いお菓子でも?」
「あ、あの」
「必要なものがあるのなら、なんでも言って、ルーチェ。あなたの好きなものを、なんでも用意するよ」
ルーチェの手を握り、クラウスは微笑んでいる。
これはどういうことなのだろうか。なぜ彼は、こんなにもルーチェを歓迎しているのか、訳がわからなかった。もしや何かしらの条件があって、父がルーチェに教えていないだけかもしれない。それに思い至ったルーチェは、慌ててクラウスの手に己の手を重ね、もう一度声をかけた。
「あ、あの、バルト卿」
「夫婦なのだから、どうかクラウスと呼んで」
「く、クラウス様」
「クラウスと」
名前で呼べという圧が強い。ルーチェは顔を引きつらせながら、クラウスの名を呼んだ。すると破顔して、目を細めて笑った。
(笑うと印象が全然違うわ。……可愛らしいかも)
そこまで考えて、ルーチェはハッとして首を振った。
何か聞かされていないことがあるかもしれないし、ここで気を許してはいけない。
ルーチェはクラウスに、話がしたいのだというと、なぜか感激したように胸を抑え、もちろんと頷かれる。
自分の提案が受け入れられたことにホッとした。
男性からこんなにも優しく微笑まれた記憶などないルーチェの心臓は、いとも簡単に早鐘のように脈打ってしまう。
顔に熱が集まっているから、多分間違いなく赤く染まっているに違いない。恥ずかしいと顔をそらそうとすると、具合でも悪いのかとクラウスが尋ねてきた。
「だ、大丈夫ですわ、クラウスさ……」
ルーチェの口元に、クラウスの指先があてられる。
「どうかクラウスと呼んで、ルーチェ。私はあなたに名前を呼ばれたい」
(だ、だめ、そんな顔をされてしまっては……。わ、私……!)
「く、クラウス」
「……っ、はい!」
笑顔で返事をするクラウスに、ルーチェは自分自身の悪癖が出てしまったと、心の中で頭を抱えた。
ルーチェは、お願いされることに弱いのだ。
お願いだと、困っているから助けてと、そう言われてしまうと、ルーチェは献身的に手助けをしてしまうのだ。
妹からも、姉からも、兄からも、そして両親からも、そう言われてきた。だからルーチェは、彼らのしでかしたことのしわ寄せを受け、貧乏くじばかり引いてきたと言うのに。
(結局、後で自分の不満が溜まるだけなのにね……。私って、バカだわ)
家を出ようと思った時に、もうこういうことはやめようと決意したはずなのに。クラウスの笑顔に負けてしまった。本当にバカだと嘆いていると、使用人の一人が声をかけてきた。
「旦那様、ご会談中に失礼致します。いつまでもご婦人を外に立たせておくのは、気の利かない男がすることですよ。中で温かいお茶でもお召し上がりくださいませ」
「そうだな。さあルーチェ、どうぞ屋敷の方に」
促されてルーチェは、ようやく屋敷の中に足を踏み入れることができた。声をかけてくれた使用人は深々と頭を下げている。彼女がメイド長であることは、お茶を飲みながら教えてもらった。
「メイド長のノーラは、かなりのベテランなんだ。この屋敷のことはなんでも知っている。困るようなことがあれば、彼女に聞いて」
女主人の権限はルーチェにあり、あくまでノーラは助言をする立場でしかないと、クラウスが言った。壁の方で待機しているノーラの表情は変わらず、それに納得しているかどうかはわからない。他に紹介されたのは執事のデックだ。彼もまた古くから屋敷に支えているそうで、いつでもなんでも聞いてくれて良いとの事だった。
「奥様がこちらで不自由なく生活していただくよう、使用人一同誠心誠意努めさせて頂きます」
深々と頭を下げられ、ルーチェは焦った。
いろいろと覚悟をしてきたものの、こんな歓待を受けるだなんて予想していなかったのだ。そしてこれが、何かの勘違いだった場合のことを考えると、気が気じゃなかった。
クラウスとお茶を飲みながら、ルーチェは意を決して尋ねた。
「あの、クラウス。私を指名しての結婚だったのですけれど……」
「あなたが結婚の申し出を受け入れてくれて、とても嬉しい」
蕩けるような微笑みに、ルーチェは思わず顔を赤く染めたが、なんとか堪えて質問を続けた。
「人違いではありませんか?」
「まさか! あなたは、ルーチェ・オルローブ伯爵令嬢でしょう。オルローブ家の次女、そのミルク入りの紅茶のような愛らしい髪色に、蜂蜜色の瞳。私はあなたの顔をしっかりと覚えている!」
自分の容姿をそのように表現する人に、ルーチェは初めて出会った。
オルローブ家の中で、ルーチェの髪色は少しだけ色が薄いから、出涸らしみたいだと陰口を叩かれることもあったのだ。兄妹達も、時には父もまじって、年寄りみたいだなと嗤うこともあった。
嫌なことを思い出してしまった。
ルーチェは手を握りしめる。そしてクラウスの顔をしっかりと見た。
(……やっぱり、いくら考えても、見覚えのない人。誰か別の人と、勘違いされているのではないかしら)
「私の姉か妹とお間違いでは」
「いいえ、私はあなたの姉妹の顔も知っている。間違うことなど決してない。誰か別の人、ということもない。それだけは信じてほしい」
「……そんな」
とてもじゃないが信じられなかった。
目を伏せたルーチェをどう思ったのか、クラウスは少しの沈黙の後で、囁くように言った。
「あなたは覚えてないだろう。でも私はあなたを、忘れられなかった。……だからあなたに、結婚を申し込んだのだ」
切なそうな表情を浮かべるクラウスに、ルーチェの胸は少しだけ痛んだ。けれども見覚えのないクラウスの顔に、どうあっても勘違いではないかという疑惑は尽きなかった。
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