ツミ重ナル

髙樫 何某(高樫 陽雪)

ツミ重ナル

 あつしの様子がいつもと違う。

 部屋に入った時からそうだった。なんだかそわそわしているし、ソレの勃ちも悪い。


 何かトラブルでも抱えているのかしら。夫もそうだったけど、男というのは意外と繊細な生き物なのよね。全然こたえていないように見えて、実はちゃんと傷付いていたりする。仕事中はおくびにも出さないけど、ベットの上ではそれを隠せない。男性のそういうところが健気で愛らしく思う。


 だから、敦もきっと何かトラブルがあったのだろう、と私は軽く考えていた。

「なんだかちょっと疲れた顔してるわね。仕事、大変なの?」

「いや、いつも通りだよ」

「そう」


 目の前の彼、五反田ごたんだ敦は建設会社の創業社長で、歳は三十七。私よりも四つ上。仕事のこととなると少し神経質だけど、身の回りのことは結構ガサツ。太宰治と芥川龍之介の区別がつかないような教養の無さで、ありていに言えば、少し頭が悪い。文系ではなく、どちらかと言えば理系。文化系ではなく、明らかな運動系。


 小中高でサッカーをしていたためか、運動の習慣は今でもあるようで、歳の割には若々しい体型をしている。体力には自信があるようで、若い時はかなり無理なスケジュールで仕事をしていたようだ。


 女性に対しては基本的には優しくて紳士的。でも、突拍子もないことを言ったり、今考えたことをいきなり実行に移したりする危うさがある。よく言えば行動力があり、悪く言えば向こう見ず。建設会社の起業も大学在学中にしたと聞いた。男性に対しては強引なところがあり、フランクで仲良くなるのが早い。目上の人に気に入られる力もあるようだ。


 やり手の人間を仲間に引き入れられたおかげで、会社の経営は安定しているらしい。それぞれのポジションで活躍できる人材は違う、とは彼の言葉だ。体育会系の彼らしい経営手法だと思う。


 そんな敦が悩むとしたら、どんなことなのだろう。

 やっぱり、奥さんとの関係かしら。

 勃ちの悪いソレをしゃぶりながら、そんなことを考えていた。


「ごめん、やっぱり俺、疲れてるかも。せっかく夏子に来てもらったのに申し訳ないな」

「いいのよ。私はそんなに忙しくないし」


 私とこんなことをしていることからも想像できる通り、淳と奥さんとの関係はかなり冷め切っている。奥さんは敦の大学のサークルの後輩で、大学卒業以来会っていなかったが、事業が安定してきた起業五年目、敦が二十六歳の頃に再会して、付き合うことになり、交際僅か四ヶ月で婚約をしたそうだ。子供はいないようだから、できちゃった婚ではないはずである。


 私が淳に初めて会ったのはかれこれ五年前になる。敦は三十二歳、私は二十九歳の頃である。


 当時は夫が生きていたので、私はクリニックでも夫のサポート役という感じで、精神的にかなり暇を持て余していた。そんな日々の鬱憤を晴らすために、私はゴルフ教室に通うことにした。そこで出会ったのが五反田敦だった。


 敦はまだ通い始めて半年に満たない程度だったが、すでに初心者コースは卒業間近という運動神経とセンスの良さで教室内でも目立つ存在だった。


 そんな敦にお茶に誘われたのは、教室に通い始めてから三ヶ月が経った頃だった。


 ゴルフ教室の終わりに喫茶店に寄って、彼の経営する事業のこと、大学時代にした失敗、Jリーグや最近のドラマ、いろいろな話を聞いた。彼の話は緩急があり、とても面白く、時間があっという間に過ぎたのを覚えている。


 当時から私はホテルに誘われていた。夫と全く違うタイプの男性に、ときめく心がない訳ではなかったが、当時の私は世間体を気にする気持ちや不貞を働くことに気を病む良心が今よりも強くあった。子宝にこそ恵まれなかったが、夫との営みも適度にあり、性生活には満足していた。


 しばらく断り続けていると、次第にホテルに誘われることは無くなった。お茶も誘われることは無くなったが、ゴルフ教室で会った時の対応は相変わらず、優しく紳士的だった。


 ゴルフ教室に通い始めて二年が経った頃、夫が交通事故で死んだ。役所の手続きやクリニックの今後の経営のことに追われ、ゴルフ教室のことなどすっかり頭から消えていた。月謝の支払いを口座引き落としにしていたせいで、一年も無駄に払ってしまっていた私は、ゴルフ教室の退会手続きと挨拶をするために、一年ぶりに教室に顔を出した。そこで敦とも一年ぶりに再会した。


 夫が死んで、クリニックを引き継ぐことにしたのが三年前。だから、敦に再会したのは今から二年前のことである。


 敦は当然、なぜこの一年間、教室に出てこなかったのか、なぜ教室を辞めてしまうのかと問い詰めてきた。しかし、私は何も話さなかった。夫が死んだことを話してしまうと、そのまま敦にすがり付いてしまいそうな自分が嫌で、適当に誤魔化した。夫がいるからという最大の断り文句がない今、淳の言うままになってしまうことを恐れたのだ。その時は連絡先も交換せずに別れた。


 転機が訪れたのはさらに一年が過ぎた頃だった。つまり、今からちょうど一年ほど前である。


 私、一ノ瀬夏子いちのせなつこは現在、一ノ瀬クリニックの院長を務めている。

 一ノ瀬クリニックは今は亡き夫が開業した小児内科クリニックだ。


 夫とは以前に勤めていた大学病院で出会った。私が新卒の医師として配属された先にいたのが夫、一ノ瀬俊雄としおだった。俊雄は長めの前髪に銀縁のメガネをかけていて、肌は女子かと思うほどに白く、体毛が薄く、痩せぎすな体型をしていた。運動はあまりせず、勉強一筋で医者になりました、というような印象を受けた。


 その印象は、当たらずも遠からずで、運動は医者としてのパフォーマンスを維持するために仕方なくするものでしかない、という具合だった。俊雄の同期に聞いたところによると、学生の頃は運動などあくまで脳を活性化させるためにするものでしかない、というさらに尖った主張をしていたらしい。走る以外の運動を見たことがないので、私は単に運動神経が悪かったんだろうなと思っている。


 そういう主張をするだけあって、医学の勉強だけでなく、文学や哲学、地理や国際問題にもある程度以上の知識があった。知的で少し意固地な彼は、私の目に魅力的に映っていた。


 私が大学病院に配属されて一年が経った頃に、彼の方から私に付き合って欲しいと言われた。私は二つ返事で彼の告白を受け入れた。


 それから二年の交際を経て、私たちは結婚した。彼が三十歳で、私が二十五歳であった。


 結婚して三年後、彼が三十三歳の時に独立した。


 私も一緒に大学病院を辞めて、彼の病院の副院長として働き始めた。


 そして、開業から四年が経ち、クリニックの先行きが見え始めた時に、夫は交通事故で他界した。享年三十七歳であった。


 そこから私は、クリニックを存続させるために必死で働いた。


 そして、去年あたり、クリニックの開業から六年(夫が主に切り盛りしていたのが四年、私が引き継いでからが二年)で、ようやく地域にも根付き始めた実感が出てきた。


 その頃には、患者さんを休ませておくための部屋が足りないことも増えてきたので、部屋を増築しようという案がクリニック内で出ていた。そして、一ノ瀬クリニックの増築工事を頼んだのが、敦が経営する建設会社の東川第一建設だった。


 クリニックに出入りするとなると、当然、他の看護師と敦が会話をすることになり、夫の存在も知られることになる。私から看護師たちに夫の話をしないでくれと口止めしようかとも思ったが、それも変な気がして結局何もせず、夫の死を含めたこのクリニックの経緯はほとんど彼に知られることとなった。


 当然、看護師たちからは敦との関係を根掘り葉掘り聞かれることになる。少し前に通っていたゴルフ教室で一緒だっただけよ、と言っても、敦の態度からしてそんなはずはないと言われる。中にはそろそろ新しい旦那を見つけてもいい頃なんじゃないかと言い出す看護師もいた。


 敦と再婚──そんなことを一瞬考えもした。しかし、彼は既婚者である。


 今思えば、彼は既婚者であることをうちの看護師たちに隠していたのだろう。


 彼はクリニックに出入りするようになった時から、本気で私を口説こうとしていた。いや、ゴルフ教室に通っていた頃からそうだったのだろう。


 増築工事が終わるころ、ついに私は淳の誘いに応じた。夫が死んでからの一年と少しの間で、女としての渇きが心の底に溜まっていたらしかった。それから敦とは月に三から五回のペースで会っている。今日のようなクリニックが午後休診の水曜日と、クリニックが休みの日曜日、そのどちらかで会うことが多い。敦は社長なので、時間の自由は効く。こんな関係になってもうすぐ一年が経とうとしているけど、私が急に暇になったからと私の方から連絡して断られたことは一回もなかった。


 夏子が望むなら俺はいつでも離婚していいと思っている、などと言われたこともある。内心、求められるのは悪くない気分だった。あまり深刻に考えてはいないが、確かにこの先ずっと独りでいるのは嫌だ。


 でも本気で私が欲しいのなら、まず離婚してからにしなさいよ、と少し思ったりもする。冗談めかしてそう言うと、離婚しようとしたことはあるそうだった。だけど、奥さんが認めてくれなかったそうだ。敦はなんだかんだ言っても、建設会社の社長だ。敦の奥さんも社長夫人というポジションに味を占めているのかも知れない。収入が良いことは確かだろう。でかい魚を逃したくないと言ったところかしら。


 私も三十四歳。まだ女として生きていたい。


 夫が死んで三年。未亡人というポジションに味を占めていないし、味を占めていると思われたくもない。相手は敦じゃないにしても、再婚を考えてもいいのかも知れない。


 結局、挿入しないままベットの上でダラダラと三十分以上話し、疲れたらそのまま裸で一時間ほど眠った。敦は私が眠る隣でずっとスマホをいじっていたような気がする。


 ホテルを出たのは、十六時三十分ちょうどだった。



 九月下旬で夏の気分は終わったけれども、十七時台はまだ日差しが熱い。


 身体を冷やしすぎるのは良くないので、クーラーの温度は中程度にする。日焼けはしたくないので、車のガラスにはUVカットの機能が付いているが、さらにサングラスとアームカバーも装着する。


 お金には余裕があったので、一昨年マツダのロードスターを買った。ボディの色は黒である。


 ホテルを出て、途中スーパーに寄って食材を買った。ネギの刺さったパンパンの買い物袋が最も似合わない車、第一位だと個人的に思っている。


 マンションの駐車場に入ると、契約している二つの駐車スペースの両方が空いていた。秋穂あきほはまだ帰っていないのかと思ったが、しかし、玄関に上がると奥の部屋に灯りがついていた。


 あれ、駐車場にシビックが無かったような、と思ってリビングの扉を開けると、秋穂は真っ青な顔をして涙を浮かべていた。


「あら、どうしたの、秋穂ちゃん」

「お姉ちゃん、く、車が盗まれちゃった……」


 大学三年生になる秋穂だが、表情は幼く、無垢そのものだ。涙を浮かべ、眉をハの字にした表情は幼い頃の秋穂を思い出させた。


 秋穂は十三歳離れた妹である。秋穂は父が失踪した直後に生まれた。父は妊娠が発覚してから逃げたのだ。そのろくでなしを母が次に見たのは溺死体でだった。(私は死体を見せてもらえなかった。)秋穂が生まれた翌々月のことだった。体内からは大量のアルコールが検出されており、近くに足を滑らせたような跡があったため、事故として処理された。冬の冷たい水で溺死、あのろくでなしにはちょうどいい死に様だ。


 離婚届が出されていなかったおかげで、生命保険の保険料が振り込まれた。しかし、そのほとんどは父の残した借金の返済にあてられ、うちに残ったのはほんのわずかだった。母は父が失踪してから休日なく働き詰めるようになった。しかし、生活は一向に良くならなかった。


 そして、秋穂が三歳の頃に母は病死した。働きすぎがたたったのかと周りに言われた。身寄りのなくなった私たちは、母の生命保険の保険金とともに、母方の祖母の家に姉妹二人で転がり込んだ。まとまったお金が入ったおかげで、私に大学へ行くという選択肢が開けた。


 大学受験のために勉強していた間は、祖母の世話になることが多かったが、秋穂は私が育てたという自負がある。受験が終わってからは幼稚園の送り迎えも私がしたし、小学校の参観日も運動会も私が保護者として出た。大学の費用も私が出している。


 あのまま貧乏生活が続いて、高卒でそこら辺のOLになっていたら、この若さで大学生を一人養うことはできなかったかも知れない。俊雄との間に子供が出来なくても平気だったのは、秋穂がいたからというのが大きい。秋穂は妹であると同時に、娘でもあるように思う。


 秋穂は昔からよく物をなくしていた。とうとう車をなくすようになったか、盗難届ってどうやって出すのかしらなどと考え、ふと視線を上に外した隙に、妹が抱きついてきた。涙で服が濡れちゃうなぁ。鼻水は拭かないでよ。


「どこ行ってたのよ! スマホにかけても出ないし、病院は電話繋がらないし」


 そう言えば、ホテルで機内モードにしたままだった。逢瀬の途中でスマホを触っちゃうような野暮な女にはなりたくないのよね。


「ごめんごめん、電波オフにしてた。それより車が盗まれたって、どこで盗まれたの?」


 しかし、秋穂はグスグスと言うだけで、黙りこくっていた。もう一度聞いてみる。


「どこで盗まれたのか、分かる?」


 意を決したように顔を上げ秋穂が話し始めた。目が赤い。やっぱり鼻水が私の服に付いていた。


「轢き逃げがあったらしいの、盗難車で。さっきニュースでやってて。それでその盗難車が私の車っぽいの」


 私のどこで盗まれたのかという質問に答えなかったことに嘆息したが、それよりも轢き逃げという暴力的な言葉が秋穂の口から出てきたことに驚き、ドキッとした。冷たいものが背中を伝った。


 妹の説明はこうだった。


 大学の授業が終わって、友人の真由美とランチに行こうと駐車場に来たら、車が無い。キーはサンバイザーに挟んでいるので、友達が勝手に借りることがあるらしく、今日もそれだと思って特に気にも留めず、真由美の車に乗ってランチに行った。ランチを終えて、大学に戻ってきてもまだ車は無かった。仕方ないので真由美に家まで送ってもらって帰ってきた。


 家に帰ってきたのが十四時ごろ。家でテレビを付けながら漫画を読んでダラダラしていたら、十六時の地域密着型の報道番組で、十五時ごろに轢き逃げがあったというニュースを聞いた。その時、自分の車も盗難されたんじゃないかと思ったそうだ。ニュースでは被害者の衣服に水色の塗料が付いており、車の外装が一部剥がれて付いたものと推定されていると話していたそうだ。そして、妹の車は水色のシビックである。


「私が轢き逃げしたことにされたらどうしよう」

 なるほど。面倒なことになってきた。


 秋穂は強情なところがあるくせに気が弱い。特に大人の男に対してはかなり気が弱い。警察に「お前がやったんだろう」と言われでもしたら、無実なのに「はい、そうです」と言ってしまいかねない。秋穂が警察に詰められている場面を想像するだけでも心が痛む。


「別に秋穂の車と決まったわけじゃないんでしょう?」

「そうだけど……」

「被害者の方は何か言ってた?」

「重体だって言ってた。意識不明みたい。お姉ちゃん、今日の午後は休診だったんでしょ? 私と家にいたことにしてよ。ねっ?」


 轢き逃げの事件のことよりも、疑われることの方が嫌な様子だ。確かに水色のボディの車なんて滅多にいないから、秋穂の車が轢き逃げに使用された可能性は高い。


「ねぇってば! お姉ちゃん、私がちゃんとその時間におうちにいたって、証言してよ!」

「分かった、分かった。お姉ちゃんが証言してあげるから、ちょっと落ち着いて」

「絶対だよ?」


 もう二十歳を超えているのに、秋穂は幼い子供が約束をする時のように何度も確認をした。


 十五時ごろと言えば、敦とベットの上にいた頃だな、とぼんやりと思いながら、夕食の支度を始めた。



 夕食後、蛇口を捻ってお風呂のお湯を溜めている時に、ドアチャイムが鳴った。秋穂がリビングの方から出てくる気配はない。いつものことだ。訪問者の対応は私がすることになっている。

 覗き穴から外の様子を見ると、二人の男性警察官がいた。心臓が跳ねた。

 やっぱり秋穂の嫌な予感は当たっていたんだわ。


 私はチェーンをかけたまま、ドアを少し開けた。チェーンが突っ張って、ガシャっと音がした。


「こんばんは。夜分遅くにすみません。東川警察署の者です」

 そう言って、二人は警察手帳を見せた。手前の若い男性が井上丞さんで、少し下がって立っている中年の男性が西尾潤さん。主に話すの井上さんの方のようだ。


「こちら、二葉秋穂さんのご自宅でしょうか」

「はい、そうですけど」

「二葉秋穂さんはいらっしゃいますか?」

「いますけど」

「お話できますか?」


 秋穂は呼ぶべきではないな。まだ泣いた後が残ってるし。ちらりとリビングのドアを見るが、すりガラスに影はない。だが、きっと聞き耳を立てていることだろう。私はチェーンを外し、ドアを半開きにした。


「秋穂の保護者です。私がお話を聞くことはできますか?」

 嘘はついてない。私は秋穂の姉だけど、親がいないのだから社会通念上は保護者になる。警察の二人は私を秋穂の母だと思うかも知れないけれど。


「分かりました。こちらにお伺いしたのは、とある確認のためです。お隣の早坂市との市境の住宅に乗り捨てられた車両が発見されまして、お宅の娘さんの物ではないかとなりましたので、その確認に来ました。水色のシビックですが、間違いないですか?」

 やはり母だと思われた。訂正すると面倒になりそうなので、スルーする。


 それよりも、秋穂の予想が当たっていた。この時間になっても、友人から何の連絡もないのだから当然とは言え、やはり盗難されていたことにショックを受けた。秋穂もリビングのドアの向こうでショックを受けていることだろう。どうか、第二の予想の方はどうか外れていて。


「はい、秋穂の車は水色のシビックです」

「ナンバーは分かりますか」

「ほ10ー24です」

「ありがとうございます。見つかった車は二葉秋穂さんのお車で間違いないようですね。盗難届は出されていますか?」

「いえ、まだです。お昼からなくなっていたんですけど、お友達が借りて行ったのだと思ったらしくて、盗難なんじゃないかって言い出したのも、日が暮れて始めてからなんですよ」


 盗難ではないかと気づいたのは十六時のニュースを聞いた時と言っていた。暮れ始めと言えば暮れ始めだが、人によってはもう少し遅い時間帯を想像するかも知れない。


「そうですか。その問題のお車なんですが」

 井上さんはそこで少し間を置いた。どうやらこれは第二の予想も当たってしまったようだ。

「本日の午後三時ごろに発生した轢き逃げ事件の車両と一致しまして」


 ああ、やっぱり。嫌な予想が当たってしまった。

「そう……なんですか」

「はい。轢き逃げのニュースはご覧になられましたか?」

「ええ、今し方のニュース番組で」

「疑っているわけではなく、形式上、お聞きしなければならないのですが、本日午後三時ごろ、二葉秋穂さんはどちらにおられましたか?」


 来た。この質問だ。背後のリビングのドアに目をやる。やはり、すりガラスに影は見えない。秋穂は本当に聞き耳を立てているのだろうか。


「三時ごろは……家にいましたね」

「あなたもご一緒に?」

「はい」

「秋穂さんは何時ごろから家におられましたか?」

「そうですね……。多分、二時ごろから。私が帰ってきたのが二時半ごろで、その後はずっと……、あ、私は四時過ぎから五時前ぐらいまで夕飯の買い出しに出掛けました。バイパス沿いのスーパーまで。秋穂はその間も一人で家にいたはずです」

「二時ごろから四時ごろだけで結構です。他に一緒におられた方はいますか?」

「いえ、私と秋穂の二人で家にいました」


「そうですか。分かりました。ご協力ありがとうございます。お車ですが、今は東川署でお預かりしています。明日のお昼十三時以降でしたらお渡しできるのですが、取りに来ていただくことは可能ですか?」

「分かりました。明日のお昼に取りに伺います」

「よろしくお願いします。では、夜分遅くにすみませんでした。失礼いたします」

「わざわざ遠いところまでありがとうございました。失礼いたします」


 足音が遠かったのを確認してから、鍵をかけた。ふう、疲れた。意外とあっさりしているのね。もっとネチネチ聞かれるものかと思っていたので、少し肩透かしを食らった気分だ。


 玄関からリビングに戻ると秋穂がソファで寝ていた。リビングから聞き耳を立てていると思ったら、全然そんなことないじゃない。秋穂が証言してって言うから、証言してあげたのに。それとも証言したところまで聞いて、安心して寝ちゃったのかしら。まぁ、どちらでもいいわ。それより、風邪引くわよ。ソファの背もたれにかけてあったブランケットをかけてあげる。


「何か忘れてる気がする……」

 あっ、そうだ。

 お風呂に行くと、湯船からお湯が轟々と溢れ出していた。



 秋穂の車が盗難され、轢き逃げ事件に使用されたと判明した翌日、木曜日。

 仕事が手につかない。


 身近な轢き逃げ事件は嫌でも、過去を思い出させる。

 ズドンッ!

 車が人体にぶつかった時の衝撃音が頭の中で蘇る。夫の俊雄は私の目の前で交通事故にあった。

 ダメダメ。今は目の前の患者さんに集中しなきゃ。


「お次の方、どうぞ」

 診察室と待合スペースの間のドアを少し開け、待っている親子に声をかける。鼻水をジュルジュルとさせている男の子がいた。平日の小児科は来院者が少ないと思われがちだが、そんなことはなく、意外と忙しい。


 一ノ瀬クリニックは、二つの小学校の学区にまたがるような立地にあるため、こっちの学校の風邪の流行が収まったと思ったら、もう片方の学校で風邪が流行したりして、繁忙期が長くなる傾向にある。冬の時期などは、本当にひっきりなしに鼻水を垂らした子供たちが連れられてくる。風邪が流行するような時期でなくても、毎日、誰かしらが風邪を引いてやって来る。学校の全員が元気な日というのは、ないのかも知れないなと最近思い始めた。


 午前の診療が終わったら、クリニックの昼休みの十四時から十五時の間に大学で秋穂を拾って、東川署に行き、シビックを回収しなければならない。あー、そのまま家に帰りたい。午後は休んじゃおうかしら。


「えー、そんなことがあったんですか。大変でしたね。お車を取りに行って、そのままお家に帰られてもいいですよ。今日は私が診ます」

 患者の波が途絶えた束の間の休憩、副院長の六川優子に昨日あったことを話したら、そう言ってくれた。(もちろん嘘のアリバイ証言をしたことは伏せた。)


 六川は私の大学の一つ下の後輩で、玉の輿に乗るために医学部に入り、そして見事医者の旦那を手に入れた女である。玉の輿に乗るためなら、看護師でいいんじゃないかと思ったが、大学時代から唾をつけとくためには、自らも医学科に入らなければならないという理屈らしい。あんたも玉になってるじゃないかと思ったが、玉が玉の輿に乗ってもいいでしょ、ということだそうだ。


 彼女は二十五歳で宣言通り医者と結婚して専業主婦になっていた。彼女がうちの副院長に就いたのは、私がこのクリニックを引き継ぐことになった三年前に声をかけたからだ。うちで働いてくれないかと聞くと、専業主婦も飽きてきた頃なんだよねぇ、と二つ返事で引き受けてくれた。四歳と三歳の息子がいたので、幼稚園探しの間だけ待って欲しいということで、声をかけてから半年後、今から二年半前にうちのクリニックの副院長になってもらっている。


 仕事ぶりは真面目で何より抜けがない。上昇志向がないくせに、医学部に合格し、医師免許まで取得してしまうほどの才媛だ。私より院長に向いている気もする。まあ、彼女は私が倒れてもクリニックを引き継ぐような性格じゃない。と言うか、私に万一のことがあったら一ノ瀬クリニックは潰します、と宣言されてしまっている。


 本当に抜け目がない。しかし、人情がないわけではなく、むしろ気配り上手である。我ながらいい人材を引き入れたものだ。

「じゃあ、甘えちゃおうかしら」


 と言うことで、秋穂と東川署に行き、秋穂がシビックを受け取ったのを確認して、私は家に帰ってきた。秋穂は午後からの授業のために大学に戻っている。


 二日連続で午後が休みなんて、なんて贅沢なのだろうか。私は明るい気分でマンションの階段を登っていた。


 しかし、そんな私の明るい気分をぶち壊す存在が家のドアの前にいた。

 昨日に引き続き、またもや男性警察官が二人いた。しかし、さっきまで東川署にいたのだから、轢き逃げの事件のこととは考えにくい。何の用事だろう。


 一人の警察官が私に気づいた。私は仕方なく彼らに、いや、うちの家のドアに近づく。まだ偶然、私たちの家の前で立ち話をしているだけという可能性もある。


「失礼ですが、一ノ瀬夏子さんでしょうか?」

 私に用事だった。しかし、二葉秋穂さんのご家族などとしてではなく、私個人の名前を上げたということは、やはり轢き逃げとは別件のようだ。昨日の刑事とは違う人たちだし。


「はい、そうですけど」

「クリニックの方に伺いますと、もう帰られたと言われましたので、こちらに来させていただきました」

「そうですか……」

 私が東川署に秋穂と車を取りに行っていた分、彼らの方が早く家に着いたということか。


「申し遅れました。私は捜査第一課の深水」

「私は森です」

 そう言って、男性警察官二人は警察手帳を見せてくれた。

「捜査第一課……」

 捜査第一課と言えば、殺人事件を取り扱う課のはずだ。そんな人たちがなぜここに来たのだろう。


「単刀直入に申し上げますと、五反田綾子さんが亡くなられました」

 『五反田あ』と聞こえた瞬間、びっくりし過ぎて、目を見開いてしまった。敦じゃなかったので、少しホッとした。五反田敦じゃなくて五反田綾子。確か、敦の奥さんの名前だったような。


「五反田綾子さんというのは、もしかして五反田敦さんの……」

「はい。五反田敦さんの奥さんです」

 やっぱり奥さんか。しかし、亡くなられた……?


「それでどういうご用件で?」

「五反田綾子さんが亡くなられたのは、昨日水曜日の午後三時ごろでして、その時間の敦さんのアリバイを聞いたところ、あなたと一緒にいたと答えられたのです」

 昨日の午後三時ごろ……、確かに敦と一緒にいた。

「はい、昨日の午後三……」


 昨日の午後三時ですって?


 まずい。これはまずい。どうしよう。昨日の午後三時は秋穂の車の盗難の件で、家にいたことになっている時間帯だ。


 さっき東川署に行った時に引き留められなかったということは、捜査第一課と轢き逃げを担当する課は別で、情報の共有がまだされていないということだろう。秋穂と私の苗字が違うから気づかれなかったのかも知れない。しかし、それも時間の問題に違いない。


 敦のアリバイは本当のアリバイだ。

 しかし、もちろん秋穂と敦を天秤にかけることはできない。圧倒的に、天と地の差をもって秋穂の方が大事だ。


 昨日の敦の様子を思い出す。やけにそわそわしていて、様子がおかしかった。


 …………まさか。


 まさか、敦が奥さんを殺した……?


 前に、離婚しようとしたけど奥さんが認めてくれなかったと言っていた。


 だから、奥さんを……?


 私と結婚するために?


 というか、愛人の証言は身内の証言となって法的根拠にならないんじゃないだろうか。分からない。私と一緒にいたと答えたらしいが、淳はどこまでのことを話したのだろう。ホテルで密会とまで話したのだろうか。それとも友人とかそんな関係性として話したのだろうか。


 分からない。分からない。分からないことだらけだ。


「どうされましたか?」

 まずい、まずい、まずい。どうする。とりあえず、何か答えなければ。


「いえ、貧血気味で。今日、職場を早退したのも、それで……」

「そうでしたか。すみません」

「あの、確かに昨日は敦さんとお会いしましたけれど、時間はちょっと……。買い物のレシートとか時間が分かるものがあると思いますので、そちらを見て、まとめてから後でご連絡してもよろしいですか? 気分も悪いですし」


 どうだ、これで見逃してくれるか? 見逃してくれるものなのか?


「分かりました。それでは情報がまとまりましたら、なるべく早く、こちらにお電話してください。またこちらかクリニックの方へお伺いすることもあるかも知れません」


 警察官は名刺をくれた。

 深水誠一。巡査部長。電話番号も書いてある。


「すみません……」

 警察官二人が見つめる中、鍵をカバンから取り出し、鍵を開け、ドアを開け、中に入り、ドアを閉め、鍵を閉める。あまり大きな音を立てて鍵をかけると印象が悪くなる気がしたので、鍵はそっと閉めた。


 奥に歩いて行きリビングのドアを開け、一秒待ってドアを閉め、忍足で玄関に戻ってきた。覗き穴を覗いてみると、警察官はまだ外にいた。何かを話している。話し声は聞こえない。次に行く場所を話していただけなのか、私の印象を話しているのか。


 ──! 深水がこちらを見た。目が合う。息が詰まる。いや、向こうからこちらは見えていないはず……だ。深水はすぐに目を逸らした。程なくして二人は階段の方へ歩いて行った。


「ふうううう……」

 深いため息が漏れた。二日連続で警察官がうちにやってくるなんて、一体どういう風の吹き回しだ。

 それよりも、今すぐにでも敦に確認しなければ。


 スマホを操作し、メッセージを入れる。

『警察が来たんだけど。電話できそうならしてきて』

 ブブブブブブ……──ブブブブブブ……──

 電話がかかってきた。


「もしもし、夏子です」

「夏子。すまない。俺のアリバイを聞かれたろう。うまく答えてくれたか?」

「いや、突然過ぎたから、体調が悪いのでまた後でって言って帰ってもらったわ」

「マ、マジか……」

「え、ごめん」

 謝ることでもない気もしたが、声があまりにも悲壮だったので、つい謝ってしまった。


「あなた、今、周りに誰もいないわよね?」

「うん、いないよ」

「どこにいるの?」

「会社の社長室だよ」

「今、一人なのね?」

「うん。夏子、君も今、一人かい?」

「ええ。私も自宅に一人だけ。聞きたいことがあるわ」

「どうぞ」


 躊躇っている意味はない。単刀直入に聞く。

「奥さんはあなたが殺したの?」

 沈黙が流れた。息を吸って吐く音がスマホのスピーカーから聞こえてくる。


「ああ、五反田綾子は俺が殺した」


 そう答えるのは分かっていたような気がする。だから驚きはしない。でも、衝撃は受けてしまう。


 私が黙っていると、敦は言い訳をするように喋り出した。

「もちろん、自殺に見せかけた上に、アリバイトリックを仕掛けた。君が俺のアリバイを聞かれた時間も午後三時ごろだろう?」


 そう言えば、そうだ。警察は午後三時ごろのアリバイを聞いた。だから午後三時ごろが死亡推定時刻なのだろう。しかし、午後三時ごろは確実に敦はあのホテルにいた。あのホテルから敦の家までは三十分くらいかかるはずである。いや、自宅が現場なわけがない。自宅が現場なら、昨日の夕方に敦が通報することになるから、私の元に来るのももっと早くなるはずだ。いづれにしても、午後三時前後、敦は殺していない。午後二時半から四時半までのアリバイがある。


「確かに三時ごろのアリバイを聞かれたわ」

「良かった。アリバイトリックはバレていていない」

「アリバイって、どうやって殺したの?」

「ああ、それはね……」


 敦のアリバイトリックを聞いた。なるほど、それなら警察の目を欺けるかも知れない。敦のアリバイを確立してしまえば、完璧だ。


「だろう? だから、俺のアリバイを証明してくれ、夏子。そして、俺と一緒になろう」


 しかし、だったらもっと他にあるだろう。会社の防犯カメラに映っておくとか、ゴルフの打ちっぱなしにでも行って店員さんと話しておくとか。なんでわざわざ私をアリバイの証人に選んだんだ。


 しかし、鴨がネギを背負ってきたとは、こういう時に使うことわざなのかも知れない。

「……分かったわ。証言してあげる」


 となると、秋穂の方の証言は取り消さないといけないわね。

 秋穂の安心のために証言しただけだから、取り消しても問題はないでしょう。


「ありがとう。絶対に君を幸せにする。だから、この件が終わったら、」

 ピンポーン。

 と、その時、チャイムが鳴った。警察官がまた来たのか?

「ごめん、誰か来た。切るわ」

「うん」

「また後で」


 電話を切った。履歴を消した方がいいかしらと一瞬思ったが、表面上は消えても調べたら分かるんだったような気がして、怪しい行動はやめようと思い、消すのはやめておいた。


 ピンポーン。

 二度目のチャイムが鳴る。

「はーい」


 覗き穴を覗くと隣の部屋の七海祥子さんがいた。歳は七十歳くらいで、朗らかな笑顔と優しい雰囲気が特徴の小柄なおばあちゃんだ。髪は半分くらい白いが、汚い感じは全くない。均等に白髪と黒髪が混ざっており、パサついていないので、むしろ輝いて見える。銀髪という表現が良いのかも知れない。私もこれだけ綺麗な髪なら下手に染めるより、自然なままの方を選ぶだろう。


 ドアを開けるとニコニコした七海さんがいた。

「あら、七海さん」

「こんにちは、夏子ちゃん。ところで、さっきの人たちは何?」

 ニコニコしていた七海さんの顔が心配そうな顔に変わった。


「なんか事件があったらしくて、その人の知人を聞き込みして回っているそうですよ」

「へえ、刑事さんだったの」

「警察手帳を見せられましたよ。それより、どうされましたか?」

 七海さんは手にどう見てもお土産の袋を持っている。熱海と書いてあるし、熱海温泉に行ったのだろう。

「ああ、そうそう。お土産を持ってきたのよ」

 見れば分かる。が、そんなことはもちろん言わない。


「今回はどこに行かれたんですか?」

 熱海と書いた袋が見えるが、リップサービスだ。

「熱海よ。熱海温泉。温泉はやっぱり日本人の魂だわ。身も心もピカピカよ」

「いいですね、温泉。私も温泉に浸かって、ゆっくりしたいです」

「はい、これお土産ね。まんじゅうよ。夏子ちゃん、あんこ好きでしょ」

「ありがとうございます。あんこ大好きです」

 お土産を受け取って、箱を取り出してみる。温泉まんじゅう。八個入り。可愛らしいうさぎの焼き印が入ったまんじゅうらしい。


「そう言えば、今週は木曜日が午後休診だったのね。道理で昨日来ても誰も出なかったわけだわ」


「えっ?」

 今、なんと? 昨日来ても誰も出なかったと言いましたか? 


「き、昨日来たんですか? いつですか?」

「ちょうど今くらいよ」


 時計を見ると、十四時五十四分だった。

 その時間には秋穂がいたはず。十四時には帰ってきたと言っていた。


「秋穂がいたと思うんですけど」

「秋穂ちゃん? インターホン鳴らしたけど、誰も出てこなかったわよ。寝てたのかしら」


 秋穂はインターホンが鳴っても、訪ねてきたのが知らない人なら出ないと思う。宅配便でも出ない程だ。でも、流石に七海さんなら出ると思うし、寝てたとしてもインターホンに気づかないはずはない。


 秋穂は本当に昨日、家にいたのか……?


 秋穂は本当は昨日、家にいなかった……?


 秋穂は本当に轢き逃げをしていないのか……?


 轢き逃げの犯人は見つかっていない。つい一時間前、シビックを引き取る時にそう聞いた。ドラレコも引きちぎられていて、近くで粉々になったカメラが見つかっている。メモリーカードは抜き取られていた。車両内は指紋も拭き取られていたらしく、犯人につながる情報はほとんど得られていない状況だと聞いた。


 轢き逃げ犯逮捕の唯一の可能性は、被害者である四本松誠の意識回復である。四本松は現在も意識不明のまま大学病院で入院中とのことだ。四本松は六十代の男性で、日課の散歩をしていたところを轢かれた。たまたま家にいた息子さんが、なかなか帰ってこないのを心配して見に行ったら、血まみれで倒れている四本松を発見し、救急車を呼んだという流れらしい。


 秋穂には三ヶ月前から付き合い出した三井寿光というボーイフレンドがいる。二十五歳で、聞けばこの男はフリーターという。髪は茶髪でロン毛、バンド活動をしているらしい。秋穂はいつか大物になると思うなんて言っているが、平日の昼間にパチンコに入っていくのを何度も見かけたし、バンドもこっそり調べたが、ライブなんて年に三回程度しかやっていない。


 しかも、ライブの様子を撮った動画を見る限りでは客の入りも一桁か十数人程度で全く盛り上がっておらず、演奏も聞くに堪えない高校生の文化祭以下レベルのお粗末なものだった。


 三井と一緒に乗っていて轢いてしまった。いや、三井が運転していて轢いてしまったのだ。あり得る。あの軽薄な男は真っ先に逃げることを考えそうな雰囲気がある。そして、そうなったら秋穂は流されるままに、寿光に着いて行ってしまう。物語のお姫様と王子様の逃避行のように。


「夏子ちゃん?」

 いけない。考え過ぎた。

「すみません。ちょっと体調が悪くて」

「あら、そうなの? 押しかけちゃってごめんね」

「いえ、全然。それより、お土産ありがとうございました」

「ええ、お大事にね」

「失礼します」


 そそくさと別れを告げて、ドアを閉めた。覗き穴を見ると、すでにドアの前にはいなかった。隣の家のドアが閉まる音が聞こえた。七海さんはこんなことで機嫌を損ねたりしないから、気が楽だ。鍵を閉める。


 それより、どういうことだ?

 秋穂は昨日、家に帰ってきたのは十四時ごろと言っていた。七海さんに記憶違いがあったとしても、十四時半より前ということはないだろう。


 ……疲れた。この二日間、情報が多い。秋穂のアリバイ証明に始まり、敦による奥さんの殺人、秋穂の轢き逃げ疑惑。


 でも最低限、本当に秋穂は轢き逃げに関わっているのかいないのかを確かめなければ。

 そう思いながら、私は眠りについた。



 ────ブブブ…………ブブブブブブ…………ブブブブブブ…………

 スマホのアラームが鳴っている。音が鳴るとびっくりして心臓に悪いので、バイブだけにしている。

 十七時〇〇分。

「んんー……」

 四十分くらいは眠れただろうか。


 夕飯の準備をしよう。秋穂の機嫌を取るために、今日はカレーにする。油を敷いて、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、豚肉を軽く炒め、水を入れぐつぐつ煮る。灰汁が出たら丁寧に取り除き、十分に火が通ったら、一度火を止めてカレールーを入れる。秋穂は意外にも辛いのは得意で、我が家のカレールーはいつも中辛だ。カレールーを溶かしてから火をつけ直し、とろみが出るまで焦がさないように時々混ぜながら煮込む。ふう、完成。白米は寝る前に準備しておいたので、すでに炊き上がっている。取っておいた新米を使った。あとは秋穂を待って、真相を聞き出すだけだ。



 秋穂はカレーをはふはふ言いながら美味しそうに食べている。そろそろ頃合いか。

「秋穂、最近、あの寿光くんとはどうなの?」

 少し外堀から聞き出すことにした。


「トシくんと? 普通だけど?」

 秋穂は目だけを私に向けて、カレーをそのまま食べている。機嫌は悪くなさそうだ。

「最近、仲良くないのかなって思って」

「なんで?」

 秋穂が顔を上げた。機嫌は損ねていない。それよりも何でそう思ったのかというような不思議そうな表情だ。


 核心に迫る質問をぶつける。

「昨日、秋穂、大学終わってランチ行ったら、そのまま帰ってきたんでしょ?」

「う、うん」

「いつもだったら、シビックを寿光くんに運転してもらって、遊びに行くじゃない」


 シビックを運転してもらって、と言うより、車を持っていない三井に運転させてあげて、と言った方が正しいが、それは言わない。三井の運転は知らないが、何となく荒そうだ。日頃のストレスをぶつけるように危険運転をしていても不思議じゃない。


 秋穂は黙った。黙るということは、やはり三井と一緒にいたのだろうか。


 私が疑問を投げかけてから十数秒が過ぎた。秋穂の食べる手は止まったままだ。秋穂の表情がほんの少し、しっかり見ていなければ分からないほど、ほんの少し動いた。


「と、トシくん、バンドの練習があったらしいの。もうすぐライブがあるから」

 なるほど。そう来たか。

「ああ、そうなんだ。なるほどね。ライブはいつなの? 行くんでしょ?」

「うん。再来週だよ。私も行くつもり」

「そう、成功するといいね。あっ、そう言えば、隣の七海さんがお土産くれたよ。まんじゅう。熱海に行ったんだって。温泉いいよね〜」

 それから、温泉に行きたいという話、美肌効果のある温泉の話、美容の話になった。


 十分だ。十分に確証を得た。

 秋穂は嘘をついている。


 三井寿光の所属するバンドは先週、無期限休止になっているのだ。


 秋穂はもちろんそれを知っているのだろうけど、残念ながら私も知っているのだ。私は裏アカで三井のバンドメンバー全員のSNSをフォローしている。無期限休止になったバンドとは別のバンドを組んでいて、三井がそちらでライブをするという可能性もない。


 三井は極度のSNS中毒者だ。その三井が別のバンドを組んでいれば必ずその情報を投稿するはずだが、そんな投稿はなかった。つまり、三井には現在、ライブをするためのバンドがない。もちろん、ライブが決まったという投稿もなかった。


 秋穂が嘘をつくということは、やはり三井と一緒にいたということだろう。


 ランチに真由美と行ったというのも嘘なのだろう。昼から三井とランチに行き、遊び、そしてその帰りに事故を起こした。事故を起こしたのが午後三時ごろ。そこから車を乗り捨てて、タクシーかバスか電車で帰ってきた。帰ると私がいなかったので、色々考えているうちに、昨日聞かされたようなストーリーを思いつき、私に話した。そんなところか。


 運転していたのは、おそらく三井だろう。いつも三井が運転しているのは聞いているし、さっき何気なく三井が運転していることを会話に挟んだがスルーされた。そういうことを考えても、三井が運転していた可能性は高い。


 しかし、轢き逃げは同乗者も同等の罪を背負うことになっている。

 どちらにせよ、秋穂が罪を背負うことには違いない。


 ならば、手は一つしかない。


 三井寿光を自殺に見せかけて殺し、遺書に轢き逃げは三井単独の罪だと書く。


 そうすれば、秋穂のアリバイは必要ない。秋穂のアリバイの証言を取り消し、敦のアリバイを証言する。敦のアリバイトリックにおいて、自分は嘘を一つも言う必要がない。確かに、私はその日のその時間に淳と一緒にいたのだから。あとから敦の罪を告発しても自分に罪が及ぶことはないだろう。


 そうだ、私は自分より頭の良い夫には嫌気がさしていたんだ。


 敦は私より頭が悪い。しかも、これ以上ない弱みを向こうから提供してくれた。

 次はいい結婚生活が送れるかも知れない。


 私は三井寿光の殺人計画を立て始めた。今度こそ最後になりますようにと願いながら。

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ツミ重ナル 髙樫 何某(高樫 陽雪) @takagashi_nanigashi

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