犬の学生 後編



その晩、僕は何度も鏡を見た。耳の形、目の色、毛なんか生えてないか——

何度見ても、自分は“人間”のままだった。でも、喉の奥には確かに、犬のような唸り声が残っていた。


次の日、教室に行くと、誰も僕の異変には気づいていないようだった。けれど、僕の中では何かが崩れ始めていた。教室のざわめきが、遠く、低く、まるで獣たちの唸り声のように聞こえる。


アカサカが、僕に話しかけてきた。


「心が完全に壊れる前に、君自身を取り戻せ」


「どうやって……?」


「言葉を取り戻すんだ。誰かに伝えるんだよ、“本当の自分の声”を」


アカサカの言葉が、本当なのかどうかなんて、もうどうでもよかった。とにかく、何かしなきゃ、自分が“消えて”しまう気がして。


僕は、フジサキに会いに行った。


学校の外れにある、古びた図書室の裏。その窓の下に、彼はいた。制服を着た黒い犬の姿で、静かに地面に伏せていた。


「藤崎……聞こえるか?」


犬の耳がピクリと動いた。


「ごめん、俺……何もできなかった。見て見ぬふりしてた。言葉にしなかった。それが、あいつらと同じだったんだよな」


犬の目から、ひとしずく、涙が落ちた。


その瞬間、僕の耳に響いていた犬の声が、ピタリと止んだ。


喉が焼けるように熱かった。でも、もう僕は人間の声を取り戻していた。


次の日、教室にはアカサカの姿がなかった。


代わりに、誰も知らない“新しい柴犬”が座っていた。


「アカサカ君は、ずっとあそこに座ってるよ」


教室の空気が重くなった。


ああ、そうか。アカサカは、あの日、もう“完全に犬”になってたんだ。

でも、その前に僕を助けようとしてくれた。


教室の窓の外を見た。


校庭には、制服を着た犬たちが何匹も走り回っている。


その中に、一匹だけ、空を見上げる柴犬がいた。まるで、名残惜しそうに、この世界に背を向けるように。


僕はノートを開いた。言葉を、取り戻すために。誰にも届かなくても。


隣の席の女子が僕を見て言った。


「……平尾君、なんか今日、吠え声みたいだったよ。風邪?」


僕は黙った。


喉の奥に、また、小さな“鳴き声”が戻ってきていた。


──“人間”でい続けるには、言葉を、心を、失ってはいけない。


この世界は、生き難い。


犬たちだけが、今日も正直に生きている。


(完)

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犬の学生 @erhngi

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