魔蝶 -ファウナの庭【断章】-

白武士道

〈魔蝶〉

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 ヘルマンは何でもできるやつだった。


 剣術、馬術、数学、文学。何をやらせても一番の文武両道で、それに胡坐あぐらをかかない努力家。性格も素直で物腰も柔らかい、誰もが認める優等生だ。


 唯一の瑕瑾かきんといえば庶子であることだが、それも彼にかかれば人徳に早変わり。不遇な生まれが健気さを際立たせ、彼の助けになるべく周囲に人が集まってくる。


 まさに、少年の日のヘルマンは小さな英傑そのものだった。


 ところが、僕はそんな彼を嫌っていた。大嫌いと言ってもいい。


 ヘルマンがいるせいで、僕はいつも二番手。


 何を、どれだけ頑張ったところで、目立った活躍ができない。


 しかも、これで僕のほうが家柄が良いのだから最悪だ。


 僕がヘルマンに負ける度に、母親は深いため息を、親父は「格下に負けた恥晒し」と刺々しい言葉を吐いてくる。


 そんな毎日を送っている僕が、彼に好意を持つなんて土台、無理な話である。


 事実、彼に友情を感じたことは一度もない。


 ……ないのだが、趣味に関しては、どういうわけか妙に馬が合った。


 趣味というのは、ちょうの採集のことである。


 幼少期というのは、誰しも虫に関心があるもの。僕も多分に漏れず、一人の虫取り少年として余暇を過ごしていた。


 他の皆は、いかにも格好よさげな甲虫に熱を上げていたが、僕にとっては蝶こそが昆虫採集の華だった。


 優雅な飛翔。美麗な模様。鮮やかな色彩。


 他の虫では味わえない品のある美しさに、僕はすっかり虜になってしまったのだ。


 それからは毎日のように捕虫網を握りしめ、野山を駆け巡っては蝶を探した。


 珍しい蝶を捕まえた時などは、金脈を掘り当てた鉱夫のような気分になって、夜も眠らずに愛で通した。それくらい夢中になっていた。


 しかし、蝶は短命だ。どれだけ大切にしても、すぐに死んでしまう。


 その寂しさから、やがて、彼らの姿を永遠のものにしたいと考えるようになった僕は標本技術を学び始めた。


 そんな時に、ヘルマンも蝶の採集をしていることを知ったのである。


 複雑な思いだった。


 これまで一人で蝶を採っていた僕は、かねてから、誰かと一緒に蝶を採りたいという欲求があったからだ。


 ……よりにもよって、こいつかよ。


 とはいえ、同好の志というものは得難いもの。


 僕はこれまでの恨みつらみを棚に上げ、彼をとして受け入れることにした。



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 そんな二人の関係は大人になっても続いていた。


 今でも暇を見つけては蝶を採り、意見を交わす日々を送っている。


「いい大人なのに……」


 母たちは蝶集めが辞められない僕たちに心を痛めていたが、次第に文句を言わなくなっていった。


 愛想が尽きたからではなく、僕たちが〈夜蝶の会〉への参列が許されるほどの採集家に成長したからである。


〈夜蝶の会〉とは、立場や身分の垣根を超えて国中の同志が集まり、蝶への愛を自由に語ることができる会合だ。


 入会には厳しい審査があるので、来るもの拒まずというわけにはいかないが――下は庶民の富豪から、上は王家にゆかりのある大貴族まで、構成員の幅は異常なほどに広い。


 ここで一角ひとかどの採集家になるということは、文字通り、上級貴族にさえ一目を置かれる立場になるということである。


 雲上人との縁故えんこは、下流貴族出身の僕やヘルマンにとって、出世のための千載一遇の好機。母たちが蝶の採集を黙認しているのは、この旨味があるからだ。なんと現金なのだろう。


 そんな〈夜蝶の会〉において、僕は標本作りの丁寧な仕事が評価されて一定の地位にあった。


 加えて、僕が所有する〈キンイロオオトリチョウ〉の標本は、種としての美麗さはもちろん、稀少度も申し分ない一級品だ。


 このおかげで僕の会員としてのは、ヘルマンよりも上位にあった。


 格付けが決まった時のヘルマンの悔しそうな顔は、今でも覚えている。


 いや、きっと、生涯忘れることはないだろう。


 何もかも劣っていた僕が、この人生でただ一つ、あのヘルマンに実力で上回った瞬間なのだから。



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 だが、そんな僕のささやかな栄光は一夜にして崩れ去った。


 ある日の会合で、ヘルマンはとんでもない一品を披露してきたのだ。


 ――迷蝶めいちょうの標本である。


 迷蝶とは、台風などの強い風に乗って、から流されてきた外来の蝶のことだ。渡り鳥のように習性として土地から土地へ行き来するのではなく、偶発的に迷い込んでくるので迷蝶と呼ぶ。


 迷蝶は、幾重もの偶然が重ならないと手に入らない貴重なものだ。


 しかも、多くの場合、生息環境が違うためにすぐに死んでしまう。そんな彼らと生きているうちに出会い、傷つけずに捕獲し、標本にできたのは奇跡に等しい偉業だろう。


 当然、この集まりに属している人々はその価値を知っている。会場はあっという間に熱狂の海に包まれ、ヘルマンを称える声で埋め尽くされていた。


「ちくしょう……」


 煮えたぎるような会場とは裏腹に、僕の心は冷え切っていた。


 あの迷蝶は美術品としても、学術的資料としても、どちらも最高峰の価値を持っている。


 それに比べて、僕の一番の品である〈キンイロオオトリチョウ〉は珍しくはあるものの、苦労をすればどうにか手に入る程度のもの。稀少度では大いに劣っていた。


 あれがヘルマンの手元にある限り、僕はもう二度と彼に勝つことができない。


 その現実が、僕の胸を締め付ける。


 どうすれば……どうすれば自分の格を挽回できる? ヘルマンに勝てる?


 あいつの顔を悔しさで歪ませるには、どんな蝶を手に入れればいい?


 そんなことを考えながらヘルマンをにらんでいると、ふいに目が合った。


 誇らしげな輝きを秘めた瞳。偉業を成し遂げた勇者の眼差し。今でも、彼はあの日の英傑のままだと思い知らされる。


 蘇った少年の日の思い出が、ますます僕を陰鬱にさせた。



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 転機が訪れたのは、それからすぐだった。


 怪しげな男が、僕のところにの情報を売り込みにきたのだ。


 あの手この手で金を欲しがる情報屋まがいの乞食たち。収集家の元にはたまにこういったやからが現れる。


 普段なら相手にしないのだが、何としてもヘルマンに対抗する一品が欲しかった僕は、一縷いちるの望みをかけて話に応じることにした。


 聞けば、その男は密猟者だという。


 森というものは基本的に誰かの所有物だ。


 大体は、その領地の主である貴族のものだが、許可を得て、近隣の村々が共同で管理する場合もある。


 いずれにせよ、森は所有者にとっての財産であるため、無断で木材や山菜を採ったり、獣を狩ったりする密猟者は立派な犯罪者だった。


 そうと知って男を警吏けいりに引き渡さなかったのは、彼が忍び込んだ森というのがイール地方の〈神域〉だったからである。


 人間の支配を受けていない原生林〈神域〉。


 そこには、人間の世界には分布していない神秘的な植物や動物が生息していると考えられており、密猟者は一獲千金を狙ってこぞって〈神域〉に潜り込む。


 無論、無断で入れば普通の森と同じように刑罰の対象となるのだが、大部分がため、見逃されるのが通例だった。


「それで、新種の蝶という話だが?」

「へい。これなんですがね」


 そう言って、男が差し出してきたのは蝶の死骸だった。


 どうやら、密猟時の荷物の中に紛れ込んでいたらしく、荷解きしている時に見つけたのだそうだ。


 その話が真実なら、本当に新種の蝶の可能性がある。


「何と言うか、ちょっと気がしましてね。どうぞ、検分してください」


 僕は死骸を受け取ると、慎重に分析を始めた。


 破損状況は酷いもので、左はねは無残に千切れ、足もところどころ欠けてしまっている。発見の経緯を考えれば無理もないことではあるが、愛蝶家としては目を背けたくなる有様だ。


 残された右翅の表側は、無地の青色をしていた。磨かれた金属のような光沢色が美しい。だが、これだけでは既存種とも限らない。青色の構造色を持つ蝶は他にもいるからだ。


 となると、問題は裏側だが……。


 くるりとひっくり返してみると、僕は驚きに目を見張った。


 


「そんな馬鹿な!」


 僕の反応に、男は我が意を得たりといった顔をした。


 確かに


 蝶の翅というのものは、通常、表と裏でまったく違う模様になっているものだ。


 おもて面は、上空から襲ってくる鳥などの天敵に対して威嚇するために、目玉のような奇抜な模様が描かれていたり、派手な配色をしている場合が多く――


 逆に裏面は、翅を畳んで休む時に風景と同化して身を隠せるよう、地味な模様と配色になっていることが多い。


 ところが、この蝶にはそれが当てはまらない。


 表も裏、どちらも青と赤で派手な配色。いわば、だ。人間でいうなら右手が二本あるようなもの。これが悪戯いたずらでないのなら、従来の蝶の概念を覆す一大発見だ。


 僕は胸の奥がかっと熱くなるのを感じた。


 もし、この蝶の存在が真実で、これを生きたまま捕獲することができれば――ヘルマンを追い抜くことだって夢じゃない……!


「他の連中には黙っているんだ」


 僕ははやる鼓動を抑えながら静かに告げ、密猟者に多めの金を握らせた。



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 イール地方の〈神域〉に棲息する新種の蝶。


 それを探すためには、安全に〈神域〉へ行く手段が必要だ。


 あの密猟者には「もうこりごりだ」と断られた。他の猟師にも当てがないわけじゃないが、おそらく力不足だ。〈神域〉を渡るには超一流の腕前の持ち主でなければならない。


 幸運なことに、僕にはその一流の伝手があった。


 母方のおいがイール地方の駐屯騎士団に所属しており、時々、便りを寄こしてくる。


 その手紙の中に、トゥアールの村に住んでいる凄腕の猟師と、仕事を通じて縁ができたという内容があったことを思い出したのだ。


 この縁故を利用しない手はない。


 僕は甥を頼って、トゥアールの村を訪れた。


 件の猟師は村はずれの小屋に住んでいると聞き、すぐさまそちらに足を運ぶ。


 辿り着いた先で迎えてくれたのは、黒髪の少年と金髪の少女の二人組だった。


「俺がミランだ。話は聞いている。わざわざ蝶を採るために森に行きたいなんて、酔狂なやつだな」


 どうやら、少年のほうが甥から紹介を受けた猟師らしい。


 熟達の猟師と聞いて、勝手に年寄りだと思い込んでいたので、その若さに驚いてしまった。


 すると、隣の少女は――


「……奥様ですか?」


 そう尋ねると、金髪の少女は顔を真っ赤にして首を振った。


「ち、違いますよ! ちょっとお仕事で居候させてもらっているだけです!」


 聞けば、王国の最高学府〈学院〉から、この地に派遣されている賢人らしい。


 名前をファウナといい、動物学を専攻しているそうだ。彼女も調査の一環として蝶探しに同行するらしい。


 なんせ、相手は未知の蝶である。本職の研究者からの協力を得られるのは、こちらとしてもありがたい話だった。


 情報共有のため、僕は蝶の死骸を二人に見せた。


「こいつは〈魔蝶〉だな。〈神域〉で見かけたことがあるよ」

「ええ!? こんなに面白い蝶のこと、なんで教えてくれなかったんですか!」


 冷めた口調のミラン少年とは対照的に、ファウナ女史は声を荒げた。彼女はこの蝶の特異性に一目で気づいたようだった。


「そんなに珍しい蝶だとは知らなかったからな」


 ミラン少年は非難がましいファウナ女史の視線をうるさげに払う。彼からすれば、この近辺に棲む見慣れた生き物の一匹に過ぎないのだろう。


 それにしても、気になることがある。


「随分、物々しい呼び名ですね」

「由来については俺も詳しくは知らない。ただ、親父からは、この蝶を見かけても追いかけるな、見かけたらすぐに去れって教わった」

「……危険な蝶なんですか?」

「いや、足元に気をつけろって警告じゃないかな。綺麗な蝶だから、見とれて歩いていると足元がおろそかになるぞ、みたいな。なんせ、捕まえようとか思ったことがないからな。実感が湧かないんだ」


 僕は安堵した。その教えを理由に、案内を断られるかと思ったからだ。


「では、〈神域〉に案内していただけるのですね?」

「ああ。……ただし、条件がある」


 ミラン少年は真剣な表情で言った。


「蝶がどうあれ、〈神域〉はとても危険な場所だ。俺が危ないと判断したら、蝶は諦めて引き返してくれ。それが飲めるのなら案内しよう」



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 話がまとまった僕たちは、その日のうちから〈神域〉へ潜入調査を開始した。


 まだ太陽は高い位置にあったが、落葉樹の天蓋が陽光を遮っているため、森の中は宵の口のように薄暗かった。


 生えている植物も多種多様で、どこにいても生き物の息遣いが聞こえてくる。何というか、森全体に濃密な生命力が充満している感じだ。


 この原生林の前では、有用樹種で占められる人工の森が、いかになのかがわかると言うものだ。


 僕たち三人は、とりあえず、水源地に向かって進むことにした。


 わからないことだらけの〈魔蝶〉ではあるが、口吻こうふんの形状から花の蜜を吸うのは間違いない。だとすれば、とりあえず花が咲いている場所を目指すのは、当てもなく歩くよりはよほど合理的だ。


「慌てずについてこい」


 そう口にするミラン少年の案内はとても配慮の行き届いたものだった。


 常に先頭に立ち、後続が歩きやすいように枝を薙いでくれているし、危険があったとしても事前に排除、ないし、注意を促してくれている。甥の評判の通り、この森の歩き方を熟知しているようだった。


「お」


 と、何かを発見する声。ミラン少年が足を止める。


「こんなところにも蝶が集まっているぞ」


 指さした古びた木の根元。そこに蝶が何匹も集まっていた。


「ああ、ですね」

「集会? 井戸端会議でもしているのか? あっちに花が咲いているとか、あの茂みには蟷螂かまきりがいるとか?」


 思わず、苦笑が浮かぶ。なるほど。森には熟達してはいるが、生き物の学術的な生態に詳しいわけではないのか。


「ええっとですね……」


 どう説明したものか考えていると、ファウナ女史が会話に入ってきた。


「本当に集会をしているわけじゃないですよ。蝶が地面に集まる場所は、動物の排泄跡だと考えられています。花の蜜を吸うだけでは足りない栄養素を、ああやって補給しているんです。残念ながら、〈魔蝶〉はいないようですが」


 過不足ない説明に感心する。さすがは〈学院〉の賢人と言ったところだろう。


「なるほど。……親父が言っていた意味が解る気がするな」

「と言いますと?」

「獣は無意味に糞尿ふんにょうを垂れ流さない。排泄跡がある場所は、自分の縄張りだと誇示しているんだ。つまり、蝶を見かけたら去れって言うのは、縄張りに踏み込んだぞ、鉢合わせする前に逃げろって意味なんだろう」


 その言葉に、僕は内心でミラン少年を笑ったことを謝罪する。


 彼は単に学術的な知識を持たないだけで、与えられた情報から正解を導き出す地頭の良さがある。学術的なファウナ女史と、実地のミラン少年。実に相性のいい組み合わせじゃないか。


「というわけで、さっさと離れるぞ」

「はい、ミラン隊長」


 ファウナ女史のひょうきんな合いの手に空気が明るくなった、その時だ。


 僕たちの視界の端に、青と赤の煌めきが舞うのが見えた。



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 軌跡を追って茂みを抜けた僕たちは、開けた沼地に出た。


 久しぶりに見た青空の下、ぬかるんだ泥の水面に、お盆のような大きな葉っぱと、薄桃色の鮮やかな花弁が広がっている。どうやら、ここは睡蓮すいれんの群生地のようだ。


「綺麗……」


 ファウナ女史の放心したような声。


 眼前の睡蓮畑に、あの〈魔蝶〉が飛んでいる。


 それも一匹ではない。何十、何百という群れを成して飛翔していた。


 ――大当たりだ!


 僕は内心で喝采の声を上げる。ついに僕はヘルマンに勝る偉業を成し遂げたのだ。


 にやけ顔が止まらない。本当はすぐにでも飛び出して、捕虫網を振り回したい気持ちでいっぱいだったが、焦って失敗しては元も子もない。


 僕は懸命に衝動を抑え、蝶たちを驚かせないようにゆっくりと睡蓮畑のほうへ歩いて行った。


 どの〈魔蝶〉も、まるで光の鱗粉を振りまいているかのように、赤と青の輝きを交互に放ちながら飛んでいる。


 あの磨いた鏡のような光沢色の翅が木漏れ日をそれぞれの色に分解して、チカチカと弾いているのだ。


 まるで空飛ぶ宝石のような悪目立ちだが、生存に不都合はないのだろうか。


 いや、今は考えても無駄だ。それはこれから本職が研究すればいい。


 大切なのはそれを発見して、捕獲したのは僕だという事実である。


「あ、こっちに来た!」


 少し離れたところで、ファウナ女史が嬉しそうな声をあげる。


 僕たちが近づいても〈魔蝶〉たちは全然逃げない。むしろ、蝶が自らがファウナ女史の周りを、まるで甘えるように舞っている。神秘的な蝶と戯れるファウナ女史の姿は、一枚の絵画のように美しかった。


 ……それにしても、さっきから目がチカチカする。


 大発見に興奮したからだろうか。それとも、あの蝶の煌めきを見続けたせいだろうか。どうにも目の奥を刺すような嫌な刺激が続いている。


「あっ……」


 どうやら、それはファウナ女史も同じだったようだ。


 急に具合が悪くなったように、前かがみになって目頭を押さえ始め――次の瞬間、ファウナ女史の体がいきなり痙攣を始めた。


「あぁ――っ!」


 喉を絞るような絶叫が睡蓮畑に響く。


 その一瞬後、今度は糸が切れたように脱力。ファウナ女史は、受け身も取らないまま沼地に倒れ込んでしまった。


「おい、ファウナ!」


 ミラン少年が血相を変えてファウナ女史に駆け寄った。


 荒々しい手つきで、未だにまとわりついている蝶たちを払いのける。


 新種の蝶になんて乱暴な――と言いたいが、ファウナ女史の急変を考えれば、それどころではない。


「一度、ここから離れるぞ!」


 ミラン少年は泥だらけのファウナ女史を抱きかかた。


「下手に動かさない方がいいんじゃないか?」

「ここに留まるほうが危険だ!」


 後ろ髪を引かれる思いだったが、鬼気迫る表情に気圧された僕は、彼の後に続いて睡蓮畑から離脱した。



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 睡蓮畑から少し離れたところで休ませていたファウナ女史が意識を取り戻すと、開口一番にこう言った。


「残念ですが、捕獲は諦めましょう」

「そ、そんな、どうして!?」


 信じられないことを口走る彼女に、僕は動揺を隠せなかった。


 ファウナ女史が自己分析したところによると、彼女に起こった症状はひかり過敏性かびんせい発作ほっさというものらしい。


 例えば、真っ暗な中で急に落雷があると、その強烈な光で目がチカチカしたり、眩暈がしたりすることがあるだろう。あれと似たような症状だそうだ。


 無論、あの沼地で落雷なんて起こっていない。


 原因は〈魔蝶〉の羽ばたき。


 あの蝶が羽ばたく度に点滅する赤と青の輝きを、すぐ目の前で凝視してしまったことによって、光過敏性発作が誘発したのだという。


 つまり、それは――


「あの蝶が、ってことかい?」

「自衛的意味合いも含みますが、そう言っていいでしょう。よく見ようとすればするほど、あの蝶の攻撃は効果を発揮します。……まるで好奇心や執着心を持つ人間の天敵みたいな生き物ですね」

「だからって、このまま何もせずに逃げるっていうのか? 手の届くところに、新種の蝶がいるっていうのに! それに、その光過敏性発作だって仕組みがわかれば対策はできるじゃないか! 要は凝視しなければいいだけだろう?」


 僕の必死な訴えに、ファウナ女史はかぶりを振った。


「理由は他にもあります。仮に捕まえられたとしても、あの蝶を外界に連れ出すのは問題があると直感したのです。人間の天敵みたいな蝶を下手に持ち出して、人里で繁殖させてしてしまえば、取り返しのつかない事態を招くことになる。せっかく棲み分けられている現状を、わざわざ壊すのは推奨できません」

「なら、一匹だけ捕まえたらいい! 一匹だけなら繁殖しようがないだろう!?」

「我々の常識外の生き物ですよ。単為生殖する可能性だって否定できない。一匹だけという油断が不測の事態を招くことだってあります」

「だったら、この場で締めたらいいじゃないか。どうせ標本にするんだ。死骸なら増えることだってない!」


 それでも、ファウナ女史は首を縦に振ることはなかった。


「いいですか、環境というものは奇跡的な調和で成り立っているんです。わたしたちの行動が未来でどのような形で影響を及ぼすのか、それを完全に予測することは人間には不可能なんですよ。一番確実なのは、彼らを持ち帰らないこと。〈学院〉に報告するまでは保留にするべきです」


 ……話にならない。


 たかが蝶一匹、森の外に持ち出すくらいでどんな影響が出るって言うんだ。


 さては、大袈裟なことを言って僕を諦めさせ、その隙に、新種の生息地を発見した功績を独り占めしようとしているんじゃないか?


 冗談じゃない。あの蝶は僕が発見した。僕だけのものだ。僕だけが栄光を手に入れるんだ……!


 だが、今ここで言い合っても、いい結果にはならないだろう。


 僕は聞き分けたふりをして、彼らとともに森の外へ戻った。


 もちろん、諦めてはいない。


 二人と別れた後で、もう一度〈神域〉へ戻るつもりだ。


 ファウナ女史の報告を受けた〈学院〉がどう判断するかわからないが、状況によっては、〈魔蝶〉の捕獲はおろか生息地の公開さえ禁止される可能性がある。


 その触れが出てしまったら、もうおしまいだ。あの蝶を捕まえても意味がない。法を破ったと非難され、罪に問われるからだ。


 いくら法で取り締まろうと闇市では流通するだろうが、そんなものを〈夜蝶の会〉に持ち込めば恥知らずと糾弾され、会員の資格を剥奪されかねない。


 だから、ファウナ女史が〈学院〉に報告する前に、何としても、僕の手で一匹だけでも捕まえなければならなかった。


 ここでそれができなければ、もうヘルマンとの差を巻き返すことは不可能になってしまう。


 今しかない。


 そんな強迫観念に駆られ、僕は〈神域〉へ戻った。


 一度は行った場所だ。ミラン少年が拓いてくれた道もまだ残っている。あの睡蓮畑がある場所まではどうにか行けるだろう。そう楽観的に考えていた。


 ――しかし。


「ここはどこだ……」


 歩けど歩けど、一向に睡蓮畑が近づいてこない。


 間違いなく、ミラン少年が切り開いた道と同じ経路を歩いているはずなのに。


 もしかして、どこかで道を間違えたのかもしれない。そうと思って踵を返すと、これまで歩いてきた道が忽然となくなっていた。ミラン少年が薙いだはずの枝も、僕たちが踏み潰した草のわだちも消えている。


 ……そんな馬鹿な。あの短時間で再生したとでもいうのか。


 ざわざわと、風が吹いて梢が不気味に揺れた。日が暮れ始めたのか、気温も下がってきたように感じる。


 ……まずい。


 身に迫る危機を感じた僕は、悔しさを堪えて引き返すことにした。残念だが、命には代えられない。


 真っ直ぐ。ただ真っ直ぐに、来た道の方向へ歩き続ければ、いずれは森の端に着くはずだ。


 だが、更に一刻ほど歩いても、まったく出口が見えてこなかった。


 景色も全く変わらない。まっすぐ進んでいるはずなのに、ぐるぐると同じ場所を回っているようにも感じる。


 途方もない疲労と空腹で朦朧としながらも、さらに歩き続けていると――視界の端で青と赤の色彩が煌めくのが見えた。


「やった!」


 思わず、声が出た。天は僕を見捨てていなかったのだ!


 疲れた足に鞭打って、僕はその場から駆け出す。茂みを掻き分け、光の軌跡を辿った。


 逃がさない。逃がさないぞ――


「あ!」


 瞬間、がらり、と足場が崩れた。


 いや、踏み外したのだ。足元が崖になっている。蝶にばかり目が行って、足元を見ていなかった。そのまま転げ落ち、地面に強く体を打ち付ける。


「ひぎぃ!」


 体を起こそうとすると、足に激痛が走った。どうやら、骨を折ったようだ。これでは歩くことはおろか、立つことさえできない。


 ……立つことさえ、できない? こんな森の中で? 身動きがとれない?


 その事実に、ただただ血の気が引いた。


「だ、だれか! 助けてくれ!」


 恥も外聞もなく、僕は大声で助けを呼んだ。何度も何度も。喉から血が出るほどの声量で。


 だけど、僕の声は一度たりと森の外へは届かない。どれだけ声を張り上げようと、森の木々たちが振動の一切を吸収してしまう。


「ど、どうしよう……どうしよう……」


 恐怖が胸を締め付ける。呼吸が早くなる。冷汗が止まらない。足の痛みは引かない。喉が渇いた。腹も減った――ああ、どうしてこんなことになったんだろう……!


 絶望する僕の目の前に、ひらりと〈魔蝶〉が現れた。


 まるで、動けなった僕を嘲笑っているかのように、手を伸ばしても届かない高さをくるくると舞う。


「あ――あぁ――」


 見てはいけない。


 見てはいけない、のに。その美しい輝きから目が離せなかった。


 ……ああ、僕はいつから間違えたんだろう?


 決まっている。

 それはきっと、最初から。


 少年の日の思い出に捕らわれ、追い求める目的がすげ替わった時点で、僕は蝶を愛する資格を失っていた。母の言う通り、子供の時に卒業するべきだったのだ。


 チカ。チカチカ。


 そして、僕の意識はぽとりと闇の淵へと落ちていった。


 羽ばたきをやめた蝶のように。




/了

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