綾小路エリカノと袋小路の僕

四角い柿

スポーツができる男子はもてるっていうよな。


 綾小路エリカノは地上に舞い降りた天使だ。政治家の汚職事件や税金使い込みで先が暗い現代社会を照らす、僕にとっての光だ。

 一方僕は至って普通の、夏休みや春休みに撮りためた甲子園中継を見るのを唯一の趣味とする帰宅部の高校二年生だ。

 僕は綾小路エリカノに恋をしていた。

 彼女は文武両道才色兼備で性格も良い。そして何より、ぼでーが峰不二子。

 同じクラスになれただけでも奇跡が起きたように嬉しかった。

 授業を受けている最中でも、僕は彼女の優しい横顔や可憐な仕草や主に横乳に目を惹かれる事が多い。

 僕は彼女に惹かれていた。

 綾小路エリカノは僕にとっての天使であると同時に、その他大勢にとっても天使のようで、ちょっとした休み時間でもできると、その他大勢どもが人垣となって彼女の座る窓際の席を取り囲む。

 マクドナルドのポテトが今だけ全サイズ百五十円なんだよ、などといった無味乾燥な話を振り、彼女の貴重な休み時間が消費される。

 僕は隣の席のカズオと盛り上がった会話をしている振りをしながら、彼らの一部始終を最も廊下側の席から眺めていた。

 人垣の所為で綾小路エリカノの姿が見えないではないか。

 注意散漫になっていると、カズオにデコピンをされた。

「ゴン、話を聞け」

 ゴンというのは僕の愛称だ。他の人にはナカヤマと呼ばれることもあるが、僕の本名はそのどちらからも程遠い。顔も似てない。

「何だよ、カズオ」

「ゴン、一ヶ月後の球技大会何やる?」

 ちょっと前まで、任天堂とソニーの話題をしていた筈だが、いつの間にか話題が大きく変わったらしい。

「僕は確かサッカーだった気がする」

 昨日、体育の時間にチーム分けがされた筈だった。

 深夜のワールドカップを毎試合見るほどのファンだというカズオは僕の話を聞いて熱くなる。

「ゴンってサッカー得意だったっけ? リフティング何回くらいできる?」

「超得意だよ。当たり前だろ、もちろんそうさ。……ところで、リフティングって何?」

 カズオの表情が失望に染まるのを見た。

 窓際の人垣の方でも、球技大会の話題が出たようだ。

 女子はバレーボールかソフトボールかのどちらかに分かれるそうで、綾小路エリカノはバレーボールをやるらしい。

「私苦手なんだよね」

 綾小路エリカノは座った姿勢で小さくトスの動きをする。それだけで、彼女の胸元の露骨な双丘が揺れた。

 人垣に入れない気弱な男子高校生たちが小さくガッツポーズをするのを見た。

 僕は彼らとは違うので、カズオにハイタッチを求めた。

 廊下側に座る僕の方を見て人垣が視界に入らず何が起きたが知らないカズオはただただ困惑するだけだった。

 綾小路エリカノの一挙動一投足は僕に大きな影響を与えるものになりつつあった。

 彼女が髪を小さく掻き上げる姿に僕の目は釘付けになり、彼女のくしゃみの音に耳をそばだてた。

 彼女の隣に立ち彼女と会話することができたなら、僕は喜びのあまりに死んでしまうかも知れない。

 綾小路エリカノの傍に居たいのに、一番遠い席から人垣を見るだけの自分に嫌気が差す。



 四月の陽気は眠気を誘う。

 起きたらいつの間にか放課後になっていたようだ。

 殆どの生徒は部活なり塾なりアルバイトなりに青春の貴重な時間を使いに向かったようで、クラスには青春を怠惰で埋める決意をした数人しか残っていなかった。

 隣には、帰宅部仲間のカズオが真剣な顔をしていた。消しゴムとシャーペンの芯のケースなどを使ってタワーを制作しているところだった。

 怠惰へ向かって邁進している良い例だ。

「邪魔するなよ、良いところ何だから」

 ぶつくさいうカズオ。

 集中を途切れさせたくないらしい。

 僕も帰宅部に属する者らしく、カズオを見習おう。

 ポケットからプラスティックのトランプの束を取り出し、二つの山に分ける。

 分けた二つの山で『へ』の字を作り、二つの山をお互いの方向へ反らせた後、手の力を徐々に抜いていく。

 二つの山は底辺を目指して交互に落ちていく。

 これだけでは重なるところの少ない不完全な一つの山を、半円の形に反らせて、一つの山になるように均す。

 マシンガンシャッフルと呼ばれるトランプの切り方だ。

 机を使わず空中で行う。

 怠惰への飽くなき探究心と突き詰められたリビドーにより僕は手先ばかりが器用になっていた。

 空中でのマシンガンシャッフルは僕が小学生の頃に開発した技術だ。テレビに映るマジシャンが教えても 居ないのに全く同じことをやってみせていたが、誰にも習わず編み出したということを誇っている。

 誰に自慢するでもなく、放課後は一人でトランプを取り出し、一人でトランプをシャッフルし続けて過ごすことが多い。

 しばらくそうしていると、カズオが僕の顔を凝視して見てくる。

 変人を見る目だ。

 哀れみさえ漂わせている。

「カズオ、一人でタワー作って楽しいか」

 僕の声は震えた湿っぽい声だった。

 風が心地よいという話になり、カズオと共に窓際に立ち、階下の様子を見る。いつの間にか教室も二人だけになっていた。

 スポーツに青春を捧げる野球部や男子テニス部しか見えない。

 男臭い集団だ。

 カズオは平気そうにしているが、このまま見続けると目が潰れるような気がした。

「ゴン、部活入らないのか」

 カズオが階下を見ながら予想外の事を口にした。

「一年生ならいざ知らず、四月だからって新規に入る必要はない」

 僕らは二年生だ。後輩しかいない三年生からならまだ考えても良いが、今更部活動をする気にはなれなかった。

 そんなことより、今なら誰にも咎められないし綾小路エリカノの席に座り放題ではないか。

 不自然さがでないように、鼻歌を歌いながら綾小路エリカノの席に座る。

 座るだけでなく突っ伏して頬を机にあててみる。

 綾小路エリカノが毎日座っている机だ。

 僕はそれだけで『ご機嫌』になった。

 放課後にいつまでも教室に残っている生徒はどのクラスにも必ず居るけれど、そういった生徒の大半は片思い相手の席に堂々と座ることにあるのだと僕は思った。

「お、右京がいる。おーい」

 カズオは階下に居るらしいクラスメートに向かって手を振った。

 右京といえば、あの右京だ。

 スポーツ万能、成績優秀。テニス部のエース。いけ好かない奴だが、僕にすら気遣いを見せる性格の良い完璧超人。

 名字は広井王子だと聞いた。

 カズオは帰宅部部員とは思えないほど交友関係が広いので、右京や他の男子テニス部の面々と面識があるようだった。

「ゴンも手を振りなよ、こんな時間に一人で教室にいると、ぼっちだと思われるだろ」

「断固拒否する。僕はそこまで手を振るのが似合う男じゃない。それに、特に仲良くない奴から手を振られても気味悪いだけだ」

「なるほど」

「知っているだろ。僕にはカズオしか友達がいない」

「重々知ってるよ」

 自虐的に笑ってみせると、カズオは鼻で笑ってみせた。

 僕が目頭に溜まった液体状の何かをそっと拭ってみせると、カズオは鼻で笑ってみせた。

「おい。友達甲斐のない奴だな」

 僕がツッコミをいれると、カズオは笑った。屈託のない心の底からの笑顔だ。

 僕もつられて笑ってしまった。

 カズオは愉快な性格をしている。交友関係が広いのも頷ける。

「カズオは中学の時、部活入ってたのか?」

「テニス部に入ってた。右京はそのときからの知り合い。アイツは昔から何でもできた」

「へー」

 あまりにも関心のない話題に、相づちも適当になる。

 部活といえば、綾小路エリカノも帰宅部の筈だ。

 それを聞いて、僕は帰宅部の活動に心血を注ぐ決意をしたものだったが、彼女の場合は毎日のようにある習い事に行くための無所属であり、そういう意味では僕と綾小路エリカノでは志を違えている。

 綾小路エリカノはお金持ちのお嬢様だ。

 同じクラスという小さな空間で同じ空気を吸っては居ても、僕のような庶民とは違った世界の人間に違いなかった。



 翌日の昼休みに、僕はいつものように耳をダンボにして人垣の話を聞いていると、不穏な空気を感じた。

 人垣の注目が僕の方に向いている気がしたのだ。

 遂に、僕の恋心とエッチな気持ちからくる視線に気が付いたか、とドギマギさせられたが雰囲気が違う。

 なに、あの二人、デキてるの? というひそひそ声が耳に入る。

 僕とカズオに向けられていた。

 カズオがどんなツラい誤解を受けても、僕が誤解を受けるのは我慢ならなかった。

 が、一つの誤解を解くのは根気のいる作業なので今回は見送ることにした。

 カズオもひそひそ声が聞こえたようで、内に宿る怒りによって普段と違った顔色に変化させていた。

「やめなよ」

 綾小路エリカノが僕を擁護してくれた。

 それだけで僕は有頂天に舞い上がった。

 綾小路エリカノのいう通りだ。

 僕とカズオはこの前何処かの女子が持ってきていたような薄い本に載っているようなふしだらな関係ではない。

 もし仮にそうだとしても、彼女たちにひそひそされる筋合いはなかった。

 恋愛は自由であるべきである。

 綾小路エリカノという存在は人垣にとって絶対の存在のようで、その後何か噂されることはなかった。

 カズオは僕に話かけづらそうにして、露骨に避けようとしていたが、僕にはカズオしか友達がいないので気にせず話しかけ続けた。

 人垣の話題はいつの間に、球技大会に変わっている。

 学校行事は一部の生徒にとって重要なイベントのようだ。ちなみに僕にとっては普通の日と変わらないのだが。

「ねえ、スポーツができる男子ってかっこいいよね」

 人垣の中、女子の一人がテンションの上がった様子で綾小路エリカノに話しかけた。

 応える綾小路エリカノ。彼女の声は僕にはいつも鮮明に聞こえる。


「確かにかっこいいかも」


 綾小路エリカノの一言で、僕は動きを止めた。

 カズオとしていた会話の内容も全て忘れて、身を硬直させた。

 カズオは怪訝な表情で僕の顔を覗き込む。

「僕は決めたよ」

「え?」

「青春の全てをスポーツに費やすことに決めたよ」

 カズオは返答に困っている。

 長考の後、カズオは絞り出すように声を出した。

「具体的には?」

「スポーツだよ」

 僕は即答する。

「いや、スポーツっていっても種類あるじゃん」

「全てだよ」

 僕は即答する。

 カズオは本物の天才を前にしたように驚愕の表情を浮かべて僕をみた。

「カズオ、気持ちは判るが落ち着け」

「お前が落ち着け」

 カズオはそういうが、僕は陰部も含めて何もかもが落ち着いていた。

「僕は陰部も含めて何もかもが落ち着いている」

「落ち着け」

 殴られた。

 僕を殴った初めての人物がカズオであることを僕は一生忘れないだろう。

 チャイムが鳴り、午後の授業が始まる。

 授業中、僕はスパイラルリングノートの一ページを破り取り、計画を練ることにした。

 突然スポーツを始めようにも基礎体力がなかったら始まらない。

 僕はノートに『走り込み フルマラソンくらい』と書いておいた。一日にこなすメニューを書きためているのだ。

 『走り込み フルマラソンくらい』の下に、『腕立て、腹筋、スクワット 百回ずつ』と書いてから、これぐらい普通にできるなと判断して、『腕』の字を消して『指』に直す。

 綾小路エリカノと僕では住む世界が違っている。

 別の世界にいる彼女の目にとまるためには目標を高くする必要があった。

 この世界の頂点を目指しても難しい。より高い目標を持つ必要がある。

 綾小路エリカノにかっこいいと思ってもらえるなら、僕はあらゆる困難も乗り越えていける自信があった。

 カズオに見せようと思って目を向けると、カズオが今までにないくらい集中して黒板の文字を見入っていた。

 いつもはだらけている姿勢をピンと正し、見せたことのないまじめな横顔を黒板に向けている。

 あまりに集中しているものだから、カズオは黒板の文字をノートに書き写すのも忘れていた。

 僕の真摯にスポーツに邁進しようとする姿が、カズオの心に何らかの影響を与えたのかも知れなかった。

 カズオの分もがんばろう。

 そして、スポーツに邁進した暁には綾小路エリカノと……。

 僕は頬が緩むのを止められなかった。



 放課後から僕はスポーツへの邁進をスタートさせた。

 妄想と現実は大きく違っていた。

 初日は『走り込み フルマラソンくらい』を終わらせることさえできず足がつり、僕は無言のまま帰路に着いた。

 考えが甘かったんだ。もっと地に足の着いた目標を立てるべきだったんだと後悔した。

 翌日からは『走り込み フルマラソンくらい』を達成するための目標を立てた。

 『基礎体力を作る運動の為の基礎体力作り』という訳だ。

 放課後にはすぐにジムに通い、マシンを使った筋トレと、肺活量を鍛えるために水泳をした。

 最初の休日にトレーナーを訪ねた。

「フルマラソンを走りきりたいんです」

 僕の真摯な態度に、トレーナーの鈴木さんは一緒にがんばろうといってくれた。

 スポーツの素人である僕はすぐに弱音を吐き、何度も何度も口癖のようにもうやめたいと口にしたけれど、トレーナーの鈴木さんは時に父のように厳しくしかり時に母のように優しくなだめてくれた。

 会社があるはずの平日も退社後には、僕の『基礎体力を作る運動の為の基礎体力作り』に付き合ってくれた。

 トレーナーの鈴木さんのお陰で、僕は目まぐるしい成長を遂げた。

 たった二週間だ。

 たった二週間で、僕は『走り込み フルマラソンくらい』を達成するだけの体力がつき、東京マラソンと同じルートを走りきることに成功した。

 全てトレーナーの鈴木さんのお陰だ。

「二週間の短期間で此処まで成長する選手は初めてみたよ。高校駅伝で君が活躍する日を待ってるよ」

 トレーナーの鈴木さんの言葉の意味はよくわからなかった。

 一つの目標を立ててそれを成し遂げたことによって、自分に自信が付いた。

 『走り込み フルマラソンくらい』を達成した翌日、学校に行くと、全てが変わったような気がした。

 朝のホームルームまでの時間、自分の席でゴムボールを使った筋トレをしているとカズオがやってきた。

「なんか表情が違うね。いつの間にか筋肉ついたし、見違えたよ」

 カズオと会話するのは久しぶりな気がした。

 二週間の間にあった席替えで席が遠くなったのもあったし、僕がスポーツにのめり込むばかりに疎遠になっていた。

 唯一の友人に嘘を吐くのも嫌なので、本当の事を話す。

「フルマラソンと同じ距離を走りきったんだ。そのために二週間死ぬ思いで体を鍛えた」

「冗談だろ」

「いや」

 最初カズオは笑ってみせたが、僕の表情をみて真相にたどり着く。

「ゴンは馬鹿だと思っていたけど、やればできる男だったんだな」

 カズオは僕を見直したようだった。

 そのやりとりを聞いていたらしい右京が話しかけてきた。

「ゴン、実は君に頼みがあるんだ」

 殆ど接点のなかった右京が頼み事をしてくるとは珍しい。

「来週の日曜日にマラソン大会があるんだよ。距離は十キロ。陸上部の友達に人数足りないから何人か誘ってくれって頼まれていたんだ。ぼくも出るつもりなんだけど、どうしてもあと一人見つからなくて、ゴン、頼めるかい?」

 右京は両手で合掌のポーズを取り、頭を下げる。

 他の部の厄介事を引き受けて、まるで自分のことのようにお願いしてくる。

 右京はとても良い奴だ。

 理解しがたい新種のUMAを間近に見るようで気味が悪い。

「右京、ダメだよ。ゴンは他人のために動くような奴じゃない」

 カズオは酷いことをいう。

 事実でもいって良いことと悪いことはある。

「そこを何とか」

 右京はさらに頭を下げる。

 このままだと土下座でもしそうな勢いだ。

「良いよ」

 僕は右京のお願いに短く答えた。

 毎日の『走り込み フルマラソンくらい』をやるついでに出場すればそれで済む話だ。

 カズオは驚きの表情をつくる。

「ゴン、お前、本当に変わったな」

「そうかな」

 綾小路エリカノが、僕たち三人のやり取りを見ていた気がした。

 けれど、それは一瞬で、すぐに視線が人垣の誰かに移る。

 僕は昔から変わらない。

 綾小路エリカノの住む世界を目指しているだけだ。



 日曜になり、マラソン大会が開催された。

 町中を走るらしい。

 陸上部の部長の元で右京と共に輪になって準備運動していると、黒いジャージを着た集団がやってきた。

「お前ら何年も弱小の癖に、部員数だけはうちとためはるんだな」

「――黒バラ学園っ!」

 陸上部部長は苦虫を噛み潰したような顔をする。

 右京から話は聞いていたが、弱小ながら歴史だけは長い我が校は、実力差がある黒バラ学園に、せめて人数では負けたくなかったようだ。

 面子を保つだけの本当にどうでも良い理由で、無関係の右京や主に僕を巻き込んだのかと思うと、さすがに怒りたい気持ちになる。

 黒バラ学園の集団の間から、同じジャージを着たおじさんが顔を見せる。

「久しぶりだね。まさか、こんな早く再会するとはね」

「あ、トレーナーの鈴木さん」

 僕にマラソンの基礎を教えてくれた、トレーナーの鈴木さんだ。

 いつもと服装が違うけれど見間違いようがない。普通の会社員かと思っていたら、普段は黒バラ学園のコーチを引き受けているらしかった。

「高校駅伝の前哨戦だね。良い勝負をしよう」

 トレーナーの鈴木さんは黒バラ学園の集団を連れて去って行った。

 僕に走り方を教える際もトレーナーの鈴木さんは妙にタイムに固執しているところがあった。

 トレーナーの鈴木さんの指導の専門はフルマラソンの完走する技術ではなく、駅伝による競走の技術だったようだ。

 走りのフォームや手の振り方などしっかり型にはめて教えられたのはそれが原因らしかった。

 トレーナーの鈴木さんの指導のお陰で、此処三日は朝の三時に起きれば『走り込み フルマラソンくらい』を達成してシャワーで汗を流してから学校に来るという生活リズムを作ることができた。

 放課後の時間を別のトレーニングにあてられるのも全てトレーナーの鈴木さんの指導のお陰だった。

 靴紐を結びながらウィーダーインゼリーをチュウチュウ吸っていると右京がやってきた。

「今日は付き合わせて悪かったね」

「いや、別に」

 僕は短くしか答えない。

「フルマラソンを走りきったゴンなら良いタイムでるよ」

 得意げにフルマラソン走りきった、って自慢する僕は思い出すと恥ずかしい。

 あの頃は、走りきるのに精一杯で、タイムだって全然遅かった。

 距離だけの話をすれば、毎日一キロずつ走れば四十三日目には同じ結果が手に入る。

 一つの目標に向かっていくにしても、休みなく走るのも、殆どを休みながら歩くのは大きく違っているけれど、どちらもあれを目指しているよ、あれを達成したよと同じことがいえてしまう。

 プロボクサーを目指してジムに入いり死ぬ思いで体を鍛える人と、ただジムに入っただけのなまけものも土俵は同じだ。

 二人は同じ目標を口にするだろう。

 前者は努力を隠し、誰かに自慢するような暇があれば、その分体を動かすだろう。

 後者は、前者が駆け抜けていった一歩か二歩で満足し、暇があれば誰かに自慢する。

 僕は前者のつもりでいた。

 僕は一生懸命だった。

 体をいじめ抜き、一分一秒を惜しみ、全身全霊でスポーツに邁進した。

 僕自身がその努力を知っているし、僕自身は誇りにしている。

 けれど、一週間前の僕は口が巧いだけの後者だった。

 僕は羞恥心で右京を直視できなくなってしまった

「ゴン、時間だぞ」

 スタートラインにゾロゾロと人が集まってきていた。

 右京は僕の肩を軽く叩く。

「一緒にがんばろう」

 僕は珍しいものをみた気になった。

 同年代の人にそういわれたのが初めてだったからだ。

 帰宅部の活動では中々そういってくれる人は居ない。

 スタートラインの集団の一番後ろに着くと、僕は何だかそわそわしてきた。

 ぞくぞくもしたし、むらむらもした。

 年間行事の運動会で同じように人の集まるスタートラインに立ったことはあるけれど、感覚が全然違う。

 運動会などの学校行事では、僕はいつも消極的な参加しかしてなかったからだと思う。

 自分が得意とする、他人に誇れる分野で勝負するというのがこんなに心躍るものだとは思わなかった。

 今日は大会ということで、早朝のトレーニングは流す程度にし、体力を温存してきた。

 順位を意識してしまう。

 本気を出した僕は何位くらいになるのだろう。

 力を試したかった。

 スタートの合図が辺りに響いた。



 出だしから、僕は遅れた。

 走った当初から最下位になり、目の前の集団も僕から遠ざかっていく。

 みんな、始めから本気出して後でバテても知らないぞ。と思っていたが、五百メートル地点で気が付いた。

 これはフルマラソンとは違うんだ。

 僕は普段のペースを維持しようとしていたけれど、それはフルマラソンを走りきるためのペースであって、十キロ先のゴールを目指して競走する走りではない。

 かといって、走るペースを変えるのにためらいがあった。

 普段のペースを崩すのを恐かった。

 自分の持っている許容以上にペースをあげて、途中でリタイアになるのが恐かった。

 『基礎体力を作る運動』のついでに出場しただけなのに、普段のペースを崩して何になるのかと思いもした。

 けれど、僕の体は、頭で思うよりずっと単純で。時に感情を原動力に体を動かすところがある。

 気が付いたら僕は普段なら絶対に取らないほどのハイペースで走り出していた。

 目の前に居る誰よりも早く、ゴールラインを駆け抜けたかった。

 今までの僕は全力で何かに立ち向かうことがなかった。

 全力で立ち向かって、それで負けたら格好悪いと考えて居たからだ。

 でもそれこそ単なる言い訳で、全力で何かに立ち向かう他人に対する嫉妬だった。

 全力を出さないんじゃなくて、全力を出せないんだ。

 貧弱で力がない自分を認められないだけだった。

 僕の心と体は、走るということに全力で立ち向かい、全力で勝負することを望んでいるようだった。

 格好良く生きようだなんて思っていない、ただ全力でぶつかってみたかった。

 どうせ僕なんかには失うものなんてない。

 自分の中でのハイペースは、周囲から見てもペースが早すぎたようだった。

 あんなペースでゴールまで保つはずがないと気が付いているようだった。

 陸上部でも何でもないずぶの素人が、最初だけ息巻いているだけだと考えて居るようだった。

 いくつもの集団が僕の前を通り過ぎ、後ろへ消えていく。

 僕のペースについてくる者もいない。

 ゴールまで保つのか判らない。今、何キロ走り終えて、残り何キロ残っているのかも判らない。

 我が校の陸上部部長を含んだ集団を抜いた。

 右京を含んだ集団を抜いた。

 黒バラ学園の生徒が固まった集団を抜いた。

 長く、追い抜く相手も追ってくる相手もいない孤独な時間が続いた。

 ペースが落ち始めた頃、僕の前方に綺麗なフォームで走る一人の選手が目に入った。

 中学生といわれても信じてしまうような身長の低い男子生徒だ。

 黒バラ学園のユニフォームを着ていた。

 僕が接近すると、彼は後ろを振り返ってペースを上げた。

 僕に抜かされるのを嫌い、僕から距離を取ったのが判った。

 影の薄い僕なんかを明確な敵と判断して、彼は走った。

 今までの僕は勝負事を極力避けて生きてきた。

 僕のような小さな存在が彼を追い詰めつつあるのだと思うと、何だか今までにない感情が沸いて出る。

 僕も彼の後を追うことにした。ペースを上げる。

 頭が空になるまで酸素を吐き出して、その背中を追う。

 綺麗だったフォームは崩れ、彼は全身で息をすい、全身で息を吐いていた。

 僕が近づいていることに気が付くと、彼はさらにペースを速めた。

 彼は走り、僕が追う。

 距離が遠のき、距離が縮まった。

 時間でいえばそう長くはない時間を僕たちは繰り返しそうやって過ごした。

 僕は意地になっていた。

 追い抜きそうなのに、彼を追い抜くことができないからだ。

 突然、彼が今までにないくらいペースをあげた。

 彼の走りは全力疾走に近かった。

 残りの命さえ使いつぶすような、気迫在る走りを見せた。

 彼の背中しか見ていなかった僕は、唐突に目の前に現れたゴールラインに気が付くのが遅れた。

 僕もゴール目掛けて全力疾走をする。

 気が付いたら僕は、ゴールの先の地べたに寝転がっていた。

 二位だと教えられた。

 労いの言葉もあったはずだが、結果だけが耳に残った。

 心が死んだように縮こまり、僕は呼吸をするだけの虫になった気がした。

 悔しさは後からやってきた。

 何でもっと努力しなかったんだろうと悔しく思った。

 呼吸するのも億劫だけれど、乱れた息は整えなければならなかった。

 しばらくそうして息を整えていると、一人の少年が話しかけてきた。

 僕より先にゴールを走り抜けた小柄な選手だ。

「お前、すごいな。俺をここまで追い詰めたのはお前が初めてだ」

 少年は僕に向かって、ゆっくりと手を出してきた。

 握手を求めてきたらしい。

「俺は内宮太陽だ」

 少年は名前を口にした。

 僕は名前を告げた。

「俺は陸上界でトップを目指す。誰にも負けるつもりはない。お前にもだ」

 内宮太陽は自身の心臓を親指で差して宣言する。

 内宮太陽の姿は自信に満ちあふれていた。

「お前は何のために走る?」

 僕がスポーツをする理由は一つだけだ。

 別世界の住人である綾小路エリカノとお近づきになるためだけだ。

「僕は世界を変えてみせる」

 内宮太陽はニカっと笑ってみせた。



 陸上界の新星、大会新記録を大幅に更新。

 翌日の地方新聞にマラソン大会の記事が小さく書かれていた。

『高校陸上界のレベルの高さに圧倒されるばかりだった』と謙虚さがうかがえる内宮太陽の言葉が取り上げられている。

 プロ野球選手の父と、陸上メダリストの母を持つ内宮太陽は陸上競技の世界では有名な選手だったらしい。

 内宮太陽は高校に入学したばかりの高校一年生だけれど、高校に入学して初めての校外試合で新聞の記事に載るくらいだから、既に地元が誇るスターになりつつあった。

 僕は内宮太陽に次いでの二位。

 勝ったか負けたかなんて後から付いてくるものだと人はいう。けれど、僕はあまりの悔しさにボロボロと涙を流してしまった。

 全力でぶつかって、全力で負けるというのが悔しかった。

 あまりの悔しさと脱力感から、その日は日課の『走り込み フルマラソンくらい』を諦めたほどだ。

 全力で努力して全力でぶつかれば、必ず結果が返ってくると思っていた自分が恥ずかしい。

 競技の世界では、誰もが全力で努力して全力でぶつかってくる。

 けれど、一位は一人しか居ない。

 本格的にスポーツを志して一ヶ月しか経っていない自分なんかより、ずっとずっと内宮太陽は全力で努力して全力でぶつかってきたのだろう。

 日課の延長で参加しただけなのに、こんなにも落ち込んだ気分になるとは思わなかった。

「右京から聞いたよ、ゴン大活躍だったそうじゃないか」

 カズオの声が僕の落ち込んだ気分をより一層沈ませた。

「なんだ、テンション低いな。盛り上げてやるから、偶には放課後一緒に遊ぼう」

 日課の『走り込み フルマラソンくらい』は学校に登校する前に終えていて、筋トレの方は実現までこぎ着けるのにもう少し掛かりそうだった。

「まあ良いよ」

 偶にはカズオと中身のない話をして自分を取り戻そうと思った。

「決まりだな」

 カズオはニヤリと笑って見せた。

 放課後になり、遙か遠くになったカズオの席の隣に座す。

 カズオは筆記用具や文房具でタワーを作り、僕はゴムボールで握力のトレーニングに励んだ。

 タワーの一部が倒壊を起こすと、カズオはタワー建設を諦めて、机に突っ伏した。

「ゴン、お前は変わったよ」

 カズオの視線は僕に向いていた。

「目の前にあって、いつまでも近くにあると信じていたものが突然遠くに離れていく感覚を知っているか」

「いや」

 きゅっきゅっ。

「目の前にある大事なものが、突然自分以外の大事なものを見付けて遠くへ去って行くときの気持ちを知っているか」

「いや」

 きゅっきゅっ。

 カズオは僕からゴムボールを取り上げた。

 僕は空気をしばしもみもみする。

 カズオの目は充血していた。

 僕は僕の気が付かないところで何か大きな間違いをしているのかも知れなかった。

「ゴンにとって、『あたし』は何なんだよ」

 カズオは僕にゴムボールを投げ付けると、何処かへと走り去ってしまった。

 きゅっきゅっ。

 昔、僕に大きな影響を与えた少女が居た。

 彼女はとても小学生とは思えない大きなお胸をしていたので、僕は彼女のことを好きになった。

 とてもとても好きになったので告白をし、一枚のお手紙をもらった。

『いつまでも友達でいましょう。そして、私の名前はかほりと書いてかおりと読みます』

 僕の彼女への恋心はそれで終わり、友達どころか近くに寄ってさえくれなくなったが、彼女との出会いによって僕は多くを学んだ。

 そのうちのひとつが、女性の名前の『ほ』の字は『お』と発音するらしい、ということだ。

 僕は彼女の名前を席表に書いている文字の通りに『かほり』と呼んでいたが、本当は『かおり』だったという。

 それ以来、僕は女性の名前の『ほ』の字を『お』と発音するように注意を続け、高校一年の頃同じクラスになった塩坂かずほのことを『かずほ』ではなく、正しい読み方である、『カズオ』と呼び続けた。

 大抵のカズオの友人は彼女を下の名前で呼ぶときは『かずほ』と呼んでいたが、僕だけはカズオと呼び続けた。

 カズオもカズオで僕の前だと男っぽく振る舞うことが多い。

 僕は彼女の人柄を気に入り友人にし、彼女は彼女で僕を差して、個性的なところが気になってる、と教えてくれた。

 きゅっきゅっ。

 僕は、カズオが何故走り去ったのかは判らなかった。

 ただ、僕が唯一の友人を失おうとしているということだけは判った。

 僕はカズオの名前を呼び続け、校内を何周も何周も気が遠くなるくらい走り回った。

 僕は必死だった。

 カズオのいっていた、『目の前にあって、いつまでも近くにあると信じていたものが突然遠くに離れていく感覚』と『目の前にある大事なものが、突然自分以外の大事なものを見付けて遠くへ去って行くときの気持ち』が判った気がした。



 翌日、僕は憂鬱だった。

 朝もカズオに避けられ続け、『走り込み フルマラソンくらい』をやる気にもサッカーをやる気になれなかったからだ。

 今日は球技大会ということで、全学年の生徒がクラス対抗で頂点を争うことになっていた。

 うちのクラスは運動部が主体となって作戦を取り仕切った。

 サッカーの場合は右京がリーダーシップを取ってポジションなどを決めてくれた。

「ゴン、これを」

 右京から青のユニフォームを渡された。

 『10』番と書かれたものだ。

「体育でいつまでもバテないのゴンだけだし、動きも悪くないからな」

 マラソン大会以来、僕に対する右京の接し方が変わっていて戸惑う。

 何故だか判らないが、ボールを一番最初に触る大切な役目を任された。

 全学年対抗トーナメント形式の試合は進んで行き、僕たちのクラスの出場の時間になった。

 試合前の整列が済み、僕がサッカーボールを、ちょんと足でつつくため前にでると、相手の三年生がどよめいた。

「あれが、黒バラ学園の内宮太陽を追い詰めたゴンナカヤマかよ」

「この前、鉄棒の処で指懸垂してたぞ」

 背の高い強面の上級生は顔を白黒させていた。

 指立て伏せ百回は無理でも、僕は指懸垂連続十五回はできるようになっていた。多分、そのことだろう。

 ホイッスルの後、僕は右京の指示通り、ボールをちょんと足でつつく。

 後は運動神経抜群な右京や他の運動部の面々に任せよう。

 ルールを知らない素人にできることは限られていた。



「右京くん、お疲れ」

「右京くん、ゴール決めたんだって」

 何試合か経過したところで、早々に敗退した女子生徒の集団が男子のサッカーの応援に来ていた。

 サッカーに集中するばかりに、綾小路エリカノの乳揺れを見に行くのを忘れていた。

 或いは心の何処かで、同じくバレーボールをやっていたカズオに合わせる顔がないと思う部分があったのかも知れなかった。

 僕の隣にいる右京が女子たちの対応に追われる。

 これでは応援しに来たのか、休憩を邪魔しにきたのか判らない。

 運動神経の良く、サッカーのルールも知っている右京はゴールを量産し、僕のクラスは彼の活躍で勝ち続けていた。

 得点を量産する右京の周りは女子で囲まれてしまった。

 スポーツができる男子はもてるらしい。

「ゴンくんは何点取ったの?」

 僕の名前が出たので振り向くと、よりによって綾小路エリカノが其処に居た。

 汗ばんだ体操服で、少し前屈みになり、胸が強調される。

 僕は『ご機嫌』になり少し前屈みになったが、質問に対する返答としては窮してしまう。

 右京の指示にしたがって、後方のバックと呼ばれるポジションに移動になった僕は無得点だった。

 僕がいい淀んでいると、右京が僕の肩を抱く。

「ゴンはこれからだよ」

 僕には右京の言葉に意味が判らなかった。

 その後トーナメントに勝ち進んでも、僕は後方のポジションで偶にかに歩きするくらいの仕事しかなかった。

 準決勝になった処で、右京が僕にポジション交代の指示を出してきた。

 ボールを一番最初に触る大切な役目を任された。

 試合前の整列が済み、僕がサッカーボールを、ちょんと足でつつくため前にでると、相手の一年生がどよめいた。

「あれが、さっき警告の多さで審判の田中先生を追い詰めたゴンナカヤマかよ」

「昨日、男の名前を叫びながら学校中を駆け回っていたぞ」

 僕の顔は赤や青に変わったことだろう。

 右京が僕に何を期待しているのか判らなかった。

 ホイッスルが鳴り、僕がサッカーボールを、ちょんと足でつつくと、右京が叫んだ。

「ゴン、走れ」

 右京は何を血迷ったのか、僕にパスをしてきた。

 ルールを知らない素人の僕にはやることが限られている。

 取り敢えず、敵のいない方へいない方へドリブルで走って行く。

 敵の位置を考えながら、無我夢中で大回りに移動していくと、割とあっさり相手チームの深いところまでやってこられた。

 パスをしようにも味方も遠くにしかいないので、あっさりボールは奪われる。

 何だか、周りの動きが鈍い気がした。

 トーナメント形式の試合を連続でやっていたため、どのチームも中心選手は疲労困憊のようだった。

 中心選手は大抵攻め側のゴールに近いポジションにつき、コート内を走り回っているので、どのチームも疲労がピークを迎えつつある選手を抱えている。

 持久戦に持ってこざるを得ない。

 毎日『走り込み フルマラソンくらい』をやっていた僕にも活躍のチャンスはあった。

 味方ボールの殆どは僕に回ってきた。

 相手のチームは僕へのマークを厚くせざるを得ず、僕に人数を割いた。

 その分、他の選手へのマークが薄くなると、薄い部分を見抜いた右京がパスを回し、あっさりと決勝点が入いった。

 次はトーナメント決勝だ。

 綾小路エリカノが見ていると思うと、僕はどんな疲れも忘れることができた。

 フィールドを誰よりも多く走り、ゴールの機会をうかがった。

 四試合やって元気に動き回れるのは僕と、元々殆ど動いていない選手くらいだった。

 あまり走れなくなってきた相手選手は攻めるのも中々してこない。

 サッカーは相手が攻めてこないと、こちらも攻めづらいもののようだ。

 僕が深く攻め込んで敵を引きつける。安全な処にパスを回す。

 僕が深く攻め込んで敵を引きつける。安全な処にパスを回す。

 繰り返し一本調子で時間だけが経過していく。

 どちらとも得点をあげないまま、終了のホイッスルが鳴った。

 終わりか、とがっかりした気持ちで整列に向かうと、その背を右京が叩いてきた。

「PKによるサドンデスだよ」

 PKくらいさすがの僕でも知っている。

 Pが何を差しKが何を差すか、僕には全く判らないが内容だけは知っている。

 蹴り手とキーパーしかいない状態で、チームを入れ替えながら蹴り進めていき、互いのチームのゴール数を争うものだ。

 僕らのクラスは後攻になった。

 相手チームの選手がボールを蹴り、キーパーが追う。

 キーパーは途中で追うのをやめた。シュートはゴールポストにはじかれた。

 次で入れば優勝だ。

「まずはゴン、君が行け」

 重要な場面で、右京は僕の名を呼ぶ。

 よし、とは言えない。

「僕なんかじゃなくて右京が行けよ」

「ゴン、君はやればできるやつだ」

 右京は根拠のない信頼を僕に向ける。

 躊躇していると、応援席の方で声が響いてきた。

「ゴン、入れないと承知しないぞ!」

 カズオだ。

 カズオが顔を真っ赤にさせながら、僕を応援していた。

 それをきっかけに周囲のクラスメイトたちからも応援の声が聞こえてきた。

「がんばってー」

 綾小路エリカノが小さな声を上げ、双丘を揺らしながら手を振ってくれた。

「僕はやればできる子、元気な子」

 自分に渇をいれて、シュートする位置に着く。

 トーナメントの頂点を決めるだけ在って、注目も集まっている。

 僕は力の限り足を振った。

 大衆の面前では行き場のないリビドーを発散するように。

 僕はその場で盛大にこけた。

 尻餅をついて間抜けに周囲を見渡した。

 ボールがゴールネットを揺らしていた。



 放課後の教室で、トランプを取り出すことにした。

 ポケットからプラスティックのトランプの束を取り出し、二つの山に分ける。

 分けた二つの山で『へ』の字を作り、二つの山をお互いの方向へ反らせた後、手の力を徐々に抜いていく。

 二つの山は底辺を目指して交互に落ちていく。

 手の中に収まるべきトランプが、パラパラと机の上に落ちていく。

 一ヶ月近くゴムボールをもみもみすることに集中するあまり、手先の器用さが衰えていた。

 慌ててトランプを拾う。

 数回繰り返してやっと一回成功する。

 僕がガッツポーズを取っていると、カズオが僕の顔をじっと見ていることに気が付いた。

 変人を見る目だ。

「スポーツへの邁進はどうした」

「汗臭い男を見ると目が腐るだろ。僕はそう思う」

「陸上部から誘いがあっただろ」

「部長にしてやるから来てくれという阿呆がいたので、説得して説教してやった」

「ほほー。あたしが聞いた話と違うなあ」

「う……」

 陸上部の部長からそんな話は来ていたが、どちらかというと断ったのは僕の事情によるものだ。

「右京がテニス部に誘ったとも聞いたぞ。まあ、ルールが判らない選手は使い物にならないだろうけどな。ははは」

 カズオは何処までも僕を追い詰めるのが好きらしい。

 僕は球技大会以来、『スポーツへの邁進』をやめていた。

 目的が達成できたからではない。

 綾小路エリカノが毎朝挨拶をしてくれるようになったけれども、僕は人垣の外だし、彼女が僕の恋心とエッチな視線に気付いている素振りもない。

「なんだかなあ」

 カズオは不安そうだ。

 球技大会でのPKの直後、カズオに許しを請うため僕はカズオに本気の土下座をした。

 それによって表彰式が遅れに遅れたが、僕は唯一の友人を失うのはさすがに嫌だったのでひたすら謝った。

 僕にとってカズオがどんなに大切な存在で、唯一無二の存在であることを辛抱強く説明した。

 注目が集まる中、カズオは無言で頷いてくれたので、どうやら許されたらしい。顔色は常軌を逸した赤色に染まっていたが許されたならそれで良い。

 今日も帰宅部らしく、二人で教室に残って怠惰への邁進をしていたはずだが、カズオは僕の一挙動一投足をひたすら目で追うばかりで、机の上には何も出していない。

 僕を視線で射殺すつもりに違いなかった。

「ゴンにとって、あたしは唯一無二の何なんだっけ?」

 僕は返答に困った。

 球技大会の日には濁していた部分をカズオが聞いてきたからだ。

「唯一無二の……」

「唯一無二のなんだい?」

 返答に窮している僕をからかいながら、カズオは耳を寄せてくる。

 僕も本心を伝える必要があるようだ。

「唯一無二の親友だ!」

 カズオは綺麗にずっこけた。

 カズオは将来お笑い芸人になるべきだと思った。

「いや、まあいいや。ゴンに多くは気にしていない」

「酷い言い様だ。僕はやればできる子だぞ」

「ホントだな」

「本当だとも」

 カズオは顔を朱に染めて上目遣いに僕を見た。

 酷く嫌な予感がした。

「じゃあ、あたしのことはちゃんと『かずほ』って呼ぶように。判った?」

 肯定しか認めないと、カズオの目はいっていた。

「……はい」

「本当に判った?」

 カズオは顔を近づけ、僕を追い詰めてくる。

 僕は根負けしてため息をひとつ吐いた。

「判ったよ、『かずほ』」

 塩坂かずほはにんまりと笑った。


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綾小路エリカノと袋小路の僕 四角い柿 @kakikichi

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