犬面人
珍宝島
第1話
適応障害で休職してから、今に至るまで数ヶ月、ずっとアニメを見ていた。それで、狂った。
初めは、ちょっとした思考実験が発端だった。その思考実験とは、あずにゃんが現実にいたらどうなるかということだ。もっと正確に言えば、アニメ空間に存在するあずにゃんの現実における写像とはどのようなものか。そういう事を考えていた。まずあずにゃんの身体を想像する。そして次にリアルな人間の身体を想像する。それらを比較しながらリアルな人間の造形をあずにゃんに近づけていく。まず、一番違いがはっきりしている顔から始める。眉の太さ、目の大きさ、鼻筋の有無または鼻の高さ、人中の有無、顎の鋭さ、首の太さ……etc。ざっと思いつくものを上から羅列するだけでこれだけある。これらの違う造形を一つずつ現実身体からアニメ身体へと改造していく。まずは、その目からである。それなしにはアニメキャラは存在しない。眼窩の位置を少し下げ、その大きさも徐々に拡大させてゆく。それに伴い、脳とほおの骨格や筋肉は圧迫され、ひどく縮小する。そしてそのサイズに合った眼球を嵌め込む。瞼が伸ばされ、目の数ミリ程度上に二重ができる。次にまつ毛をふさふさと満遍なく生やす。おでこを広くし、眉毛を少し上げて細さを数ミリ程度にする。次に修正するべき点を修正するために、身体を横に向ける。あずにゃんのアニメ身体と現実身体の横顔を比較すると、アニメ身体は現実身体に比べ、鼻先が犬や猫のように出っ張っている。それに合わせるために、鼻を突き出るようにして引っ張る。そして、さきっちょの三角形以外の出過ぎた鼻筋は目と平行に合わせて平らにする。あとは首を細くして、完成だ。その全体の造形をもう一度概観してみると、なんと不気味でおぞましい造形だろう、と思った。段々とそれは、犬の顔をした人間のように見えてきた。人面犬ならぬ犬面人とも言うべきものだ。俺は恐ろしくなって想像するのをやめた。
*
その夜だった。夢を見た。
俺は、どこまでも続くあぜ道を歩いていた。太陽は空高く燦燦と煌めいていて、陽炎がゆらゆらと揺らめいていた。俺は遠くの方に点として見える建物を目指していた。俺はそれがコンビニであると分かっていた。俺はそこを目指していた。身体が溶けるように暑い。そしてなにより、喉が殺伐としていて焼けるように痛む。早く水を飲みたかった。段々と近づくコンビニ。俺は血眼になって歩いた。もうこれ以上は、死んでしまうように思えた。そうまでして歩いているのは、歩くことしかできないからだ。まるで身体が脳の三分の一程度の信号しか受け付けていないかのように言うことを聞かない。ちょうどコンビニまであと数十メートル位のところまできたときだった。道の脇に丁寧に置かれた段ボールの箱が目に入った。その前には「拾ってください」の文字。少し箱の中が気になったが、こういうのは一度見たら情がわいて、つい拾ってしまいたい欲に流されてしまうのが世の常だ。だから、俺はその箱からそっと目を背けてそのまま歩き続けることにした。一歩、二歩、三歩……。歩くたびに、気が進まないという気持ちが大きくなってきた。その箱から目を背けてからずっと鳴っている、カチャリカチャと首輪になるような音も、遠ざかるごとにむしろより鮮明さを増したように思う。そこには、現実よりも一層生々しく残酷な響きがあった。俺は少し悩んだ末、踵を返してその箱の前まで来ると、しゃがんでその中身を覗いてみた。なにかぬいぐるみのようなものがもぞもぞと蠢いていた。そのなにかしらの生物を覆っている段ボールの開け口を除けると、そこには、やはりぬいぐるみのようなものがあった。というより「居た」。それは犬だった。犬の顔をした犬。いや、アニメの顔をした犬だった。詳しくその姿形を記述するならば、何らかのアニメキャラのぬいぐるみの肢体と首を一旦切断した後に、犬の身体になるように接合し直したかのようである。不思議と恐怖や不安は感じなかった。俺がその「犬」を抱きかかえると、
はにゃ〜~(VC 中原麻衣)
と「鳴いた」。こいつはどうやら喋らないらしいことが直感的に分かった。俺がその犬を抱きかかえたままコンビニとは反対に向かって歩こうとしたところで目が覚めた。幾ばくか汗をかいてはいるが、夢の中で感じたほど暑いとは感じなかった。しかし喉は夢の中で感じた通りジンジンと痛んで痺れを切らしていた。早く一階に行って水を飲まなければと思い、起き上がると、そこには綾波レイがいた。あずにゃんでもなく、夢に出てきたあのぬいぐるみに似た歪な生命体でもなく。あの綾波レイが、パワードスーツを着た綾波レイが、あのポーズ──右手で左腕の肘を掴むポーズ──で、あの表情──顔を少し俯き気味にして、目を横に流している──をして佇んでいた。俺は目を擦った。すると今度は、パワードスーツの胸部に当たる部分が眼前に広がっていた。俺は湧き上がってきた探究心からくるものとも性的欲求からくるものとも判別つかぬ好奇心から、恐る恐るその胸に手を伸ばした。手が綾波レイの胸に近づくにつれ耳にまで聞こえてくるほど高鳴っている拍動もその速度を増す。あと数センチのところで、少し止まる。ゴクリと喉を鳴らして、覚悟を決めると、その胸に埋もれる勢いで身体ごと突っ込んだ。すると、シンガリを務める俺の右手はその白い表面をいとも容易くすり抜けていった。気づくと俺は、身体ごと床に倒れ込んでいた。薄々分かってはいた。しかし今、それは確信に変わった。
この綾波レイは、俺の妄想に過ぎない。
*
蛇口をひねる。水は泡立ちながらコップになみなみ注がれてゆく。とたんに一杯になって多くがコップからあふれ出てしまう。蛇口を閉めたとき、コップにはその容量の半分くらいしか水が入っていなかった。多分に水滴のついたコップを唇にくっつけると、ゆっくりと水を喉まで流し込む。視界の端っこにはまだ綾波レイがいた。顔の半分がコップのガラス越しに歪んでいた。ポーズと表情はあのままで、目を離すたびに位置だけが変わる。近づくこともあれば遠のくこともある。周期性はないように思える。まるで回線の遅い状態でネトゲをしたときのように、情報が飛びゝになっているせいで不連続な動きになってしまうのに似ている。ただメタファーというのは危険である。俺はそのような暗喩のせいで、目の前のたんなる虚像に過ぎないものもまた、まるでなにかの痕跡であるかのように思ってしまった。痕跡は、何らかの徴によって、そこに存在がいたことを示す。しかしそれは同時に、その存在が今ここにいないことを示してもいる。その徴は存在の証拠というよりは、存在の不在の証拠である。存在はその奥に事後的に見出されるだけに過ぎない。ただ現実にある事物なら良かったものが、俺の前にあるものは、虚像であり痕跡そのものでしかない。痕跡のイメージ。中には、表皮も筋肉も骨も臓器もなく、ただテクスチャだけがそこに浮遊している。
*
あれから数日が経った。いまだ綾波レイはそこにいる。人間は案外簡単に慣れていく。思えば、数ヶ月前には、こんな風に引きこもってアニメばかり見ていることすら想像もできなかったろう。
ずっとアニメを流していても、だんだんと飽きが来る。目が疲れる。腰が痛くなる。とにかく、それ以外のことを見たり、したりしなければならない。こんな時には、それこそあの「思考実験」のようなことをするなど、何らかの思索に耽ることが多い。そんな毎日が数ヶ月も続いているものだから、schoolの語源がSchole(暇)であることをすっかり体得した感がある。最近、思索の対象は専ら目前の像に向けられている。なるべく視線をそらさないように近づいて、その身体や顔の造形を汎ゆる角度からじっくり見たりしてみる。すると驚くべきことが分かってきた。それは、その造形があまりにも完全すぎるということだ。それはアニメや3DCGのような虚構を用いずに、ただアニメ身体そのままで現実空間と齟齬をきたすことなくすっかり同居してしまっている。その完全なプロポーションには、どんな美学者や哲学者、あるいは物理学者であっても、そのあまりの美しさに驚嘆し、感涙し、かえって自らの醜さのあまりに命を断つだろう。それほど美しく、完全だ。俺はその完全な姿をどうにか現実に表現することができないかということをずっと考えていた。しかし、画を描くことも彫刻を彫ることも俺にはできない。しかし、この像を見たことのない者にこの完全さを表現することは不可能に思われた。いや不可能である。俺はある種の使命感に駆られていた。だって、俺の目の前に突如として現れた完全な美しさをもった綾波レイが、なんの意味も持たないのだとしたら、それはとても哀しい。あまりにも哀しい。
そんなことを考えながら俺は、綾波レイを見つめ続けた。窓から差し込む光が顔と身体を照らしている。その顔や身体は光によって優しく陰影付けられているのに、床には全く反映されていない。そんな存在のアンバランスさもまた、その神聖さの象徴であるかのように俺の目には映った。光がその肌に染み込んでいるように見えた。柔らかな光に縁取られた輪郭は、ともすれば空間に溶け出してしまいそうに見える。その様は、さながらフェルメールの絵画を思わせた。光の輪郭。俺はふと何かを諒解した。
現実空間において境界はひどく曖昧である。それに対してアニメ空間において境界ははっきりとしている。線分である。アニメ空間にあって現実空間にはないもの。それは線分による輪郭だ。
鈴木 康成 30にして天命を知る。
俺に降りた天命とは、綾波レイを現実に現前させること。そのために世界を線分で区切ること。これである。俺は早速マッキーを持って部屋に線分を書いていった。部屋の四隅から窓の枠、机や棚に至るまですべて、余すことなく線分を書き足していった。部屋を線分で満たしたときには、すでに日が昇っていた。俺はこれから使命を果たすための計画を練ることにした。
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「つまり俺は線分によって分解されていき………やがて宇宙の極限においてあずにゃんと溶け合って一つになるんですよ……これは愛ですよ……完全になるんです…………パウル・クレーによれば運動は………」
「なるほどねぇ〜。鈴木さん、前に処方したお薬ちゃんと飲んでますか?」
「あーあの薬ですか?あの薬を飲むと頭痛は止むのですが綾波レイが嫌がって二、三日でてこなくなってしまうんですよ。なので最近は飲んでないですね。」
「はあ、そうですか。また処方しときますので、しっかり飲んでくださいね。……それで、えーと、認知療法の方はうまくいってますか?」
「俺はもう完全に近づいているので問題ないです。」
「そうですか。なるべくポジティブに考えるのは大事ですね。じゃあいつものを少しやって診察を終わりましょう。」
私が手を頭にやると鈴木さんもそれにならって、自身の頭に手をやる。
「『大丈夫、きっと良くなる』、『自分はうまくやっている』、『悪いことは全部なくなる』……」
なるべくポジティブな言葉を、言ってしまえば無責任な言葉を、自分自身に投げかけながら自分の頭を優しく撫でる。責任感でやられてしまった人間には、ある種の無責任さも必要なのである。
はっきり言えば、鈴木さんの予後はあまり良くない。最初は適応障害で通院をしていたのだが、段々と通いが途絶えていった。そういう患者は珍しくない。最も救うべき重篤な患者にこそ治療が行き届きにくいという精神医療のパラドクスを感ずる度、己の無力を恥じるばかりである。ただ途端に良くなったということもあるにはあるので、鈴木さんもそうであることを祈るばかりであった。のだが、先日、また院に姿を現したかと思うと、今度は、統合失調症の傾向が大きく出ていた。痩せこけて白髪交じりでジャージ姿の鈴木さんの姿に、初め、カルテを見ても当人だとは到底思えなかった。話を聞くと、どうも夜中になにか不審行為をしていて、それを仕事帰りの女性に見つかり警察に通報されてしまったらしい。駆けつけた警官は、様子からして明らかに精神を患っているらしいことから、許可を取ったうえで財布の中身からかかりつけの精神科を確認して、そこにかかることを条件として厳重注意で見逃してもらったという。話を聞く限り、随分親切な警官だと思った。
ともかくも、適応障害の上に統合失調症まで併発しており、その上本人に治療の意思なしとなれば、寛解はほとんど絶望的と言って良い。治療において本人の意思は、最も重要と言って良いファクターであるからだ。
「はい、どうですか?落ち着きましたか?」
「………」
鈴木さんは頭を抱えたまま、少し俯いて何も言わなくなってしまった。最近はずっとこうである。異常なほど饒舌な舌の奥には、この苦痛が隠れている。しかしその苦痛は、別の疾患に上書きされて隠蔽されてしまっている。元の症状を軽減しつつ、少しでも現状より悪くしないことが目下の目標である。少しずつ……少しずつではあるものの、兆しは見えてきた気がする。一ヶ月に一回、重たい身体を上げてここに来ているということは、現状をどうにかしたいという意思があるのは確かであろう。少しずつ、少しずつで良い。だから今は、その沈黙を共に分かち合ってやれば良い。そうすれば、何かが開けてくるはずだ。
「……あの、もう、帰ります……。少し良くなった気がします。ありがとうございました。」
鈴木さんは、いきなり立ち上がって矢継ぎ早にそう言うと、ドアの前でペコリと一礼して出ていってしまった。
「ふぅ……。」
一息つくのと同時に肩の力がすっと抜ける。
精神科というのは、最も患者と向き合わなければならない科である。向き合うことこそが治療でもあるからだ。もちろん他科でもその傾向はあるが、精神科では、その振る舞い一つで患者の命に関わるかもしれないという事実からもわかる通り、その重要性の比重が他科に比べても非常に大きい。
しかし、他者と向き合うというのは、どんな人間においても、やはり精神的な疲れを伴うものだ。ややもすれば、その他者に飲み込まれてしまう危険もある。統合失調症患者を相手にするときなどには、とくにだ。
「武田先生、ブラインド開けますね。」
「ん、ああ。」
看護師がブラインドを開ける音がカラカラと鳴る。もう昼休憩の時間だ。早くカロリーメイトをアクエリアスで流し込まねば。カロリーメイトを取り出すため机を開けようとしたとき、ふと看護師の顔が目に入った。
「ん?あれ?今……。」
目の疲労が溜まっているのかもしれない。私が目をこすっていると、「どうしました?」と返ってくる。
「あーいや、なんでもない。」
多分、何かの見間違いだろう。
一瞬、ほんの一瞬。光りに照らされた看護師の頬に、くっきりと黒い輪郭が見えた気がしたのだ。
犬面人 珍宝島 @chintakarazima
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