さよならは言わないで
渋川伊香保
さよならは言わないで
ああ、この溝はもう無視できなくなってしまった。今までは辛うじてだが保たれていた日常の平穏を守るために見て見ぬふりをしていたのだが。
いや違う。守るためなんかじゃない。平穏に固執し、依存していたからだ。平穏の中から出ていく負担に耐えられなかったからだ。負担が増え、自分が不安定になることを恐れていたのだ。心がかき乱され、考えがまとまらず、感情が制御できなくなる。そうなると一層万里奈のことが忘れられなくなる。心の中の存在が大きくなってしまう。
こんな関係は、愛ではない。ただの依存だ。
万里奈は感情の起伏が激しい子である。笑う時も泣く時も怒る時も、いつもその感情のままに振る舞う。
そんな彼女に、裏表が無いと感心してしまったのだ。そこに誠実さを求めてしまったのだろう。
実際の万里奈には、誠実さなんてなかった。
相手の都合や感情にお構いなく、笑い、泣き、怒る。そして自分の思い通りの反応がないと荒れる。
僕は怯えてしまった。彼女の感情が掻き乱されないように注意する習慣ができてしまった。それが彼女への思い遣りだと自分で思い込もうとしていた。あの子は不安定だから、僕が安定させてあげなければならない、と。
だが、その歪さを、他ならぬ彼女自身が暴いてしまった。
その日僕らはバーへ向かった。僕がよく行く感じが良いバーだった。バーテンダーだけではなく、他のお客さんとも仲良くできる、癒しの場。
そこで彼女は癇癪を起こした。彼女が頼んだカクテルが、彼女の思うようなものではなかったらしい。泣き、喚き、グラスを落として割ってしまった。
他のお客や店員さんの雰囲気を壊し、なにより僕の立場がなかった。もうあの店には行けない。
ああ、万里奈は結局、僕のことなんて大事でもなんでもなかったんだ。ただただ我儘が通る相手としてしか捉えていなかったんだ。
別れを告げるのに一ヶ月もかかってしまった。僕の覚悟が決められなかった。だが、もう、限界だ。溝に気付いてしまった以上、以前と同じように接することはできない。
別れを切り出した時、万里奈は泣いていた。泣いたまま何時まで経っても泣き止まない。ああ、今までの僕ならば別れを撤回して抱きしめただろう。だが。
さよならは言わないで出ていくことにする。
さよならは言わないで 渋川伊香保 @tanzakukaita
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