中編

 飛べないはずのペンギンが、空を飛んでいる。ミユと手を繋いだまま、ペンギンが空いている方の手で羽ばたくように空を掻くと、すいすいとものすごいスピードで景色が流れていった。上を見上げれば満天の星空。下を見下ろしても、空の星々のように聖夜のイルミネーションが輝いている。上も下も星に包まれて、まるで銀河を泳いでいるみたいだ。

「ねえ! サンタさん!」耳元を流れる空気の轟音に負けないよう、ミユは声を張り上げた。「思い出の場所って、どこに行くの? わたし、パパと行った場所なんて覚えてない!」

 ペンギンは短い首を器用に捻ってミユの方を振り返った。

「そうかい。無理もない、みいちゃんはまだ小さかったからね」

 みいちゃん、と、何故かペンギンは家族しか呼ばない愛称でミユを呼んだ。その声はとても穏やかなのに、風の音に遮られることなく、まるで頭の中に直接響くように聞こえてきた。

「でも大丈夫だよ。僕が案内してあげるからね」

 ビュン! とペンギンが風を切った。ミユたちはいつの間にか、夜の大地に降り立っていた。


「ここは?」

 空から見下ろした煌びやかな街はどこへやら。ここには街灯も少なく、暗くて辺りがよく見えない。吐く息だけが僅かな光を集め、闇の中に白く浮かんで見えた。息は白いのに、不思議と寒さは感じない。

「ここは公園だよ」サンタペンギンが答える。「君がおしゃべりができるようになってきた頃までは、まだこの近くのボロアパートに住んでいたんだ。君のママが外で働いている間、よくパパとこの公園に遊びに来ていたんだよ」

「パパは働いてなかったの?」

「失敬な! パパは在宅仕事だったんだよ」

「あ、そうなんだ」急に声を荒らげたペンギンに、ミユはたじろいだ。

「いつだったか、ここで天体観測をしたことがあったんだ。流れ星を見つけては舌足らずに一生懸命願い事を唱える君の様子が、それは可愛らしくてね」

「ふうん」

 そんな話を聞かされても、思い出せることは一つもなかった。この場所のことも、パパのことも。まるで見知らぬ土地のマイナーな童話を聞かされているような気分だ。

「でも、しばらく君は楽しそうにしていたのに、急に泣きだしてしまったんだよね。望遠鏡で火星を見せてあげた時のことなんだけど、あれはどうしてだったんだい?」

「知らないよ、そんなこと」

 天体観測に行ったことだって思い出せないのに、泣いた理由なんて分かるはずもなかった。するとペンギンは、からからと音を立てて笑う。

「そりゃあそうだね。じゃあ、そろそろ次の場所へ行こうか」

「え、まだあるの?」

「当たり前だろ。パパが君と過ごしたのはたった三年の間だったけど、そこには百年かけても語り尽くせないほどの思い出が詰まっているんだ」

 ふわりと身体が宙に浮いた。瞬きの間に、周りの景色ががらりと変わっていた。


「あ」とミユは声を上げる。「ここは知ってる」

 それは何度も訪れたことのある水族館の中だった。開館時間はとっくに終わっているはずなのに、水槽には煌々と光が差している。

「君はこの水族館がお気に入りだったね」ペンギンは歩きながら言った。「しょっちゅう連れて行ってとせがまれて、大変だったよ」

「ふうん」

 確かに、この水族館には随分小さい頃から通っていた気がする。でも、ここでの一番古い記憶がいつになるのか、そこにパパの姿はあるのか、上手く思い出すことはできなかった。

「この先にペンギン水槽があるんだけど、大丈夫かい?」

「大丈夫って、何が?」

「いや、大丈夫ならいいんだ。君は赤ん坊の頃からペンギンが大好きだったんだが、ある時から急に、ペンギン水槽の前に来ると手がつけられないほど泣き叫ぶようになってね」

「泣き叫ぶって、どうして?」

「さあ。分からないけど、多分、怖がってたんじゃないかな」

「怖がる? ペンギンを?」

「恐らくね」

「あのさ、サンタさん」

 ミユがペンギンを見下ろすと、彼もこちらを見上げて小首を傾げた。

「昔のことは分からないけど。あなたもペンギンでしょ? ペンギンが怖いなら、今頃わたしはとっくに逃げてる」

 ペンギンはつぶらな瞳をぱちぱちとやった。そして、がっはっはっ、と小さな嘴から豪快な笑い声を上げる。

「こりゃあうっかりしていたな。そうとも、僕はペンギンだ。すると君は、ペンギン嫌いは克服したんだね」

「克服も何も、覚えてないんだけど」

 サンタペンギンの歩幅に合わせてよちよちと館内を進むと、少し開けた所にペンギンたちの住む大きな水槽が現れた。解説パネルによると、これはケープペンギンという種類らしく、ペンギンと言われてミユが真っ先に思い浮かべるのがこのペンギンだった。

 わたしはこの場所で、何を思って泣いていたのだろうか。

 何か引っかかるものがある気がしたが、やはり思い出すことはできなかった。


 空を飛ぶように水の中を自由自在に舞うペンギンたちに見惚れていると、気が付けばミユは煌びやかなイルミネーションの中にいた。

 すぐにここがどこだか理解する。ミユの家からは少し足を伸ばしたところにある、この地域で一番大きな遊園地だ。連休には家族連れがこぞって訪れるレジャースポットであり、ミユも小さい頃に一度だけ来たことがあると聞かされていた。

「さて。そろそろ時間だからね。ここで最後になるかな」

 どこか寂しそうにペンギンは言う。そんな顔をされると、何故だかミユの方も寂しい気持ちになりそうだった。

 よちよちよち、とペンギンなりの早足で遊園地を歩く。ジェットコースターにコーヒーカップにメリーゴーランド。クリスマス色に彩られた遊具の群の間を通り抜けて辿り着いたのは。

「わあ」

 首を直角にしてもてっぺんが見えないその大きさに圧倒され、思わず溜め息が漏れる。この遊園地の名物、大観覧車だ。

「さあ、乗ろうか」ペンギンに手を引かれる。

「えっ、乗れるの?」

「もちろん。そのために来たんだから」

 ぴょん、とペンギンは器用にゴンドラに跳び乗り、ミユもそれに続いた。

 シートに向かい合わせに腰を落ち着けると、ペンギンがやや躊躇うようにしながら嘴を開く。

「みいちゃん。一つ聞いてもいいかい?」

 また『みいちゃん』だ。どうしてこのペンギンはミユのことをそう呼ぶんだろう。

 黙っているのを肯定と受け取ったのか、あるいは返答はいらなかったのか、ペンギンは続きを言った。

「どうして君は、サンタクロースへの手紙に『パパに会いたい』なんて書いたんだい?」

「それは」

 べつに、なんとなくだよ。なんて言ってはぐらかすこともできたが、ペンギンのつぶらな瞳に見つめられると、本当のことを言わなければならないような気がした。

「本当に、本当にね、うちにパパがいないことなんて、気にしたことなかったんだよ。わたしはパパがいた頃のことなんてほとんど覚えてないし、わたしにはパパがいないのが当たり前だったから」

 うん、とペンギンは静かに頷く。糸みたいに細めた目が、なんだか悲しそうに見えた。

「ただね、この間、パパの法要があったの。七回忌、って言ってたかな。これで最後の法要にするからって、親戚がみんな集まってくれたんだけど。みんなが揃ってパパの悪口を言うんだ」

「悪口だと? 許せないな」とペンギンが目を吊り上げるので、ミユは笑ってしまう。

「うん。私もね、最初はそう思ったの。『あいつはおかしな嘘ばかりつく迷惑な奴だった』とか、みんなで好き放題言って酷いって。でもそのうち、誰も本気で嫌な顔をしてないことに気付いたんだ。みんな楽しそうで、少し寂しそうで、本当はみんなパパのことが大好きなんだなって分かった」

 ふん、とペンギンが鼻を鳴らした。ペンギンの鼻がどこにあるのかはよく分からなかったが、確かに鼻が鳴った音がした。

「だからわたし、うらやましくなったんだ。みんなにはパパとの思い出があることが。パパはわたしのパパなのに、わたしだけがパパのことを覚えてないのが、なんだかつまんないって思ったの」

「それで、パパに会いたいと?」

「うん。だからね、今日はパパには会えなかったけど、パパとの思い出の場所に来られてよかったよ。やっぱりパパのことはよく思い出せないけど、わたしにもちゃんとパパがいたんだって分かったから」

 ふと、窓の外に視線を向けた。下を見下ろすと、地面が少しずつ、少しずつ遠ざかっていくのが分かって、心細いような気持ちになる。

「あまり下を見ない方がいいよ」ペンギンが言った。「前にこの観覧車に乗った時にも、君はそうやって外を覗いた途端、高さが怖くなったのか泣きだしてしまったからね」

「ねえ。どうしてさっきから、わたしが泣いたって話ばかりなの?」

「仕方ないだろ。あの頃の君はとんでもなく怖がりで、些細なことでしょっちゅう泣いていたんだから」

 今ではミユは怖くて泣くことなんて滅多になくなったが、地面はいつの間にか随分遠ざかっていて、怖くなる気持ちも分かる気がした。

「この観覧車、一周するのに何分かかるの?」

 ふと気になって、ミユは尋ねた。ゴンドラは今も上へ上へと上り続けている。

 するとペンギンは、愉快そうに目を吊り上げて答えた。

「さあ。これだけ大きな観覧車だからね。百年くらいかかるかもしれないな」

 その瞬間のことだった。

 ざわり。と、頭の中に風が吹いたような感覚があった。

 なんだ? 今の。何かが引っかかる。

 それはまるで、湿気った焚き木にか細く立ち上る煙のような、小さく頼りない火種だった。放っておけば焦げ跡も残さずに鎮火しただろうが、ミユはどうしてもその火を絶やしてはいけない気がして、必死で蜘蛛の糸のように細い煙を繋ぎ止める。

 大きな観覧車。遠ざかる地面。ミユは前にも、この光景を見たことがある。

 人を食ったように笑うペンギンの、細く吊り上がった目。面白くもない冗談。『百年くらいかかるかもしれないな』。

「あっ」

 ミユの頭に、小さな明かりが灯った。湿気った焚き木がパチパチと音を立てて燃え始める。

「思い出した」

「思い出したって、何を?」

「どうして泣いてたか」

 ペンギンは不思議そうな顔で短い首を傾げた。

「パパのせいだよ」

「ぱっ」とペンギンが声をひっくり返す。「パパの?」

「そうだよ。全部、パパのせいだった。火星を見て泣いたのは、『火星人は地球を侵略しようとしている』ってパパが前に言ってたのを思い出して、怖くなっちゃったから。ペンギンを見て泣いたのは、『ペンギンは実は宇宙人なんだ』ってパパが言ってたから。あっ、そういえば、パパはサンタクロースのことも宇宙人なんだって言ってた。だからわたし、混ぜこぜにして『サンタさんはペンギンだ』って思ってたんだ。パパは宇宙人の話ばっかり。ワンパターンだ」

「わ、ワンパターンとは失敬な!」

 やっぱりだ。最初からずっと、違和感があった。ミユのことを『みいちゃん』と呼ぶ優しい声色。自分の目で見たかのように語られる思い出。パパのことを悪く言われて怒る姿。そして。

「ねえ。わたし、前にこの観覧車に乗った時にも同じことを聞いたんだよ。『一周するのに何分かかるの?』って。そしたらパパも同じことを答えた。『百年くらいかかるかもしれないな』って。わたし、それを真に受けて、やっぱり怖くなって泣いちゃったんだ」

 一度灯った炎はむくむくと大きく燃え上がり、今や聖夜のイルミネーションよりも力強くミユの視界を照らしていた。パパの法要の時のことを思い出す。本当だ、みんなの言っていた通りだった。

「ねえ。パパ」

「ん?」とペンギンが言い、そしてはっとした様子で「あ!」と叫んだ。

「ほら」とミユは笑う。「やっぱりパパだ。あなたはサンタさんなんかじゃなかった。パパって本当に嘘つきだったんだね」

 ペンギンは慌てふためいて羽をばたばたと羽ばたかせる。

「しまった、内緒だったのに!」

「どうして内緒にするの? わたしはパパに会いたかったのに」

「サンタクロースとの約束だったんだ」

「約束って? わたしが六十点だったから?」

「理由は僕にも分からない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、ペンギンの姿で君の前に現れることと、正体を明かさないこと。それがサンタクロースの出した、僕が君に会うための条件だった」

「じゃあ」とミユは前のめりになる。「じゃあわたし、次こそは百点を取るから。そうしたらきっと、次は本当のパパの姿で会えるから。だから、わたしに何が足りなかったのか、どうしたら百点の良い子になれるのか、教えて!」

 ペンギンの姿をしたパパの身体が、薄ぼんやりと光を放ち始めていた。パパが今にも目の前から消えてしまいそうな気がして、ミユは彼の手を必死で掴んだ。

「みいちゃん」パパは優しく微笑む。「みいちゃんはもう充分良い子だよ。ただ、強いて言うのなら」

「強いて言うのなら?」

「もっとわがままを言いなさい」

「えっ」

「僕が死んでしまって以来、君は色んなことを我慢しているだろう。きっとママは大変だからと気遣って、やりたいことがあっても口に出さずに飲み込んでいる。ママはずっと、君のそんな様子を心配しているんだよ」

「そんな。わたし、我慢なんて」

「してるさ。思い出してごらんよ。あの頃の君は、パジャマで保育園に行きたいとか、ぬいぐるみをお風呂に入れたいとか、おにぎりにバナナを入れてほしいとか、わけの分からないことをやりたいやりたいと主張しては泣き喚く、理不尽の権化だったんだ。それが僕がいなくなった途端、ぱたりと止んで、聞き分けの良い子になってしまった」

「それは、わたしが大人になったからで」

「まだ大人になんてならなくていいんだよ。親の人数が普通の半分になったからって、君が子供でいられる時間まで半分になるわけじゃないんだ。僕に甘えるはずだった分まで、目一杯ママに甘えたらいい」

「でも」

「大丈夫だよ。僕たちは、みいちゃんのわがままに振り回されるのが大好きだったんだから」

「パパ!」

 パパを包む光が強くなった。まぶしくて目を瞑ってしまいそうになるが、目を開けた時にパパがいなくなっているのが怖くて、必死で堪える。

「みいちゃん。寂しくなったら南の空を見上げるといい。僕がペンギン座になって、いつでも君のことを見守っているから」

「嘘ばっかり。ペンギン座なんてないよ」

「あるんだよ。僕が作る。僕はただの嘘つきじゃないんだから」

「待って、パパ! 行かないで!」

 ペンギンが強い光を放った。それは柔らかくて、優しくて、温かい光だった。

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