第2話

「おじさん、あのさ、東京から来たんでしょ」


 呼びかけられた男が振り向くと、ひとなつっこい笑顔を浮かべた少女が立っていた。


「ええっと、おじさん」


 おじさんと呼ばれた男は首の後ろに右手をやるときき返した。


「おじさんは、おじさんしかいないでしょ、おじさん」


 屈託のない様子に男は苦笑いしながら麦わらかラフィアか植物繊維で編んだ中折れ帽子の縁を指先でつまんで形を整えた。ひょろりとした少し猫背気味の男の顔が帽子の影から垣間見えた。

 目鼻立ちはすっきりとしているがこれといって特徴はなく、眉や髪は整えておらず無造作なまま。

 陽ざしの強さを厭うてかタラップをおりてからはおった綿麻の涼し気な長袖シャツの下に白無地に墨絵風なイラストが描かれたTシャツがのぞいている。ジーンズ姿はすらりとしていてくたびれた様子はない。とは言っても精悍さには欠けている。子どもからしたら若いおにいさんには見えないかもしれない。


「僕は、溝端兆司みぞはたきよしって言うものです。東京から来ました、よくわかったね」

「日焼けしてないし、しゅっとしてるし、Tシャツの絵がわけわかんないし」

「絵がわけわかんないと東京もんなの?」

「うん、なんかトーキョーってゲイジュツーって感じだから」


 そういうものかなと溝端兆司は着ているTシャツのイラストを下を向いてしげしげと眺めた。


「君は、町の子? 村の子? 小学生かな」


 都会であれば、いや、今はどこに行っても見知らぬ人から声をかけられたら警戒しなければならないと子どもたちは言われているはずだ。男は思い当たって自分の迂闊さを恥じるように首の後ろをさすった。ところが、少女はそんなことおかまいなしといった屈託のない様子で答えてきた。


「うちはしまの子だよ。真名井満干まないみちひ、4年生、みんなからミッチって呼ばれてる。おじさんもミッチって呼んでいいよ」


 少女は真名井満干だった。


「おじさんさ、そんなに心配そうにしなくても平気だよ。嶌の大人はみんな子どもたちを見守ってるから」

「そうなんだ」

「子どもがちょっとでも変な目にあいそうになったら、すぐにつまみだされるから」

「つまみだされる? そりゃ、おだやかじゃないね、平気じゃないんじゃないかな」

「そう思うんだったら、だいじょうぶ。ヨクシリョクになってる」

「抑止力、ずいぶん難しい言葉を知ってるんだね」


 少女、満干はほめられたと思いにっこりした。


「真名井さんってことは、幽世浜の村の村長さんの家の子だね」


 男、溝端兆司は、今きいた少女の名字にはたと思い当たったかのようにたずねた。


「だから、嶌の子だって」


 満干は耳の上辺りで二つに結んだ髪をぶるんと振って言った。

 やけに嶌の子ってことにこだわるなと思いながら、兆司は港の役場でもらった島内地図を広げた。


「この地図だと、町は港のあるここだけみたいだけど、村はいくつもあるんだね」

「うん、あるよ。あるけど……」


 満干は口ごもった。


「あるけど」

「人が住んでるのは、うちの村だけかな」


 特別な産業があるでもなく、行き来するのも不便な場所となれば自然過疎も進む。

 確かオブラート工場が出来てからは地場産業として定着して島民の流出は防げていたときいていたが、生活には娯楽も必要だとなれば若者は離れていっても仕方のないことだろう。


「真名井満干さん、きみの住んでいる村へは、どうやって行ったらいいのかな」

「あのさ、ミッチって呼び捨てにして。さんなんて言われると、学校にいるみたいでなんかかゆくなる」


 満干は肩をすくめた。

 そうは言われても初対面のよその子を呼び捨てするのには抵抗があった。


「じゃあ、親御さんに御挨拶したら考えさせてもらうよ」

「うん、わかった。だったら、もういいよ」

「もういいよ?」


 満干の指さす方を振り返ると、四十前後と思われる精悍な男性が歩いて来るのが見えた。


「おとうさーん」

「おう、ミッチ、帰るぞ」

「あのね、おとうさん、この人がうちの村に行きたいんだって」

「お客さんか、町役場に話を通してあるんかな」


 おとうさんと呼ばれた男性は大股で近づいてくると、首にかけたタオルをとって

「ようこそ嶌へ」と笑みを浮かべた。

 屈託のない様子は少女にそっくりだった。


「私は真名井雄飛まないゆうひっていいます。村長の次男です」

「ああ、どうも。僕は瑞端兆司と言います。郷土民芸の研究をしてます。フィールドワークに来ました」

「大学の先生ですか」

「いえ、大学の研究室と連携はしてますが、在野で研究してます」

「ああ、そうですか、嶌に興味を持ってもらってうれしいですよ」


 どこの大学ですか、といった突っ込んだ質問を彼はしなかった。

 それから、少女の頭に手を置くと、


「うちの一人娘です。満干って言います。潮の干満からとりました。妻はこの子が幼い頃にいなくなりましてね。私の母が一緒に住んでます」


 亡くなったではなくいなくなった、という言葉に引っかかったが、娘がいるのに訊くわけにもいかず兆司は黙ったまま頷いた。それを察して男性は言葉を継いだ。


「事故だったんですよ。ダイビングスポットからはずれたお客さんを救おうとして、流されて」


 ミッチは父の腰にまとわりついて、提げている魚籠の中に何が入っているのか気にしてのぞきこんでいる。


「それは、お気の毒なことでした」

「お客さんが助かったのがせめてものことでした」

「おかあさんは、いるよ」


 突然、満干が言った。



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