第4話

 集会場から浜辺へは小道を走り下りてすぐだった。

 潮に強い緑の濃い熱帯樹が浜の背後を取り囲むように広がっている。

 人のいる所は切り開かれているが、全島を覆う熱帯樹林が天然の防風林となり、避けることのできない季節の受難の暴風雨から人々の暮らしを守っている。

 防風林の隙間から昼は波頭の煌めきが見えるが、日が落ちれば潮の香りだけがそこに海があるのを知らせる闇となる。


 幽世浜かくりよはま


 寄りくるものの燐光が闇夜を照らすと、現世と幽世が混じり合いあわいが生じ、居合わせた命あるものを連れていく。

 その命は、幽世を永遠に支える素となる。

 これは、嶌比丘尼が伝える嶌の古謡で語られる伝説。

 嶌の成立ちの物語。

 ものの成立ちの物語の神聖さは、オズマ括吏も十分承知していて否定はしない。

 否定はせずに、万邦至天連教との共通点がないか、落としどころがないか、探しているようだった。


 地殻変動のいたずらで天井がくり抜かれてのぞき窓のようになっている天見岩そらみいわと満点の星が映る潮だまりのある小高い星汲岩ほしくみいわの間に広がっている嶌随一の美しい浜、それが幽世浜。

 とくに観光浜とは謳っていないが、秘境ムードに惹かれ訪れる客はいる。白浜のなだらかな様子に、一見そうすぐに深くなるようには見えないが、かつての海底火山の影響もあり海の中は複雑な様相をを呈している。

 年間を通して順繰りに張り番をする浜小屋、黒糖作りの石灰を製する珊瑚窯を設えた珊瑚窯小屋、塩を精製する浜焼き小屋、寄りくるものを安置しておく幽世のなど小さな小屋が点在している。


 海の安全、嶌の豊穣を願っての祝祭の際には毎年新しい小屋が建てられるので、普段は小さな祠が天見岩の下の岩場に据えられている。祠の中に御神体が安置されているのだが、それも毎年違うものだった。一年を通して幽世浜に寄りくるものの中から御神託によって選ばれたのものがその役目を全うすることになっていた。

 この習わしは嶌伝来のもので、嶌比丘尼がとりしきっている。


 神仏混淆から新興の万邦至天連教への穏やかな移行を目指すオズマ括吏は、にこやかな顔の下で苦々しく思っているのかもしれないがそれはわからない。

 自然の力の恐ろしさ、尊さは、万邦至天連教でも疎かにできない重要な教義の一つとして上げられるものなのだった。



 集会場を抜け出した少年は、ランドセルを岩にまとわりつくように咲いている嶌昼顔の茂みの根本に置いた。

 それから靴とくつ下を脱いで同じ場所に並べて置き、波打ち際に歩いていった。

 打ち寄せる波が足の甲を洗うくらいのところで立ち止まると、両手をみぞおちに当てて背筋を伸ばした。

 少年は潮風を吸い込み、細く長く息を吐いてから、歌いだした。

 澄んだよく通る声だった。

 ひとしきり歌い終わると、少年は、ふっと全身の力を抜いて空を仰いだ。


「ねえ、さっき、歌ってなかったでしょ」


 突然声をかけられ、少年は歌うのをやめた。

 少年の後を追ってきたのは同じ学校の少女だった。

 首からさげた名札に4年1組真名井満干まないみちひと書いてある。真名井家は代々村長を務める家で、今の村長には息子が二人おり、そのうちの次男が満干の父親だった。母親は早くに亡くなり父親が一人で育てている。

「歌わないのにお茶とお菓子もらってるのは、あんただけよ、珪。今にバチが当たるから」

「……」

「そりゃ、あんたは、オズマ先生のとこに住んでる子だから、見逃してもらってるかもしれないけどさ」


 珪と呼ばれた少年は、首からさげているカラフルなひもに提げたカードケースを左手で隠した。

 カードケースには、少女の名札とは違って身分証が入っている。


――離島留学プロジェクト 南大嶌〇村教区あずかり 4年1組皇木珪すめらぎけい


 水色の枠線で囲まれた中にシンプルに三行、そう記されていた。

 少年は全く一人というわけではなかった。

 暮らす場所には大人が庇護者としているのだから。


「オズマ先生はやさしいし親切だけど、規則にきびしいから、学校のことちょっとでも違反するとごはん抜きになるってほんと?」


 珪のおなかが鳴った。


「ほんとなんだ」


 満干はポケットに手を入れると、ざらめクッキーを取り出した。


「これ、あげる。うちはもうおなかいっぱい」


 珪はちらっと満干を仰ぎ見ると、ざらめクッキーを受け取った。 

 受け取る時に触れた満干の手はやわらかくて、ぷよぷよした水クラゲのようだった。

 珪は、手だけでなく、満干のからだは全部水クラゲのようなのかなと想像した。

 オルガンの先生、御厨間睦心先生のように。

 嶌に来て最初の夜、心細いと自覚はなかったものの自分でも知らず流していた涙を、御厨間先生はそっと指でぬぐってくれた。

 すいつくような肌は、涙を吸って一層やわくしっとりとしていた。


「学校のことにはうるさいのに、説諭の集まりで歌わないのは見逃されるのって変だよね。ああ、でも、変でもないのか。宿題や忘れ物は声ださなくてもできるけど、歌は声を出せないとできないもんね」


 満干は口をとがらせた。


「うち、知ってるよ、あんた声は出せるんだよね。でも、なんか気持ちがつっかえて、声が出せないんだよね」


 珪は興味がない風に黙々とクッキーを食べ終わると粉のついた手を上着の裾でぬぐった。


「あ、ほら、ちゃんとハンカチ使いないよ」


 満干が自分のハンカチを差し出した。

 放課後の刺繍クラブで巻貝と桜貝と真珠が光るあこや貝を刺繍したものだ。

 珪は受け取ると、ぽこんと飛び出ている真珠の部分を爪でいじりながら手をふいた。

 ふき終わると丁寧に四つ折りにして満干に返した。

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