第一章 嶌の子どもたち

第1話

 凪いだ海を背景に流れるエンディングナレーションは、何か諦めの哀調を帯びている。

 大人たちは思い思いに祈りの言葉を口にし、子どもたちはそれに倣って神妙そうに下を向いている。

 ナレーションが途切れ、波の音がだんだん小さくなっていき、ぷつん、とそれが途切れると、画面は暗転して、室内の灯りがつけられた。


 金曜の夕べの集いのハイライトは、ほぼ毎回同じこの映画だった。

 ほぼというのは、何年かに一度、役者が交替しているからだ。

 上映時間30分ほどの、全編諍いと戦いのシーンが占める、おおよそ信仰を崇めるようなものとは思えない映像作品だった。

 それでも娯楽のない嶌では、登場人物の役者が若くなっただの、化粧が前と違うだの、衣装が派手になっただの、本筋とは関係のないところで話題にして盛り上がっている。


 映画はある教えの啓蒙を目的に上映されている。

 万邦至天連教ばんぽうしてれんきょう

 このしまには異国から流れつく人が少なくなくいた。その中に耶蘇教のものもいたが、この場所で生きのびていくために嶌の暮らしに馴染みいつしか嶌の土着信仰の谷姫信仰と聖マリア信仰が混淆し独特の教義が成立しそれが万邦至天連教の始まりとなったとされている。


 集いの時は、信仰の対象も強制されず、それぞれの信ずるもの崇め奉っているものを輪になりただ語ることで心の平安を保つのが主な活動だった。その場を中立的な場に保つのが説諭史と呼ばれる存在だった。あらゆる信教に通じ、布教先の信者からも一般人からも繰り出される問いに最適と思われる答えを配する。

 所謂新興の宗教だが、信仰を強制したりはしない。

 金曜の夕べの集いも、村人の交流の場、ゆるくつながる場として歓迎されていた。

 この嶌には土着の習俗はあるがそれはどちらかといえば、日々の相談事を古老の知恵や伝承でもって解決する実践的具体的なもので、心の道しるべとなるようなものではなかった。最も、そうしたものが必要ではないくらいに、嶌の生活は穏やかに閉じてまわっていたのだった。


 もちろん、新興のものを快くなく思うものもいた。

 谷姫を祀る嶌比丘尼しまびくにと呼ばれるものたちだ。

 彼女たち、代々女性のみが属する嶌比丘尼たちは、先祖伝来のものをないがしろにするとして 万邦至天連教の教えを忌み嫌っていた。万邦至天連教側は排除する意思はないと伝えているのだが、嶌比丘尼たちはそれを受け入れることはなかった。


 そこで製作されたのが、毎回集いで上映される映画だった。

 対立しているもの同士の争いの無意味さを表現しているとのことだが、過剰なスペクタクル演出や、慈愛を悲哀に変えた表情の献身的な結女至天連むすめしてれんとおどろおどろしいまがまがしいいでたちの嶌比丘尼の対比は、何らかの意図を思わせずにはいられなかった。


 子どもには刺激が強すぎるからと、小学生は映画を見せてもらえない。

 絵本や図鑑のある集会場の別室の図書の間(ま)で、映画が終わるのを待っていなければならない。

 ところが、その日、小学四年生の少年と少女は、上映会の始まる前の試験映写をたまたまのぞき観てしまったのだった。

 一人きりで調子の悪い映写機と格闘していた村人は、黒い遮光カーテンの端にくるまっている子どもがいるとは気がまわらなかったのだ。



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