追風 1

「追風の君ですね、どうぞお通りくだされ」


 従者と門番のやり取りが聞こえる。もうすぐ到着だ。


 外の声を聞きながら、牛車の中でぼんやりと先程の皇后さまとのやり取りを反芻する。


 あの痛々しい頬を思い出して、また顔をしかめる。大臣さまとはいえ、あの仕打ちはひどい。おそらく皇后さまが大臣さまの申し出を断ったのだろう。幼い頃から大臣さまは皇后さまに特にお厳しいが、皇后となったご身分の方にたとえ父であっても傷をつけることは許されない。


「皇后に手をあげる人に、そんなことおできになれる?」


 皇后さまの言う通りだ。間違いがあるとしても、大臣さまに抗議などできない。私など傍系の身分であるのに、貴族の中でもっとも貴いとされる一族の長に意見して勝てる勝算などあるまい。私とて命は惜しい。


 それでも否と唱えた皇后さまに恐れ入る。叩かれると分かっていて、それでも気丈に意見したのだろう。その折れぬ心は、私にはやや眩しいほどだった。


「お強いな」


 独り言が狭い車内にこぼれ出た。


 主上との間に御子こそ産まれたものの、終始その関係は冷めきっている。帝と皇后、それぞれに互いの話題をださないこと。それはもはや内裏に出入りする者であれば誰もが知っている不文律であったが。皇后さまの仰る通り、だからといって殺していい理由にはならない。


 物思いにふけっていたがふと、牛車の揺れがゆっくりとしてきたことに気づく。車を引く牛が短く啼き鼻を鳴らすのが聞こえた。


「殿、着きました」


 外から声がかかる。がたがたと揺れていた牛車が揺れを収めた。車寄せに着いたことが知らされ御簾が上がると、豪奢な襖が見える。一条邸だ。


 外の国から呼ばせて書かせたと噂の立派な襖だ。太く大きな幹の松が縦横無尽に描かれている。松は左大臣家の家紋だ。永遠を意味する松を太く描くことで、一族の末永く太い繁栄を表現させたのだとか。


「いつ見てもご立派ですね」


 従者がため息混じりに言うのを横目に、牛車を降りる。


「立派な幹だが、大き過ぎやしないだろうか。葉は枯れぬとも、己の重さに耐えかねて折れることもあろう」


 そう感想を漏らすと、従者が慌てながら付いてくる。


「殿、そのようなお言葉は決して口にされてはなりませぬ。どこで一条の者が聞いているやも知れませぬぞ」

「そうだな、まだ大臣さまの腹は収まりがつかぬ」


 従者の忠言に頷きながら襖をくぐった。


 女房の後をついて渡殿を歩く。幼い頃から通いなれた一条の邸は、妻の家よりも勝手知ったる場だ。渡殿の向かいに植えられた松は立派であるが、季節を感じるにはやや趣きが足りぬように感じる。


 大臣さまの寝殿にまで通されると、がらんとした部屋に大臣さまだけが鎮座していた。普段なら几帳や豪華絢爛な襖が多く置かれているというのに、わずかばかりの几帳しか置かれていない。部屋にあれば片っ端から引き倒してしまわれるのだろう。きっとすべて塗籠に押し込まれているにちがいない。


 ここまで先導してきた女房は、私を連れてきたことを告げると挨拶もそこそこにそそくさと去ってしまった。嵐を恐れて対屋に逃げていく。


 やれやれと思いながらも顔には出さずに頭を下げた。


「大臣さま、お呼びと伺いまして参じました」


 私が来たことに関心も示さず外を見いていた顔が、こちらを向いた。


「お主だけだな、儂の呼びかけにきちんと応えるのは」


 そうか、実子には皆逃げられたのだな。皇后さまの顔が目の奥にちらつく。


「甥である私にそのようなお言葉をかけていただき恐縮でございます」

「良い、そのような適当な文言はいらぬ。さっさと本題に入ろう」


 大臣さまは、泥のような目で私を見据えた。この瞳は果たして信じても良いのだろうか。親鳥が危険を知らせるように、頭の中をけたたましく何かが騒ぎ立てている。


「追風、皇后を籠絡しろ」


 大臣さまは表情ひとつ動かさずに続ける。


「桔梗が昔からお前に好意を寄せていたのはお主も気づいていただろう」


 気づいておられたのか。皇后さまと私だけが知っている秘め事のように感じていたことをやすやすと当てられて胸の鼓動が飛び上がる。


「あいつはすぐに入内した上に皇后という立場であるから、男というものを知らぬ。お主が甘い言葉でも吐けば簡単に揺さぶられるであろう」


 ふん、と鼻を鳴らす姿はここへ来た時に乗っていた牛車の牛にどことなく似ている。かつては引く手あまたの色男だったと聞いていたが、今では暴君だ。


「しかしながら、相手は皇后でいらっしゃいます。他の者が黙っていないのではございませぬか」


 そう申せば、いかにもくだらぬというように大臣さまは尺で己の膝をぱしっと叩いた。


「あれの后であることにどれほどの価値がある。皇后の地位を空白にせぬだけの空蝉よ。誰に見られようと見て見ぬふりをされるであろう」


 自身の唯一の姫であるというのに、ひどい言いようである。


「帝の暗殺は何としてでも成さねばならん。それが最も可能なのは桔梗しかおらんのだ。最も一族の傷が少なくなる方法だ、一番良い位置に石を置いたのだから取らねばならんだろう」


 にいっと笑った大臣さまの歯がまた一本失われているのに気づいて、さっと視線を外した。大きな腹を揺らしてしばし笑ってから、再び大臣さまは真顔に戻る。


「追風、今の帝ではこの国の命が儚い。誰もがそう思っていながら何もせず臍を噛んでおるのだ。誰かがやらねばなるまい」

「はい」


 それについては確かに納得をしている。強引なやり方ではあるが、地位の高い者とはいつの世も命を狙われるものだ。退位を拒んでおられる今の主上のご様子では、話し合いで解決できそうにないのだからやむなしとも言える。


 大臣さまは私の返事に満足したのか、機嫌よく頷きにやりと笑った。薄められた目は蛇のように隙がなく獲物を見つめる。


「お主、妻とはあまりうまく行ってないのだろう。すべてが上手くいけば、桔梗を北の方に据えてやろう。そしてゆくゆくは儂の代わりにこの邸の主となれ」


 獲物にはなるまいと、やんわりと微笑み返して牽制するが危うい。


「そんなことが許されますか」


 主上が崩御なされば、次の帝は皇后さまがお産みになった東宮さまだ。皇后さまは皇太后さまとなり、誰かに再び嫁ぐことはない。それにこの邸の跡取りは皇后さまの兄君のはず。


 大臣さまは隙間の空いた歯で愉快そうに笑うと、尺で私を指した。


「儂が良いと言えば何でも叶う。儂の言うことを一番よく聞いているのはお主だ。家督はお主にやろう。それだけだと説得力に欠けるであろうから、我が家の唯一の姫を北の方に据えてやる。そうすれば誰も文句はあるまい」


 たしかに筋は通っているが、皇后さまのことは難しいように思う。しかし、大臣さまが私に家督を譲る意志があるのは吉報だ。今までの苦労がすべて報われるというもの。


「まずは、行動で示すのだぞ」


 大臣さまの言葉に、私は笑みを噛み殺しながら仰々しく礼を返した。

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