弘徽殿にて  2-2

「これで良いのかしら?」


 そう問えば、従兄さまは頷いた。こちらを真っ直ぐに見つめたまま、尺をとんと己の胸に当てる。


「大臣さまは、こちらで例の帝殺しについてお話なさったのですか」

「従兄さまはご存じでないの?」


 従兄さまは黙って首を横に振った。


「そうよ、文は届いているはず、何をしているのか、と」


 私の返答に、納得したように腕を組んだ。難しい顔をしてしばらく黙ったまま庭に視線を逃がしている。従兄さまももしや、この件については反対なのかしら。そうであるならば、私にとって心を寄せる灯火になる。


「大臣さまは内裏からお戻りになって以来、家の者たちに当たり散らし、家財も被害を受けております」


 それは、私が従わなかったからでしょう。己の子供たちがいうことを聞かねば、毎度嵐が来たかのように家の中を荒らして回るのだ。そんな日々が続き、ついに兄の中でも心の優しかった一人が出家してしまった。


「それはいつものことでしょう」

「しかし、今回ばかりはここしばらくの内でも群を抜いてひどいのです。北の方も怯えておられるとか」


 母さまにだけは優しかったのに、この一件に関しては手がつけられないほど怒りが燃え盛っているよう。


「あそこまでひどくお怒りでは、もしや皇后さまにも何かなさったのではございませんか」


 従兄さまの探るような一言に、胸が詰まる。この御簾が私と従兄さまを隔てて私を守ってくれている。胸の内でそう唱えて心を落ち着かせた。


 従兄さまは一体どこまで知っているのかしら。父さまから本当に何も聞いていないのか。それとも、頬を叩いたと聞いてあえて私にそう尋ねるのか。


「それは」


 一度、息を吸って呼吸を整える。


 この頬のことを知ると知るまいとに関わらず、私は毅然としていなければ。知っているのならば何事もないと、叩かれたとて私には効かぬのだと知らしめるために。知らぬのならば、一分もそれを悟らせてはならぬ。


「ここでもお怒りでしたけど、ご心配いただくようなことはございません」


 身じろぎせず、ゆっくりとした口調を意識する。従兄さまはそれを信じたのか、あっさりと表情を崩した。


「もしやと思い案じておりました」

「お心遣いありがとう、従兄さま」

「こうして無事を確かめられましたのでひと安心です。ですが、御簾を下ろしてしまわれているのが残念ですね」


 危うく声が出てしまうところだった。やはり、従兄さまは私が叩かれたと知っているのか。不安に思っているとさらに続けられる。


「今日は皇后さまのお顔を拝見したくて参内したのですが」


 そうやって従兄さまに少し切ない表情をされると、また私の胸が落ち着かなくなってしまう。


 もう私は己の恋を封じたのよ。忘れることにしたのだから。


 扇を握る手に力を込めて、己を律する。たとえ間違いがあったとしても、この頬に朱があるうちは御簾を上げることなど叶わない。


「ご無事であるお姿を拝見したいのです。一目だけでも叶いませぬか」

「そのような申され方はおよしください。女房たちが聞いたら、皇后に懸想していると勘違いいたします」


 そう伝えても柳のように受け流される。従兄さまはにこりと微笑んで少し視線を下にそらした。それがまるで、少し恥じらっているように見えて落ち着かない。


「私はそれでも構いませぬが」


 従兄さまの射るような眼差しが、胸をとすと刺す。御簾がたしかに私を覆っているはずなのに。


「何を仰るの」

「血の継った兄ではないのですから、何も困ることなどございませぬ」

「兄ではありませぬが、血は継っております」

「血は継っておりますが、私は傍系の家の息子です。そのような薄い血の継りなど問題にはなりませぬ」

「しかし、従兄さま」


 私が必死に答えても、従兄さまは聞き分けのない子供をあやすかのように優しく、けれども素早く私の答えを封じていく。そんな風に言い募られたら、本当に私に懸想していると言われているようで混乱する。


「従兄さま、貴方はもうご結婚なさっているでしょう!」


 そうよ、私が入内して間もなく従兄さまも結婚なさっている。なのに従兄さまはそんなこと、と小さく吹き出した。


「皇后さまは、お産まれになった瞬間から皇后になるお方としてお育ちでしたから、恋のいろはには不得手でいらっしゃいますな。年頃になってすぐに入内なさったのですから、何もご存知でいらっしゃらないのでしょう」


 従兄さまはまだくすくすと可笑しそうに笑うと、尺を口元に当てて秘め事を話すかのように声を落とした。


「貴族とは恋をする生き物なのでございます。それは男も女も境はございませぬ。結婚をしたとて、恋は続いてゆくのです」 

「何を申すのです」


 恋の話は幾度も耳にした。女房たちの恋の話を皆でしっとりと聞くのは楽しいことだったから。ときには道ならぬ恋物語もあったけれど、それでも楽しく聞けたのは他人の話だったからだ。


 結婚したというのに、妻をかえりみず恋に走るなど。


「それでは主上と同じじゃないの」

「ええ、そうでございますな」


 従兄さまはあっさりと認めた。皆、主上の恋について咎めるものはいても、認めるものはいなかったというのに。虚をつかれ、私は言葉を失う。


「ここは華の京です。皆が恋をするところなのです。そしてこの内裏は、男女が直に出会える場なのですよ。京の中でも最も恋が生まれる場なのでございます。ですから」


 従兄さまは、口元に当てていた尺をそっと外し薄っすらと微笑む。


「私が皇后さまに懸想したとて、何も不思議なことはないのですよ」


 その一瞬の表情に当てられて、思わず扇をたたみ握り込んでしまった。


 己が従兄さまの雰囲気に圧されていることに気づいたときには、もう遅かった。


「皇后さま、そのお顔は」


 見られた。


 そう思ったときには、すでに従兄さまに扇を持った腕を掴まれていた。顔を伏せるが間に合わない。


「従兄さま! おやめください!」


 私の隙を突いて御簾をかいくぐった従兄さまは、私の頬を見て唖然としていた。ああ、本当に知らなかったのね。探りに来たのではなく身を案じて来たことが明らかになり、こんな時なのに喜んでしまう。


 まだ私の腕を離さないまま、従兄さまは深刻な表情で私の顔をのぞきこんだ。


「まさか、これは大臣さまが」

「ええ、そうです。分かったのなら、もう離して」


 従兄さまは力を失うように私の腕から手を離す。私は従兄さまが離した腕を胸に寄せて己を抱きしめた。


 信じられないものを目にしたというように、従兄さまは片手で目を覆った。きっと、父さまが私に手をあげたことを憂いている。よもや皇后となった娘にまで手をあげるとは思うまい。


「大臣さまが本当にここまでなさるとは思いませんでした」

「誰もそのようなこと考えつきもしませんわ」


 従兄さまはそのまましばらく無言で立ち尽くす。少ししてから私の両肩をそっと掴み己の方を向かせた。


「何故、嘘を仰ったのです」


 従兄さまの目はただ真っ直ぐに私を映していた。この瞳の奥は一体何を思っているの。そう言ってしまいそうになり口元を押さえる。


「このようなこと、言えるはずがないでしょう」


 真っ直ぐな眼差しをいつまでも受け止められずに、私は視線を畳に逃がした。


「こんなに朱く痕になっているではありませんか」

「ええ。でも、それを従兄さまに言ったとて、傷は治らぬのです。それとも父さまに抗議なさいますか。傷になると知っていて皇后に手をあげる人に、そんなことおできになれる?」


 押し黙る従兄さまの姿に、自ら言っておいて悲しみが溢れてくる。従兄さまに頼ったとて、何も変わらないわ。いつだって私はこうして孤独だったのだもの。従兄さまだって、こうして気遣ってはくれても結局は父さまには逆らえない。影の帝に物申すことは死を意味するからだ。血の継ったよしみであっても、命を差し出すことはしないでしょう。


 一瞬でも胸をざわつかせてしまったことに悔しさを感じつつも、落ち着きを取り戻した胸の鼓動にほっとした。


「もう、今日はお下がりください」


 さすがにこの痕を見たあとで強く出ることはできず、従兄さまは静かに身を引いた。一度こちらを黙って見つめたあと、庇へと姿を消す。御簾の隙間へするりと体を滑り込ませるその姿は、手慣れて見える。先程の恋の話を思い出して、また胸が痛みだすのを扇を当てて抑え込んだ。


 御簾の外へ出た従兄さまは、こちらに向かって一礼すると落ち着いた足取りで去っていった。

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