弘徽殿にて 2-1

 中宮さまからも無事に梨壺の里邸に入ったとの知らせが届いた。つつがなく進んでいる、と言える。さらに日をおいて私も合流との段取りだけれども、なかなか頬の朱みが引かない。頬を腫らしたまま合流することも考え始めた。思った通り長引いている。


 高く振り上げた父さまの腕が脳裏によみがえり、ぎゅっと固く目を閉じた。幼い頃の自分が叩かれたような錯覚がおこる。大丈夫、もうここはあの邸じゃないのだから。心の奥底の幼子にそっと語りかける。幼子が震えているのか、私が震えているのか、胸が落ち着かず大きく息を吐いた。


 巻き上げられた御簾の下から、濃い陽光が差し込み母屋の温度を上げる。日差しに伸ばされた影は、暑さでゆらゆらとわずかに輪郭を歪めている。透かしの単に軽い袿を重ねてもまだ暑い。


 もう一度中宮さまからの文に目を落とす。落ち着かぬことが続いていたので、手筈通りに進んでいることに安心する。まあ、頬のことは親不知だとでも言いましょう。


「皇后さま」


 呼びかけられてそちらを向くと、女房が難しい顔で進んでくる。


「どうしたの」

「追風さまがお目通りを申し出ております」

「追風?」


 つい先日、冷たくあしらったばかりだというのに何をしに来たのか。そうでなくとも、父さまが来てこんなことになったというのに。父さまが弘徽殿に来たことは、従兄さまには伝わっていないのかしら。それとも父さまの差し金で?


 不審に思っていると、女房も気遣うようにこちらを伺う。


「お体が優れぬとお返事いたしましょうか」


 それは否、と思った。


 私に会えても、会えなくても、父さまにはその知らせがいくだろう。その知らせが臥しているというものであれば、私が父さまの平手に屈したと捉えられるはず。それは我慢ならぬ。


「いいえ、御簾を下ろして。ここに通しなさい」


 女房は目を見開いてわずかに驚きと戸惑いを表しつつも、「かしこまりました」と頭を下げて引き返した。私は手元の文を隠すようにしまう。


 ほどなくして、簀子を踏むゆったりとした音が聞こえてきた。緋色の束帯を着た従兄さまは強い日差しを浴びて、くっきりと浮かび上がって見える。先日の狼狽えた様子は消え去り、すっかり自信を取り戻したようだ。


 腫らした頬を覆うように、扇を大きく開いて顔の前に持つ。


「突然の訪問をお許しいただき、ありがとうございます」


 従兄さまは変わらぬ様子で前口上を述べた。いつもとは異なり、御簾を下ろし姿を隠していることには、何も不審に思っていないよう。


 一体何をしに来たのかしら。前回の訪問から何日も日が開いていないというのに。従兄さまの表情を伺ってみても、かすかに微笑みを返されるだけだった。怪訝に思いながらも、先を促す。


「本日はどうなさいました」

大臣おとどさまのご様子を見て、皇后さまを案じて参りました」


 従兄さまの口調は真剣だった。父さまの様子とは、先日のあの訪問の後のことを指しているのかしら。


 案ずるも何も、もう叩かれている。


 けれども、こうして私の身を案じて来たということは、少なくとも父さまが私を叩いたことは知らないよう。


「大臣さまが弘徽殿からお戻りになってから、一条邸は連日嵐のようでございます」


 従兄さまは口元を引き締めて姿勢を正す。真面目な顔で真っ直ぐに見据えられて、不覚にも胸がざわつく。


「こちらで何かおありでございましょう」


 従兄さまの目が、探るようにこちらを見ている。これ以上の話は、女房たちがいる前ではできない。暗に、人払いを求めている。まだ従兄さまの意図するところが分からないけれども、父さまとの話が出るのならば人払いせねばならない。


 横を見やると、並んで座る女房たちにうなずいてみせる。人払いの意を察した彼女らは、互いに顔を見合わせてためらった。その様が先日の父さまの一件を示していることが伝わる。


 皇后に傷をつけるなど、たとえ父親であっても許されない。家族でなければ見ることすらはばかられるというのに、よりにもよって顔に大きな痣をつけられたのだから、女房たちの考えももっともだ。傷をつけたのは父さまだけれども、皇后をお守りしなかったと非を指摘されれば女房たちも言い逃れはできない。


「さすがに追風の君は大丈夫よ。もしそうなれば彼は出家か追放だもの」


 そう言えば、彼女らはしぶしぶ部屋から下がる。

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