弘徽殿にて 1
女房が血相を変えて、部屋に飛び込んできた。部屋にいた一同で驚いて彼女を見る。垂らした髪がふり乱れて絡まったまま背中に落ちていた。よほど急いできた様子。
「皇后さま、左大臣さまがお見えになりました!」
口早にそう告げた女房の後ろから、別の女房の「お待ちください!」という声が近づいてくる。
これは機嫌が悪いらしい。父さまの逆鱗に触れたら大変だわ。女房を皆下がらせておかなければ。
「皆、左大臣が参る前に下りなさい。良いと言うまで出てきてはいけないわ」
女房たちに指示すると、皆一様に庇を伝って奥に控えていった。父さまの後から必死に着いてくるのは、まだここに来て日の浅い女房だった。きっと父さまの来訪の恐ろしさを目の当たりにしたことがないのでしょう。餌食になる前に逃がしてやらねば。
「父さま、事前にご連絡をいただかねば困りますわ」
「父が来るのに何を困ることがあると言うのか。お主こそ、儂への文が途絶えているのではあるまいか」
父さまが私に気を取られている間に、女房を連れて去るよう唐松に扇で合図を送る。脇からさっと現れた唐松が、父さまの後ろでおろおろとしている女房の腕を取り、音もなく去ったのを見届けてから扇を閉じた。
狩りが趣味の父さまは、お年よりも若々しく体つきもよい。上背もあるので、女房たちは見るだけで緊張してしまう者が多い。
「父さまからの文を追風から確かに受け取りましたわ」
「文だけではない。附子も同封したはずだが」
頬がひくりと反応してしまう。父さまはそれを見逃さなかった。
「帝はまだ健在にしているようではないか。引きこもって何もせぬ、あのうつけ者め。お前は一体何をしていたんだ! まだ無駄な抵抗をしているのか!」
「父さま、人払いをしたとはいえ、お声が大きすぎます。もう少しお控えください」
あまりの大声に母屋の向こうにまで聞こえてしまうのではないかと肝を冷やす。女房たちは下がったとは言え、この母屋を完全に離れたわけではない。
「今すぐに、とはいきませぬ。それに、私が主上に毒を盛ったことが明るみに出れば我が一族は今の地位から転落いたしますと、以前も言いましたわ」
「そんなものは、後からどうとでもなる」
まったく取り合われない。話が噛み合わぬままだ。
父さまはまるで自分の邸であるかのように足を崩し胡座をかく。汗を拭いながら不快そうに扇をあおぐ姿は、どちらがより高貴な身分であったかと惑わせる。この場では、確かに皇后である私の方が身分が上であるのに、父さまは一度も言葉と態度を正したことはない。
常に不遜で己が一番上になると信じて疑わない。それが父さまだった。
「よいか、そんな些末なことは後からどうとでもなるのだ。東宮も姫宮も産んだのだから、何も恐れるものはない」
姫宮も東宮も、そのような政の道具ではない。ぐっと歯を食いしばって耐え忍ぶ。今はまだ、父さまの方が手にしている権力は上だ。ここで言い争ったとて、私に勝算はない。
「今殺らねば、あの女が召し上げられてさらに秩序が乱れるのは目に見えている。その時ではもう遅い。意味の分からぬ盲言を信じて、内裏をかき乱そうとしておるのだぞ!」
憤る父さまの考えには、共感するものもある。けれども、今回ばかりはいき過ぎだわ。
「たしかに、主上は盲目になっておられますが、だからといって殺めるなどいたせませぬ」
「聞き分けないことを言うでない!」
怒りが頂点に達した父さまは、扇を握りしめて立ち上がった。そのまま近づいてきたかと思うと、次の瞬間乾いた音が鳴った。
音の後から、左の頬に刺すような強い痛みが広がる。衝撃に耐えきれず、顔は横を向いていた。
父さまに、頬を叩かれたのだわ。
幼い頃から、何も変わらない。父さまの言うことには逆らわず、是と言って従う。それができなければ、こうして叩かれ、是と言うまで折檻されるのだ。
ゆっくりと父さまの方へ向き直ると、鬼の如き形相で私を見下ろしていた。
「よいか、女房を一人抱え込んで、帝の膳に薬を入れるよう申せ。気の病を治す薬だとでも言えば、誰でも信じるだろう。無事に事が終われば、その女房は適当な理由をつけて内裏から下げろ。内裏から出た後のことは儂に任せておけばよい」
内裏を出された後、そのかわいそうな女房は父さまの従者の誰かに殺されるのだろう。そうと知っていて、誰を指名できようか。そもそも、帝殺しなど、天地が返ろうとも私からは命じられぬ。
「さっき儂の後ろをきいきいと煩く鳴きながら付いてきた女房など丁度良かろう。見ない顔だったからな、新入りなのだろう? 切り捨てるには都合が良い」
なんと目ざとい。
内裏に父さまの魔の手が入ろうとしている。何としてでも、ここを守らねば。今はもう、ここが私の居場所だ。あの邸には二度と戻れないのだから。
「どの女房を選んでも構わん。気づかれずに動ける聡い者であればな。言う必要はないだろうが、尚侍には勘付かれるでないぞ。あやつは帝の肩を持つ愚か者だ」
自らの妹のことをそう吐き捨てると、父さまは帰るとも言わずに庇へと出ていく。
程なくして唐松が戻ってきた。私の顔を一目見て血の気がさっと引く。
「皇后さま、一体どうなさったのですか! そのお顔はもしや」
みなまで言う前に頷くと、唐松は言葉を詰まらせた。そっと私の左頬に触れると、さらに顔をしかめる。余程ひどいよう。
「皇后さまにお手を上げるなど、許されまじ」
唐松の唇がわなわなと怒りに震えている。唐松の手に自分の手を重ねて下ろす。
「今の内裏に父さまの為すことを咎められる者などいないわ」
今の事実上の帝なのだもの。きっと、皇太后さまとて父さまには逆らえないでしょう。
唐松も言いたいことを察して、それ以上の言葉を飲み込んだ。
「朱く腫れ上がっております。すぐに手当てなさらねば」
「そんなにひどい有り様なのね」
自らの手で触れてみると、確かに熱い。あまり触れるとひりひりと痛むのですぐに手を離す。触れて分かるほどには腫れているようだった。
これでは、女房たちを誤魔化すことも難しいわね。あの様子の父さまが来て去ったあとなのだから、むしろ納得するのではないかしら。騒いでいたのも聞こえたでしょう。
「どうしましょう、手当てをしようにも他の者にも皇后さまのお顔の傷が知れてしまいます」
「仕方がないわ。隠せる場所ではないのだし、あの状況だったのだから、皆納得するでしょう。ここまでされるのだもの、恐ろしくて理由まで訊ける者はいないわ」
「何かやらお怒りの声が響いておりましたね」
「そちらまで話の内容が漏れていたかしら」
そう尋ねると、唐松は首を振った。父さまの話は外には漏れなかったのね。ようやくほっとして緊張がほどけた。力が弛んで崩れる私を、唐松が慌てて抱きとめる。
「皇后さま!」
「大事ないわ。力が抜けてしまっただけよ。腫れてはいても七日も経てば落ち着くでしょう。梨壺は昨日物忌みに入ったばかり、中宮さまも日をあけて物忌みの予定だから、私が合流する頃には白粉で何とかなるはずです」
唐松はまだ何か言いたげではあったけれど、私の顔があまりにひどいと言って、他の女房を呼びに出ていった。
じんじんと引く気配のない痛みに、そっと息を吐く。これは長引くかもしれない。
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