梨壺 1

 梨壺さまのご実家に牛車が二台用意された。


 いよいよ始まってしまう。皇后さまがお考えになった、かぐや姫を月に帰す話が動き出している。まさか、皇后さまの話に梨壺さまが乗るとは思いもしなかった。


「私が行くと言って驚いたでしょう」


 いたずらっぽい顔で梨壺さまが仰るのに、素直に頷いてから慌てていいえ、と首を振った。梨壺さまは笑って扇を広げる。そんな何気ないしぐささえもお美しくて、私は梨壺さまを心からお慕いしている。


「ふふ、嘘はいけないわよ兄子さきこ。私だって驚いているんだから」


 本当に楽しそうにしていらっしゃるお姿が久しぶりで、嬉しくて目尻に涙が滲んでしまった。それに気づいた梨壺さまは、勘違いなさって私を気遣う。


「兄子、お前は無理して来なくてもいいのよ。ああは言ったけれども、危険なのは本当なんだから」


 強く瞬きして薄く張った涙を飛ばすと、梨壺さまをまっすぐに見据えた。


「いいえ! 梨壺さまをお一人にするわけには参りません。梨壺さまがいらっしゃるならば、兄子も参ります!」


 梨壺さまはやや太い眉を困ったように下げながらも、優しく肩を抱いてくださった。


「本当に可愛い子ね、兄子は」


 抱かれた肩越しに、文筥に載せられた入り切らぬ文が目に入る。梨壺さまから主上に向けられた文だ。


 以前は連日のようにお渡りになって、文も日に何度も行き交っていたのに。今では文をお送りしても、返事は返ってこない。それでも梨壺さまは健気に文をしたため続けていらっしゃる。


 梨壺さまは心から主上をお慕いしていらっしゃる。


 誰が何と言おうと、私の主は愛に溢れた慈悲深い方だ。だから私は信じてついて行くと決めたのだ。梨壺さまに仕える女房として、離れるつもりは微塵もない。


「たとえ武士のようには戦えずとも、梨壺さまをお守りする覚悟でございます」

「頼もしいわね」


 くすりと笑うと、目に強い光が宿る。梨壺さまは私の肩を離し向き直ると、強い眼差しで私を捉えた。


「あの訳の分からぬ女から、主上を取り戻すわ」


 息を呑むほどの覇気があった。普段はお優しい目元が、今ばかりは大きく見開いて力が入っている。


「明日から物忌みに入ると宣言して里邸に渡ると、主上にお伝えしてきてちょうだい。これから、女の戦いが始まるわ」


 爛々と輝く梨壺さまの瞳に圧倒されながらも、私はしっかりと頷いた。


 梨壺さまに命じられた通り清涼源に向かう。尚侍から要件を尋ねられいつもの通り、梨壺さまからの言伝を、と申し上げるとしばらく待つよう言われた。尚侍から、主上のお許しが出たことが告げられて日の御座ひのおましの前まで通された。


 清涼殿の中は昼だというのに蔀が固く閉じられて、御簾も下までしっかりと降ろされている。まるでここだけ夜更けのようで恐ろしい。


 昼なのに灯されているわずかな灯りに、それでも足元は心許ない。


 主上がおわす御簾の前は、私のいる庇にしか灯りは灯されていなかった。主上は臥せっておいでで、いらっしゃらないのかしら。


 不安に思いながらも、そのような態度は不敬であると戒めて背筋を伸ばし、暗がりの御簾に向かって礼をした。


「昭陽舎さまより言付かって参りました」


 頭を下げたまま返事を待つけれども、一向にお声がかからない。もしかして、本当にご就寝なさっているんじゃないのかしら。焦る気持ちを抑えてそっと御簾の向こうに聞き耳を立てていると、わずかに衣擦れの音が聞こえた。


「梨壺の女房か」

「はい、兄子でございます」


 声のする方をじっと見つめてみるけれど、暗すぎて御簾の内に人がいる影はどこにも見当たらなかった。ただでさえ神々しい身分の方であるのに、姿がとこにあるのか分からず暗闇の中声だけが朧気にこだまするなんて不気味すぎる。


 単の袖をぎゅっと握りしめて、恐怖を押し殺す。


「本日より物忌みのため、昭陽舎の更衣は里邸に下がらせていただきます」

「好きにせよ。下がれ」


 一言だけだった。衣擦れのわずかな音が遠のいていく。こんなにも梨壺さまは一心に思っていらっしゃるのに。ずっと、主上ただお一人を見続けているのに。


 私は黙って頭を下げるしかない。主上に食い下がるような真似をすれば、内裏には二度と上がれない。女房とはそういう立場だ。


 その場で立ち上がると、清涼殿を出る。出来うる限りの速さで足をさばいて庇を全力で歩く。噛み締めた唇が痛い。己の主を軽んじられたようで悔しい。


 ずっと良いご関係だと信じていたのに、かぐや姫が現れてからも梨壺さまにだけは会っていただいていたのに。こんなにも冷たく突き放すなんて。


 主上は裏切り者だわ。

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