弘徽殿にて 2

 文筥を開けて紙を選ぶ。微妙な間柄の相手に向けた文ほど面倒なものはない。一体どんな紙を選び、どの香を仕込んで、何を添えればよいのか。あまり質素でも相手の機嫌を損ねて、のちのちさらに拗れるだろう。


「どの紙がいいと思う?」


 唐松に問うと、悩む間もなく色のない紙を差し出される。


「こちらで宜しいのでは。梨壺さまも皇后さまにお渡しする文だというのにこのような味気ないものを寄越したのですし」


 唐松は文を受け取ってからずっとこの調子だ。聞く相手を間違えたわ、と思うと苦笑いしか出ない。


 貝合わせの会から数日後、梨壺から文が届いた。実家から牛車を用意すると返事がきたとのこと。


 梨壺が先に物忌みを理由に里邸に下がることになっている。その後に中宮さまと私が合流し、梨壺の実家から用意された目立たぬ牛車に相乗りして出立する策だ。


 梨壺に牛車を用意してもらうのは、後宮で用意したものでは数が合わぬなどとすぐに気づかれてしまうから。それに、華美な装飾が多いと、道中あやしまれてしまう。私が用意できればよいのだけれど、父さまに知れてしまうため断念した。


「まあ、紙はこれにしましょう。あまり華美にしても、それはそれでおかしいものね」


 唐松から紙を受け取り、匂いをかぐ。文筥に入れておいた丁子ちょうじの香りが移っている。私の一番好きな香り。


 まずは牛車の手配をしてくれたことへの礼を綴り、そして時を見計らって里邸へ下がるよう指示を出す。中宮さまへはこちらから知らせること、里邸へ渡ったら文で知らせるよう書いてから気付く。これでは文ではなく命令だわ。


「父さまからの文と同じね」


 嫌気がさして筆を置く。


「良いのですよ、必要なことだけをお書きになって、それでおしまいにいたしましょう。こちらが風流を意識したとて、相手には響かないのですから」


 唐松は冷たいことを言うけれど、たしかにそうね、とも思って梨壺への文はここまでとする。墨が乾くよう紙を台から外して隣へ置いた。中宮さまへはすでに文をしたためた。


 あとは、宵宮さまだわ。


文筥の中に納められた色とりどりの紙を眺める。普段と変わらぬ黄檗きはだ色の紙を手にすると、唐松から待ったがかかる。


「皇后さま、まさかまたその紙をお使いになるおつもりですか」


 随分と非難めいた口調だ。


「そうよ」


 一番当たり障りのない色がいい。他の者が見ても、黄檗色なら公的な文書だと勘違いする者もいるでしょう。


「こちらの中紅色の方がよろしいのではございませんか」


 唐松が手にしたのは鮮やかな薄紅の紙だった。たしかに風流だけれども、そんな内容でもないのだし。


「あまり気を遣っても周りに変に勘ぐられてしまうし」


 宵宮さまとの間に良からぬ噂が立とうものなら、すかさずそれを好機と見た者に利用されてしまう。主上を引きずり下ろすのにもってこいの不祥事に、宵宮さまも巻き添えにしては申し訳ない。そんなことになれば、宵宮さまは二度と帝候補には押し上げられないでしょう。


 唐松は私の手元からさっと黄檗色の紙を奪い取ってしまった。


「唐松っ、およしなさい」

「こちらをお使いください。皇后さまがなさらないなら、私が代筆いたします」


 私の前に置かれた筆を取ろうとするので、慌てて筆を死守する。


 女房の代筆はよくあること。唐松の書く文字は柳のごとしと定評があり、私が書くよりも美しいことはわかっている。けれども、何を書かれるかわかったものではない。


 諦めて、中紅色の紙を持っている方に手を差し出した。唐松は黙って紙を私の手に乗せる。


 宵宮さまが妻帯者であったら、主上が帝らしくしていたら、父さまがもっと穏やかな政治を行っていたら。


 私が皇后でなかったら。


 ここまで気を遣うこともなかったのに。違う関係性の者同士だったなら、風流を意識して気の利いた一言を添えながら文のやり取りをしても、ここまで衆目を集めない。良き友であれたはずだった。


 ないものを求めても仕方がないわね。


 筆先に墨をつけ紙に向かってかがみ込む。丁子の香りがただよって、胸が少し和らいだ。この香りがどうか、宵宮さまにも届きますように。


「書き上がりましたらお呼びください」


 唐松が気を利かせて下がった。一人で宵宮さまへの文に向かう。


 この先の段取りについて一通り書いたあと、父さまのことが頭をよぎった。流石に詳細な内容については、たとえ宵宮さまであっても話すことはできない。けれども、また追風がやって来る可能性はある。追風に不在が知れることだけは何としてでも避けたい。


 よくよく考えた結果、追風が来るかもしれないことだけをやんわりとお伝えすることにした。皇后の殿舎に無理に押し入るような真似はしないと信じたいけれど、万が一ということもある。


「唐松」


 そう呼びかけると、影から唐松が現れて文を受け取った。自分が取り出した紙を使われているのを見て、唐松は満足そうに微笑んでいる。私を思ってくれているのは嬉しいのだけど、ときに強引であるのが玉に瑕だ。


「文を届ける前に、庭の菊を添えてちょうだい」

「かしこまりました」


 毎度、文にはかかさず草花を添えてくださる宵宮さまに、こちらもお返しをしたい。本当は私も、人とのやり取りを気兼ねなく楽しみたい気持ちはある。唐松はそれを機敏に察して後押ししてくれるのだから恐れ入る。


 何でもお見通しの女房は機嫌よく部屋から出ていった。

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