弘徽殿にて 1

 中宮さまとともに主上へ奏上して以来、主上の仮病はさらに深刻さを増した。姿を見た限りでは、必ずしも仮病と言い切れぬ様子であったけれど。


 髪が乱れるのも気にかけず、蔀も閉じた暗い部屋で青白い顔を浮かべている様は、悪霊や生霊が取り憑いていると言われれば誰もが信じるでしょう。噂では聞いても、実際に悪霊に取り憑かれた人を見たことはないから、尚のことそう思うのかもしれない。


 主上はいよいよ一歩も清涼殿を出なくなった。お伺いを立てても全く取り合ってもらえず、尚侍に門前払いされてしまう。主上の乳母でもある尚侍は、こうして主上の頼みであれば何でも聞き入れる。主上にとってはいつまでも我儘を受け止めてくれる乳母なのだ。


「私はもとより腹の内を疑われておりますから、このような状態では天地がひっくり返っても主上のご尊顔を拝することは叶いませんわ」


 手にした貝の縁に指を這わせながら口にしたら、ひどく言い訳めいて聞こえて自分で驚いた。


 向かいにいらっしゃる中宮さまはそれには気をとめず、並べられた貝をじっと眺めていらっしゃる。手元の貝と見比べながら、伏せられた貝を順にご覧になる様子は可愛らしい。


「私も同じです」


 素っ気ない声で中宮さまは仰った。どうやらまだご立腹のよう。中宮さまは内裏に上がったときから、従兄である主上にお厳しい。


 もっと明け透けに言うならば、中宮さまは主上を嫌っていらっしゃる。


 ご自身の思い描く帝の姿から主上はかけ離れているのでしょう。中宮さまは上皇さまをすべての基準とされている。あの上皇さまをもとに比較なさると、何を見ても苛立ちを感じるのではないかしら。


「尚侍は本当に頭の硬い人ですね」

「誰に対してもそうですから、仕方がありませんね。尚侍は主上にお仕えしているのだと申しましたから」

「まあ! そんなことを皇后さまに申すなど、なんて無礼な者なのでしょう!」


 中宮さまは終始お怒りで、なかなか貝をお取りにならない。女房の燈子がそっと耳打ちして促した。難しい顔のまま一番近くに置かれた貝を拾い上げて落胆なさる。どうやら、また絵柄が揃わなかったよう。


 中宮さまが貝を戻すと、梨壺が迷いなく同じ貝に手を伸ばした。驚いた中宮さまは梨壺を見上げたあと、さっとその手元をご覧になった。


「梨壺がその貝の相手を持っていたのね」

「中宮さまがお手に取るのを見て、そわそわしておりました」


 微笑みながら梨壺は貝を脇に揃えて並べた。梨壺が貝を合わせるのはこれで六組目だ。貝合わせで負けなしとの女房の噂は本当だったらしい。対する中宮さまはまだひとつも揃わず苦戦なさっている。


「梨壺は本当に貝合わせが得意なのね」


 感心した様子の中宮さまに、梨壺は頭を下げる。


「恐れ入ります」

「どうすればそんなに早く揃うのかしら」

「貝の背をよくご覧になる、としか申せませんね。線の太さ、本数、幅、色、貝の大きさ、縁の歪み、そういったものを手元の貝と照らし合わせて探すのです」

「見ているつもりなのだけど、どうも苦手なの」


 中宮さまはこぼす。おそらく中宮さまは貝合わせにあまりご興味がないのだわ。箏を奏でる時の方がずっと輝いた顔をなさっている。


「お気になさることはございませんわ。こういった遊びは上手くできたからといって、必ずしも褒められることではありませんもの」


 梨壺は扇を広げてこちらを見た。私の番だと目が告げている。


 中宮さまのご様子を伺いながら、適当な貝を手にしてまた戻した。程よく数を合わせておいた方が、中宮さまも気に病まないでしょう。


「皇后さまもお上手そうですね」


 貝を戻す私を見て、梨壺はちくりと針のような言葉を投げてくる。私が手を抜いていると暗に言いたいのね。よく見ていること。


「私はほどほどよ。お手柔らかにね」


 再び中宮さまに場を移し、中宮さまの気がそれている間に梨壺に声をかける。


「梨壺はあのあとも主上に呼ばれていると聞きましたよ」


 梨壺は視線を上げた。私と目が合うと黙って頷く。さすが、寵愛を受けていた唯一の寵姫だ。


「主上のご様子はいかがでしたか」

「お変わりありません。顔色が優れず、伏せっておいでです」


 中宮さまと共に通されたときも、お加減は良いと言えぬ様子だった。少なくともあの時から体調は上向いていないと思ってよさそうだわ。


「それならば、かぐや姫の邸で主上と顔を合わせることはなさそうね」


 そう呟くと、その場にいた皆が一斉に動きを止めてこちらを見やる。特に中宮さまと梨壺の目の丸さといったら、まるで猫のよう。邸で可愛がっていた猫を思い出し、笑みがこみ上げてきた。


 くすくすと笑う私を気味悪そうな目で梨壺が見る。


「どうなさいましたか」

「他のことを思い出してしまっただけよ、貴女たちを笑ったのではありませんからご安心なさい」


 扇で顔を少しあおいで落ち着かせてから、中宮さまと梨壺に向き直った。


「梨壺の話の通りであるなら、主上はとても起き上がることはできません。迎えが来ると泣くかぐや姫がいても、駆けつけることはないでしょう。私たちがかぐや姫の邸へ向かうことは、この後宮内での極秘事項です。何者にも、特に、主上と尚侍には漏れてはなりませぬ」


 二人は目を見合わせて頷いた。これが外に漏れれば、私たちは誰を一人取っても無事ではいられない。


「私たち三人が不在の間は、何者も後宮の外から招き入れてはなりません。物忌みであるとして、お引き取りいただくこと。文も今は受け取れないと申し伝えるのです。よいですね」


 集まっている女房たちは皆一様に頭を下げて、了解を示した。


 尚侍は今、命儚いとも言い切れぬ主上に付きっきりである。女房たちが騒がず黙していれば疑われることもないでしょう。主上が后を拒むのも今に始まった話ではない。后の一人も訪れないのもいつものこと。


 ところが外からとなると、話はやや異なる。


「不在にしている間に、断りきれぬ間柄の者が来ることもありましょう。その時に力になっていただけるよう、宵宮さまにもお話ししてあります。何か後宮の中で解決できぬ困りごとがあれば、宵宮さまをお呼びするように」


 宵宮さまの名が出た途端に、唐松を除いた皆が動揺する。


「宵宮さまにお話しなさったのですか」


 中宮さまがためらいがちにお尋ねになる。中宮さまにとっては宵宮さまも従兄でいらっしゃる。歳が離れていることもあり、中宮さまとの関わりはほとんどないと聞いている。直接やり取りなさったことはないに等しいでしょう。


「ええ。身分の高い者が訪ねてきたとき、女房だけでは断りきれないこともあるでしょう。しかし、此度のことは後宮の外の者には漏れてはなりません。その時に力になっていただける方で、最も信頼できる方です」


 中宮さまは不安そうに燈子と顔を見合わせた。中宮さまが気にしていらっしゃるのは、おそらく主上と宵宮さまの微妙な関係のことだろう。


 主上は気にもとめていないでしょうが、主上が東宮だった時代から主上派と宵宮派に別れて貴族は対立している。それは元をたどると、父さまを支持する貴族とそれに対抗する貴族たちの対立だ。


 宵宮さまを頼るのは外聞が悪いのではないか。そう、皆は危惧しているのだ。


「主上の信頼が最も厚い方で、口も固く誠実でいらっしゃいます。やんごとなきお方ですから、どのような身分の者が後宮に現れても上手くあしらっていただけるでしょう」

「たしかに、皇后さまの仰ることを聞くと他に適任はいませんね」


 中宮さまは納得されたのか、燈子から視線を外して頷いた。女房たちも、中宮さまの反応に従う。


「ご安心ください。実は、以前から宵宮さまには主上のご様子を報告していただくなどして、お力添えいただいております。此度のことも宵宮さまからかぐや姫の様子をお教えいただき、ご相談があったことから始まっているのです」

「まさか、皇后さまが宵宮さまとやり取りなさっているとは思いませんでしたわ」


 梨壺はやや太い眉を寄せて、口元を扇で覆った。それがどんな心を意味する表情なのかわからないけれども、あまり良く思ってはいなさそうだわ。


「中宮さまのご懸念なさる通り、宵宮さまとお会いになるのはお気をつけあそばした方がよろしいですわ。宵宮さまは良い方ですけれど、周りの目というものがございます」


 どのような理由であれ、梨壺が言う事はもっともだ。それは肝に銘じねばならない。


「そうね、ご忠告ありがとう」


 自分が貝を拾う番が来ていたことを知り、貝を手にした。他よりもやや小ぶりで艶のある貝。線が多く繊細な模様を描いている。手に握っていた貝を合わせるとぴたりと縁が合わさった。


 あたりだ。


 内に描かれた絵柄は、夜更けに花を持って姫に会いに来る若い公達の姿だった。宵宮さまは帝の伴侶にそのような無礼はなさらない。あたりを喜んでくださる中宮さまににこりと笑みを返しながら、その貝は絵柄を伏せて脇へやった。

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