第二章
宵宮 1
今日の弘徽殿はどこか落ち着きがない。女房たちは変わらず慎ましく仕事をこなし楚々とした佇まいであるが、わずかな呼吸や言葉のはしばしに悟らせる熱がある。
私だけが某か起こっていることを知らずにいるようで、こちらも落ち着かぬ。ここが後宮であることを思えば女だけの秘めたるものがあるのやもしれぬが、どうもそうと納得しかねるのは、やはりこの話題のせいだろう。
「宵宮さま、先日のかぐや姫の帰郷についてですが」
皇后さまの凛とした声が御簾ごしに響く。皇后さまと尚典だけは、川の流れを打ち砕く岩のごとき静寂を保っていた。この二人が後宮を取り巻く妙な熱の源ではないか。
皇后さまの声の続きを待っていると、女房たちの表情が引き締まり緊張が高まるのを感じた。皆の視線がこちらを向いている。
「中宮さまと梨壺の三人で、かぐや姫を訪ねることにいたしました」
しんと静まり返った部屋で、誰もが身じろぎひとつせずに私を見つめている。
「今、何と」
「私達三人で、かぐや姫の邸へ参ります」
「なりませぬ!」
思っていたよりも大きな声を出してしまった。女房の何人かは、怯えて身を寄せ合っている。申し訳ないが、しかし、これは由々しきことだ。
「先日、皇后さまにお任せしたことを後悔しております」
「それはお気の毒なことです」
皇后さまは涼しい口調でお答えになる。何をお考えでいるのかさっぱりわからない。なんと、三人で内裏を出ると仰せになったか。一人でも許されざることであるのに、全員でなど主上の恋よりも騒ぎになってしまう。
「たとえ、どなたかお一人でなさるとしても許されません」
「わかっております」
「后が内裏を出るということがどういうことか、よくおわかりでしょう。今の混乱がさらなる騒ぎへ発展してしまいます。そうなればいよいよ国が滅びるでしょう」
「宵宮さま、私達は国を滅ぼさぬために向かうのです」
御簾の向こうの影は、寸分も動かない。変わらぬ口調で諭すように話す皇后さまに、不安が募る。主上のご容態に引かれるようにして、皇后さまの心も揺れているのではないか。
襟を正すと、手をついて頭を伏せる。
「皇后さまが内裏を離れたことが知れ渡れば、内裏はさらなる混沌へと突き落とされてしまいます。どうか今一度お考え直しください。何より、后が内裏を出るなど不可能でしょう」
ふう、と息を吐く音が聞こえた。どうやら皇后さまのため息のようだ。
「宵宮さま、顔を上げて。宵宮さまの言い分は充分理解していますし、もっともだと考えています。しかし、内裏を抜け出せないという意見は、今の内裏には当てはまりません」
「何を仰るのです」
言うのと同時に顔を上げた。気づけば女房たちは皆、訳知り顔に変わっている。
「確かに平時の内裏でしたら抜け出すなどできぬでしょう。ところが今は内裏の至るところが乱れています。主上は臥せり、東宮はまだあまりに幼く、父さまの好きに統治され、反発するように新たな派閥が生み出されているからです。貴族だけでなく兵も下働きも皆、己の本分を忘れ、まともに働けているものは少ないのですよ」
皇后さまが指摘することは、確かに正しい。混乱に乗じて誰も彼もが浮足立ち、落ち着かない。今、他国から攻め入られたら間違いなく一両日中に陥落するだろう。
「仰る通りですが、内裏から一歩足を踏み出せば危険が山のように溢れております」
「宵宮さまは随分と心配性でいらっしゃるのね」
御簾の内から、ふふっと小さく笑う声が漏れた。一体なぜここまで楽観されていらっしゃるのか。
「笑い事ではございませぬ」
「宵宮さま、主上でさえもわずかな兵のみで例の邸に向かえるのですよ。この国において、帝よりも尊い存在はおりませぬ。帝がなさるのに、私たちが出来ぬことはないでしょう」
「主上がなさっていることも問題なのです。それを引き合いに出さないでください」
これでは全く話が進まない。皇后さまは何と言われようと、この計画を実行なさるおつもりなのだ。そしてどうやら、この部屋に集まっている女房たちは皆それを知って賛同しているらしい。
厄介なことになった。
もっと控えめで落ち着いた方だと思っていたけれど、とんだ思い違いをしていたようだ。皇后の鑑のような方であるが、内にとんでもないじゃじゃ馬を棲まわせておられる。
「多くの兵を引き連れていたら、他の者にすぐに見つかってしまいます」
「どうしてもと仰るなら」
こんな提案をしようだなんて、平時の私が聞いたら卒倒しそうだ。
「皇后さま、私も護衛としてお連れください」
「何を申されますか」
さすがの皇后さまも動揺していらっしゃる。女房たちもざわめき、部屋は小鳥が一斉にさえずるような高い声で溢れた。
「それが出来ぬと仰せなら、かぐや姫を訪ねるのは諦めてください」
女房たちが騒ぐなか、皇后さまはしばらく一言もこぼさずにいらっしゃった。女房たちがそれに気づき徐々に声を収めても、まだお話にならない。ご機嫌を損ねてしまわれただろうか。暑さではない汗がつうっと背中を流れた。
「宵宮さま」
ようやく皇后さまのお声がかかった。背筋を正して御簾を見る。
「宵宮さまの申されることもわかっております。しかし、これはどうしても成さねばなりません」
ここまで強情なご様子は、主上のそれと重なって見えた。接点がないようでいて、似た者同士でいっらっしゃるのか。そう言えばきっと、否定されてしまうだろうが。
「宵宮さまをお連れすることはできません。ですが、代わりにお頼みしたいことがございます」
「頼み、でございますか」
「私たちが後宮を空けているあいだ、他の者が訪ねてくることもございましょう。その時に上手く立ち回り、不在を誤魔化していただきたいのです」
「他の者とは」
訪ねてくると言えば、家族くらいなものではないのか。どこか含みをもたせた言い方が引っかかる。
「それは誰とは分かりませぬ。けれども、女房たちだけでは時にかわせぬものもございます。此度の件は、後宮の女房の多くを巻き込んでおりますので、宵宮さまにお力添えいただけるのであれば口裏を合わせることもできますわ」
女房たちが皇后さまのお言葉に合わせて皆頷いてみせる。女房の多くを巻き込んでいるというのは本当らしい。
「しかし、后さま方を送り出すわけには参りませぬ」
「先ほどもお話ししました通り、これは成さねばならぬのです。宵宮さまが何と申されようと、変わりません。それに、もし見つかってしまったら、宵宮さまが伴にいらした方が都合が悪いのではございませんこと?」
もはや、皇后さまのお気持ちを変えることは難しいと悟り、ため息にならぬよう静かに息を吐き出した。
後宮の女房たちは優秀だ。誰かが訪ねて来ようとも不在が疑われることはないだろう。そもそも、内裏から后が抜け出すなど一体誰が考えるだろうか。
今案ずるべきことは、道中の身の安全だけかもしれない。
「口が固く有能な兵を数人送りますのでお連れください」
そう折れると、御簾の向こうで影がわずかに頭を下げ、弘徽殿の空気はようやくやわらいだ。
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