弘徽殿にて 7
その日の晩、皆が寝静まった頃を見計らって唐松だけを呼び寄せた。わずかな手元の灯りに照らされた唐松の顔は、何事かと神妙な面持ちだった。
「お約束どおり参りました。いかがなさいましたか」
ひそひそと唐松が話すのを聞いて、やっと少し肩の力が抜ける。こんなに大きなことを一人で抱えるには、あまりにも私の器は心許ない。
「唐松、今から話すことで貴方を道連れにしてしまうのを許してくれる?」
「内裏に上がった日から今日まで、私の主は皇后さまただお一人です。何があろうとも、最後までご一緒いたします」
線が細く見えて芯が太いこの女房に、どれほど助けられたことか。唐松の肝が据わった返事に、目頭がじんわりと熱をもつ。
「追風の君のことでいらっしゃいますね」
そう問われて頷いた。唐松は困ったように眉を下げる。
唐松は私が追風に思いを寄せていたことを知っている。今日の訪問は、それに関連したものだと想像しているらしい。
「従兄さまのことだけれど、父さまのことでもあるのよ」
「左大臣のこと、でございますか」
唐松の表情が怪訝なものに変わっていく。もう一度耳を澄ませ、誰も居ないことを確認してから息を吸った。
「従兄さまはこれを持って参ったの」
そう言って、懐から例の文を取り出した。唐松は私の差し出す文を黙って受け取る。
「父さまからの文よ」
開いて読むよう扇で促すと、唐松はためらいがちに文を開いた。開いてすぐに、息を呑む。咄嗟の悲鳴もあげないのだから、優秀な女房だわ。
目が合う唐松に小袋を持ち上げて見せた。
「附子よ」
わすかな明かりしかない暗がりでも、唐松の顔から血の気が引いて真っ青なのがわかる。再び丁寧に畳まれた文を差し出す手が、まるで冷水に触れたかのようにひんやりとしていた。
「誰にもお見せしてはおりませんね」
「唐松だけよ」
唐松は黙って頷いた。
「決して、どなたにも知られてはなりませぬ。これが知られれば、皇后さまも無事ではおられません」
「そうね、どんなに軽くても出家は免れないでしょう。流罪も覚悟しなくては」
「皇后さま、そのようなことは口にしてはなりませぬ!」
険しい表情で唐松は言うけれど、これは避けようもない事実だ。この手紙を手にした時点で、私はこの罪の片棒を担がされている。
「父さまは本気でいらっしゃるのよ」
「まさか、左大臣の御命に従うおつもりですか!」
唐松は鬼気迫る顔で私に詰め寄る。私もむっとして言い返した。
「そんなことするわけがないでしょう!」
「まあ」
安心したのか、唐松の上がっていた腰が下に戻る。
そう言ったものの、相手はあの父さまだ。この世を掴んでいるといっても過言ではない人を相手に戦うのは難しい。父さまから見れば、私など皇后とは名ばかりの小娘に等しい。
「父さまの手紙には従わないけれど、そうするには死を覚悟するほどの決意がなければなし得ないわ」
「左様でございますね」
私も唐松も視線が己の裾に落ちる。
内裏へ上がるときに一通りの覚悟を決めたはずなのに、いざとなると胸の内に何かがつかえて息も上手く吸えぬなんて。私の覚悟とはその程度のものだったのでしょう。まだ幼かったあのときに、よもや父さまと対立する日が来るなど思いもしなかったもの。
「皇后さま、何をしてでも左大臣の思う通りになさってはなりませぬ。私の持てる全ての力をもってお支えいたします。ともに切り抜けましょう」
「ありがとう、唐松だけが頼りよ」
唐松の澄んだ瞳を見ているうちに、少しだけ心が落ち着いた。唐松自身も心が決まったのか、落ち着いた表情を取り戻している。
「追風の君は、この文の内容をご存知なのですか」
「ええ、しっかりと把握していたわ」
唐松は一瞬押し黙った。唐松も従兄さまが父さまの側に付いたことを察したのだ。
肩から落ちる衣を引き上げながら、文と附子の入った小袋を唐松に差し出した。唐松は黙ってそれを受け取る。
「今すぐにでも焼き払いたいけれど、それも難しいわ。ひとまず、
「私もそう信じております」
唐松は頷くと、片付けていた文筥を持ち出してきて私の目の前においた。中身を取り出すと父さまからの文と小袋をしまう。その上からもともとしまっていた紙を載せて蓋をした。ここに何かあると知って探さねば分からぬでしょう。
「今すぐにどうすべきかは思いつかないわ。父さまもまだ急かしはしないでしょうから、できることからやりましょう」
まずはかぐや姫を尋ねなければならない。かぐや姫を月に帰せれば、父さまも納得するかもしれないのだから。
唐松を下がらせると、部屋の灯りを消した。
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