弘徽殿にて 6

 従兄にいさまはいつも参議のあと、ふらりと顔を出す。それだから今日も、特別の用事があって来たのではないと思っていた。


 緋色の束帯がようやく見慣れたと軽口を叩こうとしたときのこと。普段よりも声が固い気がしてふと顔を見ると、垂れた目が笑っていなかった。


 おかしいわ。


「皇后さまへご挨拶に参りました」


 そう言って平伏す従兄さまの口調は、やはり固い。異変には気づいても、心当たりがないので切り出し方もわからない。


「今日も来てくれたのですね」


 知らぬふりして変わらぬ言葉で返すと、従兄さまは少し口ごもってから低い声で告げる。


「人払いをお願いいたします」


 大柄な従兄さまに低い声で告げられ、女房たちは顔を見合わせて怯えたようにひそりと私にお伺いを立てる。


「追風の君がこのように申しておりますが、いかがなさいましょう。このような時期ですし、お引き取りいただいてもよろしいかと」


 先日の中宮さまと梨壺を招いての話し合いを指している。今は主上を現に戻すための策で内裏は持ちきりだ。女房たちは后が揃って内裏を抜け出すことになったため、殺気立っている。


「いいえ、身内なのだから心配ないわ。呼ぶまで皆下がっていなさい」


 そう告げると、女房たちは「何かあればすぐに参ります」と言い残して、さらさらと衣擦れの音を立て去っていった。


「皆、下がりました」


 女房がひとり残らず去ったことを確認すると、従兄さまの緊張はより増した。静かに深く息を吐くと、胸から文を取り出す。


 簡素な文は折りたたまれて糸が巻かれただけで、何の装飾もない。女房を皆出してしまったので、自ら進み出て文を受け取る。


 そっと差し出された文を受け取った間に、従兄さまの香が匂って胸がざわつく。


 なんでもない。


 そう言い聞かせて、さっさと元の畳に戻り脇息に身を落ち着けた。


 文は香もしたためられておらず、誰からともわからない。ただの文にしてはやや紐が厳重に巻かれている。文を開けずにしげしげと眺めていると、従兄さまがやっと口を開いた。


大臣おとどさまからお預かり致しました」

「父さまから?」


 嫌な予感しかしない。今この文を持っていることすら恐ろしく感じるけれども、読まないわけにもいかない。こわごわと、幾重にも巻かれた紐をほどいてゆっくりと文を開く。紙とともに墨の香りが広がった。


 見慣れた父さまの字が、濃い墨で短く内容を告げる。


 ぼとり、と麻布にくるまれた何かが床に落ちた。


 私はそれを拾えずに、離れて向かいに座っている従兄さまに問いかけた。


「従兄さまはこれが、何か、内容までご存知なのね」


 従兄さまは静かに頷く。


 麻布を拾うと、中には紙に包まれた茶色い粉末が入っていた。


 附子だ。


「帝に毒を盛る、という内容だと伺っております」

「そんな馬鹿なことを、私が」


 できるわけがないじゃない。声を震わせないようにするのが精一杯だった。今、私の口はわなわなとみっともなく震えているのに、文を持った手が動かず、扇で隠すこともできない。


 父さまの文には短く、この粉末を帝に盛れと書かれていた。これだけの量だから、一度にすべてを盛れなくても数度に渡って水に混ぜれば結果は出るでしょう。


 あくまでも、娘にその役目をさせるつもりなのね。


 他の者ではなく、私にさせるのが確実だと考えているのだわ。確かに、誰かを雇って主上を毒殺したあと、口封じをするのでは手間がかかる。


 己がつくづく父さまの道具でしかないのだと思い知らされる。


 そして、眼の前にいるこの男は、権力のために父さまの手駒となることを選んだのだと察した。後に栄光があると信じて利用されることに甘んじたのね。


 女房を全員下がらせてよかった。こんなことを知られたら、私の同意の有無に関わらず、一夜にして内裏から締め出されてしまう。


 なんと言っていいのかわからないし、従兄さまが何を考えているのかもわからなかった。もう従兄さまは味方ではなくなってしまったという虚しさだけを感じる。


 互いに何も言えず、静かに時が過ぎた。


「皇后さまのお立場が難しいことは理解しております。しかしながら、この状況です。内政は益々厳しくなっております」


 下がっている女房たちに聞き取られぬよう、従兄さまは低く声をひそめて話す。それがまるで地を這うように聞こえた。


「政も儀式も、厳しいことは充分わかっておりますが」

「ならば、どうかお力をお貸しください。私も皇后さまのお力になります」

「従兄さま、お待ちを。ご自分が何を申しているか、お分かりなの?」

「もちろんでございます。国が滅ぶのだけは、何としてでも避けねばなりませぬ。皇后さまが戸惑うお気持ちもお察しいたしますが、失礼ながら、主上との間に親愛の情はないと伺っております」


 従兄さまの言葉に、ひくりと自分の頬が動くのを感じた。


 それを、貴方が口にするなんて。


「情がなければ殺していい道理などありませぬ」


 文を眼の前に投げ、厳しく言い放った。私の態度に従兄さまは身を固くして黙っている。まさか私が、あの父さまの命令に異を唱えるなど思わなかったのでしょう。


「貴方は私に、帝殺しになれと申しているのですよ」


 怒りに、わずかに語尾がふるえ顔がかっとするのを感じた。


 こんな薄情な人にずっと心を寄せていたなんて。己の愚かさに、打ちふるえるのはもう何度目か。


 まっすぐに目を合わせると、従兄さまはひどく狼狽えた。


「父さまには、文は受け取ったと伝えなさい」

「し、しかし」

「話は以上です。下がりなさい」

「皇后さま!」


 焦った従兄さまは、諦め悪く食い下がる。このまま引いては、邸で父さまに何と言われるか想像するのも容易い。


「追風の君がお帰りよ。皆いらっしゃい」


 声を張り上げて言うと、女房たちが戻るよりも早く従兄さまは逃げるように去った。私はそれに合わせて、さっと床に放り投げた文を拾い上げ、懐にしまった。


 これは誰にも知られてはならない。

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