中宮 1

「主上があんなに腑抜けだなんて、思いもいたしませんでした」


 お部屋で皇后さまと碁盤をはさんで向かい合う。先程の主上とのやり取りを思い出してもはらわたが煮えくりかえる。

 なんということでしょう!


 皇后さまは静かに笑っていらっしゃっる。本当に皇后の鑑のよう。お優しくて控えめな方。皇后であることがもったいと感じるのは、夫が従兄上あにうえであるからに違いない。たとえば同じ従兄上でも宵宮さまであったなら、こうは思わないのに。


「主上はご自身のお立場をなんと心得るのでしょう。同じ方から皇族の血の何たるかを学んだとは思えません」

「中宮さまのお父上はとても素晴らしい方でしたから。お父上と比べるのは酷ですよ」


 皇后さまは碁石を片手で弄びながら、ふふっと小さく笑った。薄花色の小袿の下に白撫子の襲が透けているのが上品でお美しい。


 静かでいて芯の強いものをお持ちの方。きっと私と同じように心の内に炎をしまっていらっしゃる。


「恋というものは、かくも愚かなものなのでしょうか」


 己の義務をなげうち、身勝手な振る舞いをしながら己の身の不幸を嘆くような、そんなことが平気でできるようになってしまうものなのかしら。梨壺さまという愛し合う者がいたというのに、当然のように他の姫に愛を囁やけるものなのか。


「梨壺とのことはわかりませんが、恋とは時に人を驚くほど愚かにするのは確かでしょう」

「私には理解できません」

「中宮さまは入内のために、早くに裳着をお済ませになってこちらにいらっしゃいましたから。どなたかと恋に落ちる暇がございませんでしたもの、無理はありません」

「皇后さまは恋のいろはを、ご存知なのですね」

「それは、どうでしょうか」


 皇后さまの表情は扇の内にあって読めないけれど、返答は歯切れが悪い。皇后さまは、どなたかに恋されたことがあるのだわ。


 かちり、と音をたてて碁盤の上に黒い碁石が載せられた。


「次は中宮さまの番ですね」


 私の知らない、恋。


「その恋は、入内によって引き裂かれてしまったのですか」

「ふふ、中宮さまは私が主上と恋に落ちたとはお考えにならないのですね」


 皇后さまはおかしいのか、うつむいて肩を震わせていらっしゃる。主上と恋に落ちることなんて、あるかしら。


「主上に恋されていたのですか」

「いいえ、しておりません。主上との関係は私達が出会ったときからずっと、変わっておりません」


 笑いが落ち着いたのか、静かな声音でそうお答えになった。


「そして私の恋も、主上とは関係がなかったのです。私が入内しなくても、恋が実ることはありませんでした」


 寂しげなお顔の皇后さまを初めて見た。私が何か言う前に、皇后さまがすっとご自分の扇で盤上の一角を指す。


「中宮さま、次にこの石を取らねば、この一帯はもう私の地になってしまいます。よくお考えあそばせ」

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