梨壺 3
そっと顔を上げると、やつれた主上の顔が暗闇に浮いていた。
「梨壺、よく来た」
元から血色の良いお方ではなかったけれど、今はまるで亡霊のようだわ。
光の差さない室内で、目の下に濃い隈をつくり乱れた御髪のまま気だるそうに鎮座する。
そのお姿に胸の奥がぎゅっと縮んだ。心の優しい方だから、あの女のことも我がことのように思っていらっしゃるのね。
「主上、お加減はいかがですか」
「見ての通りだよ。私は無力だから、誰に何をしてやることもできない。この国で一番の地位にあるというのに、何一つ思い通りにはならない」
主上は頭を掻き回した。さらに髪が乱れて、顔の前に数束垂れて影を落とす。
いつも見ていた、穏やかに微笑む主上はいない。
仄暗い執着の炎を瞳の奥に宿して、私を映さない。どれほど着飾っても、お好きだった香を炊きしめても、もう褒めてはくれない。
あの女が現れてから主上は変わってしまった。あの女のせいで、主上はどんどんおかしくなっていく。本当はこんなことをする方じゃないのに。
今では皆が物怪付きだと噂している。そうじゃない。違うの、と声を大にして言いたい。ただ、自分に正直になっているだけなのよと。
でも、そんなこと口が裂けても言えないわ。主上が私以外を愛しているなんて認めてしまったら、私の心が壊れてしまう。
それじゃあ、主上をお救いすることはできない。
この方がふたたび笑顔でいられるように。他の誰でもない、この私が笑顔にして差し上げるのよ。
「そなたが来る前に、皇后が中宮を連れて来たんだ」
独り言のようなささやき声でお話になる。もうお声も出せないのね。許される限りの距離にまで寄って、声を拾う。
「皇后と中宮だなんて二人がやってきたら、さすがに会わないわけにはいかない。会ってみたら、案の定、叱られたよ。政務を疎かにしてはならない、かぐや姫に近衛府を使うのは許されない、とね」
あのお二人は、話し合った通りのことを実行したらしい。何を考えているかわからないお飾りの皇后と、まだ幼い箱入りの中宮さまだと思っていたのに、大胆なことをなさるのね。
「二人が言うことはもっともだ。朝議への出席は義務であるし、近衛府は帝の一存で好きに動かしていいものではない。けれど、貴族たちの、あの左大臣の言いなりになって、ただここに座っているだけで私は生きていると言えるか」
「私と笑っていらっしゃっるときは、生きていらっしゃるように見えましたわ」
「今は、そうは思えぬ」
冬の薄氷が割れるように、私の心に亀裂が入る音が聞こえた。そんなことには少しも気づかずに、主上はさらに言葉を続ける。
「愛おしい者のために何もできない腑抜けでいるのは許せない。私ができることは、何としてでも成したい。月に帰りたくないと言うのなら、私が月からの迎えとやらを追い払って守ってやりたい」
声は静かなのに、とても重い。
「己が無力のままなのは、もう嫌なんだ。すべてとは言わない。せめて、この手で抱えられるくらいのものは思うようにしたい」
主上は力なくまぶたを下ろした。その肩をそっと抱きしめて差し上げる。
「左様でございますか」
その思いは、私に打ち明けるべきではなかった。
主上のためなら、どのようなことでもする覚悟で更衣となった。けれど、その願いだけは叶えて差し上げられない。
今、このときから、私は主上の願いを打ち砕くために動く。
すべては、主上の笑顔のために。
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