梨壺 2

 唐松から文を受け取ると、ほのかに安息香の香りがした。


「梨壺らしい香ね」

「お部屋も甘い香でひしめいておりました」


 文をもらいに行った唐松は、自分からも香っているのではないかと袖を鼻に近づけて確かめている。


「私に対する当てつけなのよ」

「香が、でございますか」


 唐松は、はて、というように首をかしげる。

 本当にわからないのね。私に対して盲目的なところがあるのが、唐松の唯一の欠点でしょう。


「私に可愛げがないと言いたいのよ」

「まあ!」


 唐松は大きな声を出して眉を吊り上げる。まったく、美人がなんという顔をするのかしら。


「皇后さまに対してなんと不敬なこと。いつになったらご自身の立場というものがお分かりになるのでしょう!」

「唐松、あなたがそんな大きな声を出したら示しがつかないでしょう。いつまでも梨壺のことで怒らなくてもいいのよ」


 梨壺が言いたいことも少しは分からなくもない。


 低い身分から入内し、主上の寵愛を笠に着た振る舞いのためにみなから誤解されているけれど、梨壺は権力のために主上に取り入ったのではない。

 更衣として主上のそばに仕えている間に互いに惹かれ合ったのだ。梨壺からも主上に並々ならぬ愛を返している。そこまで深く愛し合っていても、地位が低ければ後回しにされることが常だ。


 想い合っている自分が会えないのに、互いに興味を持っていない人間が好いた相手といるのだから気に食わないのでしょう。

 そこまで私が悟っていても、立場を代わることはできないのだから、知らぬふりして黙っているしかない。


 手にした文を広げると、さらに香が広がる。

 本人の見た目に反して力強い筆跡で、伺いますとの内容が短く綴られていた。


「芯の太い字ね」


 唐松に見せながら手渡す。ちらとだけ見て、唐松はすぐに眉根を寄せる。


 「品がのうございます」


 文の筆跡にも厳しい唐松は、それでも丁寧に文をたたんで片付けた。


 御簾の外から衣擦れの音がして、女房が近づいてくる。


「皇后さま、中宮さまがお渡りでございます」

「こちらへお通しなさい」


 そう答えると、少ししてから幼さの残る高い声が届いた。


「皇后さま、春日かすがでございます」

「よくいらっしゃいました。中宮さま、かしこまらずにお入りください」

「はい」


 そうして入ってきた中宮さまは瑞々しい若葉のような容姿の方だ。夏らしい、薄く透けた小袿が爽やかで中宮さまらしい。


「こちらに伺うのは久しぶりでしたので、少し緊張してしまいます」


 はにかみながら扇を広げる姿は、すっかり大人のそれで感心する。


 「あまりお気遣いできず申し訳ございません。中宮さまはお変わりなくお過ごしでしたか」

「私は何も変わりありません。ですが、この幾月かでさらに主上のご様子はお変わりですね」


 真剣なまなざしは、さきの上皇さまの面影が濃い。仁君との呼び声が高かった上皇さまの最後の姫である。お歳を召してからの姫で、ひときわ可愛がっておられたことは都では有名だ。

 上皇さまに似て思慮深い方だから、いまの主上と朝廷の様子にさぞ心を痛めていらっしゃるのでしょう。


「主上は日がな一日夜殿におわします。御簾も蔀も閉じたまま、日の光も浴びずに伏せっておいでなのです。このままでは、宮中の雰囲気は悪くなる一方でしょう」

「せめてもう少し、主上と心を通わせられたらよいのですけれど。今の私では、まだ子どもと取り合っていただけませんし」


 中宮さまのお耳にも細かに伝わっているのでしょう。

 中宮さまは暗い表情でため息をこぼす。


「皇后さま、昭陽舎さまがお見えになりました」


 女房の声に中宮さまはさっと顔を上げて振り返った。私も声の方へ視線を移すと、廂の奥から梨壺が現れた。


 薔薇の襲に濃紅の小袿を着ている。黄はだ色の向かい蝶丸文が小袿に映えるけれど、唐松からまた「くどい」とお小言が出そうな出で立ちだ。

 そんな華美な装いもしっくりとくるのだから、梨壺という人は元より華やかなのでしょう。


「遅くなり申し訳ございません」


 しおらしく頭を下げる梨壺に、控えていた女房たちも頭を下げて挨拶をする。唐松は頭こそ下げているものの、言いたいことが山ほどありそうな顔をしている。


「面を上げなさい。中宮さまも今いらっしゃったところです。気にすることはありません」

「そうですよ。梨壺、久しいですね」


 中宮さまが続いて声をかけると、梨壺は身を起こしてほほえんだ。


「長らくご挨拶を申し上げられませんでしたので、本日はお会いできて嬉しゅうございます。お見かけいたしませぬ間にますますお美しくおなりですのね。若苗の襲に刈安色の小袿が映えますのに、このお部屋では少しもったいのうございますね」


 そう言うと梨壺はちらりとこちらを見た。


「殿方もいらっしゃらないというのに、いいお天気のなかすべての御簾を下ろして薄暗くしてしまうなんて気が病んでしまいますわ」


 唐松の扇がかちりと小さな音を立てるのが聞こえた。

 唐松が先になにか言う前に口を開く。


「今日は日差しが暑いから下ろしていたのよ」

「そのような色をお召しになっていらっしゃるのでつい、皇后さまも主上のように気を塞いでおいでなのかと思いましたわ」


 梨壺は扇を顔まで持ち上げ目を細める。

 私の濡れ羽色の小袿のことだ。主上に相手にされないことの表れか、とききたいのでしょう。たしかに同じことを他の女房にも囁かれてはいた。


「私の衣と主上のお気持ちは関係ありません。皆が良ければ御簾を上げましょう」


 部屋を見渡すと女房たちは、すっと視線を畳に下げる。唐松だけは私と視線を合わせて、小さく頷いた。上げずともよい、と目で訴えかけている。


 中宮さまは困ったように微笑んでいらっしゃる。まだ幼いこの方に気を遣わせてしまった。皇后としての器でないと言われても文句は言えない。


「では、御簾を上げてちょうだい」


 一番後ろに控えていた女房が二人、立ち上がって御簾を端から上げていく。

 部屋の中に真っ直ぐに光が差し込んだ。薄暗い部屋に慣れていた目が一瞬眩んで、皆が扇で己の顔を額まで覆った。


 目が慣れて最初に視界に入ったのは、光り輝く中宮さま。

 なんとお美しいのでしょう。

 なめらかな髪が光を受けてしっとりと輝いている。玉のような肌が朝露に濡れたように瑞々しい。


 これが、日の中宮なのね。


 おそらく、この部屋にいる誰もが今、中宮さまを見つめている。もっとも尊い血筋のお方。誰よりも皇后にふさわしい存在。そう感じているはず。誰よりも私がそれをわかっている。


「皇后さま」


 となりから唐松にそっと声をかけられてはっとした。今は自分のことに浸っているときではないわ。


「それでは、ここに来ていただいた話の本題に入りましょう」


 中宮さまと梨壺の表情が引き締まる。


「主上がいま、身分のない娘を姫と呼び恋慕っていることは充分に存じているでしょう。近頃ではさらにその思いが募っていらっしゃるということも耳にしていますね?」


 そう訊くと、頷く中宮さまの少し後ろで梨壺はむすっとした表情で視線を反らした。


「その娘は、自らを月から来たと申しており、もうすぐ月から迎えがくるので帰らねばならないのだそうです」

「そんなの、その女の気が触れているのよ。本当なわけないわ!」


 苛立った声音で梨壺が言う。かぐや姫の話題となると、途端に苛立ちを見せる。隠そうという気もない様子。


「本当だと主上は信じていらっしゃるのよ。その証拠に今日の朝議で主上は、かぐや姫のために近衛府の兵をすべて動員して月からの使者を退けかぐや姫を守る、と宣言されました」


 ばさり、と音がして中宮さまが扇を手元から落とし、勢いよくお立ちになった。突然のことに皆が驚いて言葉も出ない。


 中宮さまは裾を握りしめたまま、頬を朱に染めて口を開く。


「そんなくだらぬことのために、近衛府を使うなど許されません」


 予想以上に硬い声だった。落とした扇を拾うこともせずに、まっすぐに私を見つめていらっしゃる。


「帝とはすべての民を導く存在です。私利私欲のために重要な兵を使うなど許されません」

「中宮さまのおっしゃる通りです」

「それだけではございません。かねてより主上の、皇后さまや梨壺への態度にも物申したいと思っておりました。帝は一人でなるものではありません。後ろ盾となってくれる妻の存在無くして帝の権力はないのです。政のための婚姻であるというのに、その相手に対する礼儀や配慮に欠けております」


 一息で吐き出すように、早口で言い切った。普段のたおやかなご様子から一変した激しいお姿に、場にいる皆が圧倒されている。

 そのなかで中宮さま付きの女房燈子とうこだけが落ち着いて中宮さまを諌める。


「中宮さま、皇后さまの御前ですよ。お控えくださいませ」

「けれども、こんなひどいこと、許してはいけないことよ。権力があるからといって、すべてが許されるなんてことはないのですから」

「中宮さま、落ち着いてくださいませ」


 何とか中宮さまを座らせようと、燈子は中宮さまの腕にそっと手を置く。主が取り乱しても、優秀な女房は己を見失わない。


 この部屋に入ってきたときから私に対しての敵意を見せていた梨壺は、自分よりも憤る姿を見せた中宮さまにすっかりと毒気を抜かれた様子。

 かろうじて扇で口元は隠しているものの、目は丸く見開かれている。


「私もおおむね中宮さまと同じ考えです」


 私が頷いてみせると、ようやく中宮さまは腰を下ろした。まだ少し頬に赤みが差していらっしゃるし、心做しか息も上がっているよう。


 初めてお会いしてから一年しか経っていないのだから、知らない一面があるのも当然のことね。


 驚いた素振りを出さないように気をつけながら、そっと中宮さまの扇を拾って手渡した。


「も、申し訳ございませんでした」


 扇を受け取って我に返ったらしい中宮さまが、今度は羞恥に顔を鬼灯のように染めていらっしゃる。

 可愛らしく思って思わず笑ってしまったら、慌てて扇で顔を覆ってしまわれた。まだ、姫らしい一面も残っていらっしゃるわね。


「中宮さまがおっしゃる理屈とは異なりますけれど、私もあの女のためにこれ以上主上が何かなさるのは反対いたします」


 梨壺が口を開いた。


「あの女が主上の御前に現れてから、主上は少しもお声を聞いてくださらなくなりました。あの女に関する話ばかり、それ以外のことは少しも受け入れてくださいません。私の話だけではなく、他の貴族の皆さまの話も聞き入れていただけないと聞いております。この状況は異常ですわ」


「梨壺の言うとおりです。

 人が変わったように強情になられて、政務も立ち行かないとのこと。朝議の度に言い争いが起きて、貴族たちからは不満が湧き上がっています。

 このままにしていては、いつ京で貴族による戦が起こってもおかしくはありません」


 女房たちの息を呑む音が響いた。


 脅しではない。今の宮中は混乱の最中にある。今までは大人しく、貴族たちの、ことさら父上の言うことを聞き傀儡のようだった主上が突然、強烈な自我を芽生えさせたのだから誰もが驚くというもの。


 主上の自我の芽生えによって、朝廷は貴族同士の拮抗が崩れようとしている。この混乱に乗じて父上を引きずり落とそうとする者がいるのだ。


 何よりも、父上の怒りが今にも頂点に達してしまう。そうなれば、誰も手を付けられまい。


「主上には思いとどまっていただかねばなりません。けれども、情けないことに私一人ではもはや主上に会っていただくことすら難しいのです。そのために貴女たちを呼びました」


 そう言って二人を見据えると、どちらも難しい顔をしていた。今となっては、私だけではなく、すべての者が拒絶されているのね。


「まずは、会ってお話を聴いていただかねばなりません」

「私も同じく、お話を聴いていただけるご様子ではありません」

「中宮さまも難しいとおっしゃるのですね」


 まだ幼い中宮さまなら、と思っていたけれど主上は中宮さまのことも拒んでおられるのね。


 梨壺に視線を移すと、目が合うがすぐにそらされた。


「梨壺はどうかしら」

「私はたとえ主上に話を聴いていただけたとしても、そんなこと申せませんわ」


 硬い表情でそう答える。


「そんな、そんなことを私から申し上げたら、本当に私があの女に負けてひがんでいるように思われてしまいますもの。お断りいたします」


 梨壺の冷え冷えとした声が響く。

 主上からどう思われるかを誰よりも気にしている人だ。素性の知れぬ無位の姫に負けたと思われるのは、何より自分の矜持が許さないのでしょう。


 きっとここでどんなに話し合っても、梨壺は首を縦には振らない。


 困ったわ。梨壺がこの中で一番可能性が高かったのに。中宮さまも私と同じことを思っていらっしゃるのか、気遣わしげに梨壺をご覧になっている。


「皇后さま、一人では難しくても、二人でならどうでしょう」

「二人で、ですか」

「はい。二人でなら、主上も無碍にはなさらないのでは。皇后と中宮が共に訪ねてくるなどなかなかないことですし」


 中宮さまのおっしゃる通り、皇后と中宮という立場の妻が同時に主上の部屋に現れることはまずない。いかに主上であろうとも、軽くあしらうようなことはなされまい。


「そうかもしれません。それでは私と共に、主上のもとへ行っていただけますか」

「もちろん、お供させていただきます」


 にっこりと笑うお姿は、年相応の可愛らしさがあって微笑ましい。中宮さまを見つめる女房たちも、ほっと表情をやわらげた。


 尊い御身でいらっしゃるのに、こうして慕っていただけることに感謝する。こんなにご立派な心根の方は、なかなかいらっしゃらない。


 梨壺は目を伏せ黙ったまま。


「無理にとは言わないわ。貴女も此度の件について、主上にお考え直しいただくよう申し上げてみて。貴女の場合は、一人でお会いしたほうが御心を開いていただけそうね」


 そう言えば、梨壺は無言で頭を下げた。

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