梨壺 1

 この方はまこと後宮に上がるための教養が足りていない。

 良いのは見た目くらいのもの。この部屋に漂う香などまさにその最たるものだわ。


 梨壺さまはいつも甘ったるい香を炊きしめている。自分の容姿によく似た香だ。きっと本当に好きな香ではなく、それらしく見せるために敢えて選んでいるのでしょう。


「皇后さまが私をお呼びですって?」

「左様でございます」


 頭を下げながら、なるべく息を吸わなくて済むよう浅い呼吸を繰り返す。


 可憐でたおやかな姫に見えるように。


 梨壺さまの印象作りは徹底されている。この国の誰よりも庇護されてお育ちになった主上が、守ってやらねば、と意気込むほど儚い姫を演じていらっしゃる。


 実際はしたたかな人であり、女房の内にはそのさまから女狐などとはしたない言葉で呼ぶ者もいる。たしかに少し前まではこの梨壺さまが国を傾ける姫であったけれど。


 ところがどうでしょう。いまでは謎の里娘が主上の御意を掴みはげしく燃え盛らせている。


 ただの噂と気にされずに過ごしていた梨壺さまも、主上がお呼びにならなくなると苛立ちを見せるようになった。

 梨壺さまといらっしゃる間も、謎めいた姫の話ばかりされるのだとか。


 さすがに少し気の毒ではあるけれど、それとこれとは話が違う。


「胸が苦しいから行けないと言ってちょうだい」

「それはいたしかねます。皇后さまに仮病を使うおつもりですか」

「だって会いたくないんだもの。堅苦しい人と話すのは苦手なのよ」


 まったく、なんてことを言うのかしら。

 なにかある度にこのような我儘を言うのだから。いつまでも屋敷の姫でいるつもりなのね。


 ここは後宮なのだから、それ相応の礼節はそろそろ学んでいただきたい。

 とくに皇后さまに対する態度は、主上の寵愛がなければ不敬としてすぐに内裏から降ろされているはず。


「梨壺さまもそろそろ内裏の礼節を学んでください」

「公の場ではしてるじゃない」

「内裏では常に、でございます」

「あなたも主に似て堅いわね」


 鬱陶しそうに息をつくさまも百日紅のような華やかさだ。いつまでも無邪気な姫のような雰囲気をまとっている。


 皇后さまから、もしも来るのをしぶるようならこう伝えるように、と言い遣っている。


「かぐや姫についてお話がある、と言伝っております」


 目つきが変わった。


 華やかな空気から一変して、凍てつく冬の氷柱のような厳しい視線で私を見据える。梨壺さまの後ろに控えている女房の兄子さきこが緊張した面持ちで主を見ていた。


「一体、どんなお話があるというのかしら。あの女のことで聞きたいことなんて、ひとつもないわ」


 梨壺さまは乾いた声で吐き捨てた。そのままつんと顔を反らして、御簾の外に目をやっている。


「内容まではお預かりしておりません。ですが、一刻を争うとのこと。中宮さまにも同じようにお声がけしております」

「中宮さまにも?」


 梨壺さまは眉をひそめた。

 戸惑っていらっしゃるわ。更衣である梨壺さまが中宮さまと同時に呼ばれるなんて、普段はないことだから。


 私もおなじ気持ちだったけれど、なんとかしなければと皇后さまが焦るお気持ちは理解する。今の主上をこのままにしていたら、いまにも国が滅んでしまいそうですもの。


「いいでしょう。中宮さまもいらっしゃるのに、私が行かなければ中宮さまに失礼ですからね」

「皇后さまに対して何より失礼でいらっしゃいます」


 私の言葉など聞こえなかったように、近くにある文箱から紙を選んでいる。


 まるで身分違いだというのに、梨壺さまは皇后さまに対して強い嫉妬心を抱いている。

 自分が皇后の立場であれば、より主上のご寵愛があるとお考えのよう。すでに身に余るほどの愛を受けているというのに、強欲な方だ。


 皇后さまと主上のご関係をご存知であるのに、なぜここまで強く心の内をさらすのかしら。


「これでいいわね」


 梨壺さまは書いた文を折りたたむと兄子に手渡した。神妙な面持ちの兄子は、受け取ったそのままの手で私のもとまで文を運んでくる。その様子に、まだ若い兄子に梨壺さま付きの女房がうまく務まっているのか心配になってきた。


「唐松さま、こちらを」

「ありがとう」


 わずかながら励ましの気持ちを込めて兄子に微笑んでも、兄子はかしこまって頭を下げたまま梨壺さまの後ろに戻っていく。ますます心配になる。


「たしかにお預かりいたしました。お待ちしております」


 この部屋の香を嗅いでいるのも限界になってきた。急ぎの用事であることを見せるようにさっと立ち上がりそそくさと御簾から這い出て、外の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

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