弘徽殿にて 2
「唐松、わかっているわね」
「どの御殿の方をお呼びいたしましょうか」
宵宮さまが去ったあと、残された私が考えることは如何にして主上に掛け合うか。
私では門前払いになるでしょうから、代わりに清涼殿へ向かう妃を選ばねば。選ぶと言っても妃はほかに二人しかいないのだけれども。
「梨壺をとも思ったけれど、順序を考えるならば中宮さまの方が先ね」
梨壺は私達の中で最も主上に会える可能性が高いけれども、身分は最も低い。同じ話をするため参じるのが私でないのなら、まずは中宮を立てるのが常というもの。
「いいえ、やはり面倒だからどちらもここへ呼んでしまって」
いま考えるべきことに比べたら、妃の序列など些末なこと。
中宮さまはとてもお若いけれど、物事の道理をわきまえている方だから、小さなことで波風を立てるような騒ぎは起こさないでしょう。
「よいのでしょうか」
物分りの良い唐松は心配そうに袖で口元を隠す。
「あのお人柄なら心配ないでしょう。お若いのに立派な方よ。やはり日の中宮さまね」
「皇后さま、他の者も聞いております」
また唐松のお小言が始まった。
後宮一の美人と歌われているのに、乳母のように私に言募る。
「誰が聞いていたってかまわないでしょう。他所で皆が口を揃えてそう呼んでいるのだし」
「皇后さまがそうお呼びになれば、嘘が真になってしまいます」
「私が月であると?」
「皇后さま!」
唐松が目を吊り上げる。
仕方がないじゃない。
天皇の血を引く正当な姫の方が、権力ばかりが強い私よりもずっと皇后にふさわしい。まだお若いから子を授かるには数年かかるけれども、それでも皇子をお産みになれば間違いなく東宮の座は中宮さまの子に移るでしょう。お人柄も朗らかだし、春日姫の名に優る方。
「ほら、早く誰かに呼びに行かせなさい。あまり日がないのだから、急がないと」
唐松を急っついて部屋から追い出す。唐松はぶつぶつと文句を垂れながらも、優秀な女房らしく長い袴を素早くさばいて立ち去った。
外に控えている女房の気配を感じつつも、いまこの場に一人になれたことに安堵した。後宮とはかくも孤独なものなのか。
そう思ったところで、実家でも大差なかったことを思い出す。
左大臣家待望の姫だった。
四人いる妻の誰からも娘が産まれず、私には兄ばかりが五人いる。左大臣家の呪いとまで噂され、母上が私を出産するときには皇后の出産のごとく陰陽師が国中から集められたのだという。
私が姫だとわかった瞬間に、父上は朝廷で私を入内させると宣言したらしい。
無事に育つとも知れぬ娘の入内を産まれたその日に宣言するなんて、父上にも公家としての意地があったのでしょう。
結局、私のあとに弟も妹も無事には産まれず、呪いを破った末の姫として有名になった。
入内宣言があったものだから、家の中だけでなく外にまでそれとして幼い頃から扱われる日々を過ごした。
つつがなく入内し、数年で若宮を産み皇后となった頃、突然中宮さま擁立の話が流れた。
お年を召した上皇さまの最後の姫君で、特別にかわいがっていらっしゃるとか。遺していく姫を哀れに思い入内させたいとの強いお望みに、左大臣一族に反対する派閥からの強い後押しがあり、数年ごしに中宮さまが入内された。
本当ならまだ姫としての時代をゆっくりと謳歌されるはずのお年であるのに、上皇さまの命の灯火が消える前にと急いで裳着を済ませて入内されたのがお気の毒だ。
中宮さまはそのお美しさ、正当な系譜、朗らかなお人柄から天皇家派閥だけではなく後宮の人々から支持されている。本来なら中宮さまが皇后となるはずの身分の方だ。
いつしか私と中宮さまを並べて、「月の皇后、日の中宮」という言葉が囁かれるようになっていた。
その言葉には、単に中宮さまの正当性を示すだけでなく、容姿や私が主上から疎まれていること、実家の権力を揶揄する意味も込められている。
父上は当然のごとく激怒した。けれども、こればかりは怒っても仕方がない。
どれ一つとっても事実なのだから。
私だって、中宮さまがふさわしいと思っている。私が皇后になったのは、私が中宮さまよりもずっと先に産まれたから、それだけ。
「月とは言うけれど、私はきっと新月ね」
一人でぼやきながら、唐松の戻りが少し遅いことを願った。
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