第2話
夏も終わって、辺りは秋色に染まり始めた。窓の外には気の早い落ち葉が姿を現し、幾何学模様のタイルの上を舞っているのが見えた。
季節は変わっても僕らは相変わらず隣同士で、川瀬に彼氏がいるからといって話さなくなるわけではなかった。新商品を試した話や好きなバンドの新譜の話をしたし、川瀬だっていままでどおり、キャンディーをくれた。
僕たちはクラスメイトで、隣の席。
その関係は変わっていない。僕がほんのりと「どんな人なんだろう」と、川瀬の彼氏を心のどこかで気にする以外は。
ふと「彼氏ができた」という報告以外に、川瀬の口から彼氏の話を聞いたことがないのに気づいた。
「そういえば、彼氏とはどうなの?」
言ったあと、おじさんみたいじゃないか? 思ったけど、漫画を読んでいる川瀬から返事はない。
「川瀬?」
体調でも悪いんだろうか。様子を伺ってみると、漫画なんて読んでいなかった。川瀬の目線は漫画よりずっと先にある床の木目に向いていて、唇は固く結ばれたままだった。
そんな姿を見ていたら声をかけられず、なにも言えないまま次の授業を告げるベルが鳴った。
「実は、さ。別れたんだ、彼氏と」
次の休み時間が始まって早々、机に教科書をしまいながら川瀬が言った。
「結構前の話なんだけど……ほら、宮田くんと彼氏の話ってしたことなかったじゃない? だから、言う必要もないかな……って思っちゃって」
たはは、という声で笑ったあと、声は続く。
「それに、ダイキくん……いまとなっては元カレの名前なんだけど。宮田くんも『大輝くん』でしょ? なんかアイツの話題出すと、イライラして当たっちゃいそうで……全然関係ないのに、ごめんね」
これは川瀬の優しさだ。僕はそれを嬉しく思った。でもそれより、悲しいという気持ちが強かった。
もしも、もしも。僕が「隣の席の男子」じゃなくて「女友達」であったなら、川瀬とはもっといろんな話ができたんじゃないか。それこそ恋愛の相談だって。
どうしようもないことだけど、悔しくてたまらなかった。
いつもと同じ休み時間が、なんだか長く感じる。川瀬とのあいだにも妙な空気が漂っていた。
「あ、そうだ。これ今日買った新商品。秋限定の『モンブランポテチ』だって。食べてみようよ」
バッグから取り出したポテチの袋をバリッと開けて、隣の席へ差し出した。川瀬はきょとんとしたあと微笑んで、「いただきます」と細い指で薄いポテチをつまみ上げる。
「ポテチって、凄いんだよ。僕だけかもしれないけど、食べると幸せな気分になってさ。で、これなんかモンブラン要素もあって……食べたら、何倍も幸せになれる気がするんだよね」
うんうんと頷きながら言ったものの、川瀬からリアクションはない。少し間を置いてから、「これは、ないね」いうジャッジだけが返ってきた。
「はい、これ。お礼」
指先の油を拭き取ったハンカチをポケットにしまうと、その指がキャンディーの包みを机に置く。
「ヨーロッパのバラのキャンディーだって。花びらのジャムが入ってて……」
口をつぐんだ川瀬は、ちょっとだけうつむいたあと続ける。
「ありがと、ね。さっきのポテチの話、励ましてくれた……んだよね?」
「いや……そういうわけじゃ、ないんだけど……」
雰囲気で口にしたとは言えないでいると、小さな声が耳に届いた。
「きらくんが、彼氏だったらよかったのに」
かすかな、かすかな声だった。
「きらくんって……?」
僕が尋ねると、ベルが鳴った。そしてすぐに先生がやってきて、授業が始まった。
そのあとの授業は全然集中できなかった。
話の流れから「きらくん」が僕だったら……彼氏になんて、なれない。僕は川瀬の彼氏にはふさわしくない。だって、僕は……。
モヤモヤした気持ちを吹き飛ばそうと、板書している先生の背中を見ながらキャンディーを頬張った。
口のなかがバラの香りでいっぱいになり、体温で溶けた甘さが伝わってくる。まるで女の子みたいだ。川瀬みたいな、可愛くて、理想的な。
授業中にこっそり食べた罪悪感と、どうしようもない気持ち。そしてキャンディーの甘さがひとつになって、泣きたい気持ちをぐっと我慢しながら授業を終えた。
結局あれっきり、川瀬と「きらくん」について話すことはなかった。いつもどおり会話はしていたけど、当たり障りのない話で終わる。
でもどうしても気になって、この教室で過ごす最後の日に僕は尋ねた。
「前に『きらくん』って呼んだのって、僕のこと?」
少し戸惑った顔をした川瀬は、すぅ、と息を吸って口を開いた。
「私、心のなかでは誰でも名前で呼ぶ癖があるのね。それで元カレと同じ名前なのが複雑で……『きらくん』って呼んでたんだ、宮田くんを」
「どうして? って、訊いたら怒る?」
「『大輝』って、いっぱい輝いて、キラキラしてるイメージだったから。私、好きだったのかも。きらくんのこと」
満面の笑みを浮かべた川瀬は、「一年間ありがとね」と言ってキャンディーの詰まった袋を手渡してきた。同じようにお礼を言いたかったけど、うまく言葉が出なくて……それを静かに受け取って、笑うしかできなかった。
これが二年三組での最後の思い出だ。
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