ウサギの指輪

音を奏でられなくなってから

半月が過ぎた…。


音が消えた日。

俺は彼女に想いを伝えた。


上着のポケットに

彼女が好きなウサギのモチーフが刻まれた

シルバーのリングを忍ばせ、改めて2度目のプロポーズを行うつもりだった。


しかし何故かタイミングが合わず、

何度も予定変更があった後、

彼女を呼び出した日に

職場で大きなトラブルが起き、

その対処に追われる事になってしまった。


「レア、ごめん…。

関係する取引先に

事情を説明しないと駄目で。

遅くなるけど今晩会えるかなーー。」


「ううん…。そのうちで良いよ。」


そのうちで…。

その言葉が既に結末を連想させていた。

彼女…レアを呼び出す時に

「大切な話があるから」と伝えたが、

その時の彼女の声は、

少し困惑した様な含みを感じていた。


「えっ…うん…。」


彼女への通話を終え、職場の裏口から

デスクへと戻り

プロポーズを先延ばしにされた

やり場の無い苛立ちを抱えながら、

再び取引先への連絡を続けていた。


次の日…。

予定があるのでと定時で退社した俺は、

彼女と初めてデートをした

思い出の喫茶店「純喫茶ティアリス」で

彼女を待っていた。


古びた日本家屋を改装し、

和製版不思議の国のアリスをテーマにした

純喫茶ティアリスは、

所々に銀の時計やウサギの置物、

ハートのエースが飾られた額縁が

飾られているが、

それぞれのモチーフは

時計の数字が古い漢数字になっていたり、

ウサギも日本書紀に登場する

因幡の白兎を思わせる和風のデザインと

なっていたりと

日本家屋と調和が計られた

装飾となっていた。


ガラガラ…。

重い木の引き戸を開ける音と共に、

レアが中へと入って来た。

白と黒のストライプのワンピースを着た

彼女の表情は、まるで作り物の様な

明るい笑顔で飾られていた。


「レア、この前はごめん。それに…

今日も無理に呼び出してしまってー。」


普段なら、急な予定変更の後に振り回す様なスケジュールを組んだりはしない。


だが…俺にとってプロポーズは

とても覚悟が必要な事であり、

タイミングが合わなかった事…

先延ばしになってしまった事で焦りを感じ、最早一刻も早く想いを伝えなくてはという、ある種の強迫観念に囚われてしまっていた。


「ううん。良いよ。何かあったの?」


プロポーズとまでは伝えていなかったものの、話の雰囲気でそういう話をする事を察する様に話していたつもりであったが、

彼女は和やかに笑っている。

その様子はまるで、

何かから目を逸している様にも見えた。


「今日は何にする?」


彼女は笑顔でメニューを

こちらに向けて来た。


「うーん、レアは何飲みたい?」


彼女は少し考える素振りを見せた後、

「いつもの」と言いながら

メニューを指差した。


「おっけ。俺も同じのにしようかな……。」


震える手で上着のポケットの

指輪が入った小箱を握りしめ、

俺は着物に小さなエプロンを羽織った

ウェイトレスに声を掛けた。


「すみませーん…」


ウェイトレスはパタパタと下駄を鳴らし、

改装された日本家屋の黒ずんだ床を

歩いて来た。


「ご注文はお決まりでしょうか?」


「えぇ、ウィンナーコーヒーを2つ。」


「畏まりました。」


ウェイトレスは袖から取り出した

伝票に注文を走り書きし、

再び奥へと戻って行った。


「あの…さ。」


俺は指輪を取り出そうとしたが、

流石にまだ早いと自分を思い止まらせた。

まだ珈琲も出来ていないのに

流石に急ぎ過ぎだ。

ゆっくり順序を踏みながら、

話を進めたかった。


「なーに?」


レアは店内に飾られた

因幡の白兎を眺めながら、

視線を俺に移した。


「あっ…いや。今日は無理矢理

呼び出してしまって本当にごめん。」


デートはまたそのうちにしよう…

彼女のその言葉を上塗りする様に、

俺は無理に今日、

彼女を純喫茶ティアリスに呼び出していた。


「あー、良いよ、良いよ。急ぐ用事があった訳じゃないし。」


…。

店内に少しの沈黙が流れた。

彼女と俺に温度差がある事は、

後になって何度もこの光景を

思い出す事で気付く事になるが、

この時はもう、

何としても想いを伝える事だけに

縛られていた。


「お待たせいたしました。」


ウェイトレスは、

花札を思わせる和製のトランプを

モチーフにしたコースターを

俺と彼女の前に置き、

その上に硝子製のティーカップに注がれた

ウィンナーコーヒーをコトリと置いた。


黒く熱い海の上に、

純白の生クリームがふわりと浮いている。

少しずつ、溶けて混ざりゆく白と黒の境目が曖昧になってゆく様を観察し、

気付け薬を飲む感覚で

熱い珈琲を喉へと流し込んだ。


「ち…ちょっと大丈夫?熱くないの?」


バーでジントニックを流し込む要領で

ウィンナーコーヒーを飲み込んだ俺を

彼女は心配していたが、

俺にとっては火傷した喉よりも

プロポーズの方が何千倍も大切だった。


「ぜ、全然大丈夫、大丈夫…。

この苦味と甘さの組合せがたまらないね。」


俺は手で口を押さえながら

彼女に笑顔を向け、

震える手で上着のポケットを押さえた。


始まりから終わりまで…

時間にして10分も経たなかったと思うが、

この雑談の時間は、永遠にも似た長いものであったと後に思う事になる。


この純喫茶ティアリスには

本棚が置いてあり、

1冊だけ好きな本を借りる事が出来る。

蔵書は約100冊程度であるが、

全てが「夢」にまつわる物語で、

彼女はここに来る度に本を1冊ずつ交換していた。


「今回はどんな本を借りたの?」

彼女は赤いバッグから、黒にピンクの蝶々が2匹待っている表紙の本を取り出した。


「これ…『悪夢と蝶々』。大切なものを失った小鳥が、悪夢の世界を旅する物語なんだ。傷を持ちながらも前を向いて歩いて行こうっていうテーマの本。」


「そうなんだ…。」


彼女は本の表紙を眺めながら、

小さく呟いた。


「少し読書は休もうかな…。」


彼女のカップに目をやると、黒い海は枯れ、硝子のティーカップの底にはJOKERの模様の花札が顔を覗かせていた。


「あの…レア。大事な話なんだけど…。」


震える声を振り絞った。


「あっ…!

今日、ドラマ録画して来るの忘れた。」


彼女は少し大袈裟に手を叩き、

壁の時計に目を向けた。


「ごめん、またそのうちにしよう。

本当にごめんね。」


彼女はバッグから財布を取り出そうとしたが、俺はそれを無理矢理静止した。


「ドラマならネットでも見れるから大丈夫。悪いけど、今話したいんだ…。」


「えっ…。」


それまで笑顔だった彼女の顔が曇った。


「これ…。」


最早…結末が見えていた事を薄々察していた。ここ数日、

明らかにプロポーズをする

素振りを見せていて、

あの優しく気遣いが出来る彼女が

察しない訳が無い…。


心のどこかで察していた筈なのに。

破滅の砂時計は

少しずつ砂を奈落の底に落としていたのに…。


俺は

砂時計をひっくり返す事が出来なかった。


最後の砂を落としてしまった…。


瑠璃色に、ラピスラズリを思わせる金色の星座が刻まれた小箱を開けると、

中にはウサギの模様が刻まれた指輪が

煌めいていた。



砂を失った不思議の国は

何も言わずに全てが始まり、

何も言わずに終わらない悪夢へと

俺を誘った。



彼女…レアの顔は

泣きそうな、明らかに嫌悪の表情を

織り交ぜた表情で

何か言葉を発しようとしていたが


その感情を

言葉という形に組み立てる事が

出来ずにいる事が伝わった……。


何も言わずに 全てが伝わり、

俺のプロポーズは終わった。


その後の事はまるで

走馬灯の様に、鮮明でかつ

自分のものではない

誰かの記憶の様に覚えている。


言葉を失った時間は沈黙を奏で、

俺の


「もう良いよ…ごめんね。」


という言葉で幕を引き、


彼女は

ただ泣きそうな顔を浮かべ…

何も言わずに帰って行った。


テーブルの上に

置かれた悪夢の本。

それを丁寧に棚に戻し、

その時ウサギの指輪も棚の上に置いた。


「もう…何もいらない。」


ウェイトレスに2人分の

ウィンナーコーヒーの代金を支払い、

俺は純喫茶ティアリスを後にした。


その日

俺は初めて声を出して泣いた。

毛布の中で必死に声が漏れない様に。


何度も何度も

無言の悪夢を思い出しながら

苦しみを反芻していた。


仕事は…

ずっと修羅場を

くぐり抜けて来たせいか

不思議と穴を開ける事も無く

こなす事が出来た。


会社全体でトラブルがあり、

該当する取引先への連絡が必要だったが

何とか上手くフォロー出来たと思う。


そして家に帰り、

再び毛布に顔を押し付けて

声を押し殺しながら泣く。


そんな日々が何日も何日も続いた。


そんなある日…。

彼女が家にやって来た。


チャイムが鳴り、

玄関を開けると

彼女は泣きはらした表情で

立っており、

手にはバイオリンを持っていた。


「レア…。」

彼女は無言でバイオリンを

俺に手渡した。


「これは…俺のバイオリン…?」


彼女と俺は

同じアマチュアの楽団に

所属しており、

彼女はフルート、俺はバイオリンを

担当していた。


彼女は

「お邪魔するね。」

と言い、玄関で靴を揃えると

奥へと上がっていった。


あんな別れ方だったが

またこうして少しずつ

友人関係に戻れる事に安堵しながらも


俺は

何らかの違和感を感じていた。


彼女はまるで自分の家の様に

慣れた様子で

俺の部屋のドアを開けた。


俺も一緒に入り、

彼女はベッドに、

俺はデスク前の

キャスターがついた椅子に

腰掛けた。


「ねぇ…一緒に演奏しよっか。」


この部屋は

バイオリンの練習用に

防音工事を施しており

日中であれば

ある程度は気兼ねなく

音を奏でる事が出来る。


彼女が前奏のフルートを吹き

俺はバイオリンの弓を引いた。


…。

バイオリンの音が鳴らない。

これは一体…?


バイオリンを確認すると

全体に亀裂が入っている。

形は保っているが

何か激しい衝撃で叩きつけた跡の様に

軋み、最早楽器とは言えない

状態になっていた。


「レア…俺のバイオリン、壊れてるよ。」


彼女はフルートを

吹く事に集中している様で

俺の声には気付かずに、

最後まで演奏を続け、

曲はフィナーレを迎えた。


「このバイオリン…壊れてるね。」


彼女は無言で頷いた。


「あの…この前の事なんだけど…。」


俺は無意識に

上着のポケットの中の小箱を

握りしめた。


…?


ポケットに指輪がある?


純喫茶ティアリスに

置いて来た筈なのに?


その時…


バリン…!

バイオリンが音を立てて

真っ二つに折れた。


彼女は悲しそうに

俺の方を見つめていた。


壊れたバイオリンが

床に叩きつけられると同時に

俺は、『あの日』の事を思い出した。


俺はバイオリンを片手に

「彼女」と指輪を選びに行った。


レアは

2人で初めてデートをした

純喫茶ティアリスを連想させる

ウサギの指輪が良いと

嬉しそうに指にはめ、


それをそっと俺に手渡した。


「ちゃんとした形で

改めてプロポーズするから

待っててね。」


俺はレアの頭をそっと撫でた。


2人で店を出た後、

交差点を歩いていたら

赤信号を無視したトラックが

突っ込んで来て。


その時、

俺はレアを突き飛ばしたんだ。


レアは交差点の

向こうに転ぶ様に倒れた。

怪我をしてしまったかもしれないが

トラックの直撃は避ける事が出来た。


俺は…。

硬い衝撃が身体を撃ち抜いた

感覚と、バリンという

木が避ける音が聴こえた後。


その後の事は覚えていない。


俺は、ベッドの上のレアを見つめた。


「レア…。身体は大丈夫?

今、どこか痛くない?」


「うん…。あなたのおかげで

私は大丈夫。…でも、でも…!」


彼女の瞳から涙が溢れた。


「無事で良かった…。」


俺は彼女をそっと抱き締めた。


彼女が無事で良かった。

本当に良かった…。

そして…彼女の愛情が

消えていなかった事に

純粋な安心感を感じていた。


「俺は…死んだんだね。」


彼女は泣きながら、

顔を真っ赤にしながら頷いた。


「あの後ね…。あなたとの思い出を

辿って、純喫茶ティアリスの跡に行ったの。もう…何も無い筈なのに、でも、ティアリスは昔みたいにそこにあって。」


「純喫茶ティアリスは…

無くなっていた…?」


「あそこのウェイトレスさん、

あの子がお店を切り盛りしていたんだけど、病気で亡くなってしまったの。

もう…2年前にはあのお店は更地になってた。」


「じゃあ…どうして…?」


その時、純喫茶ティアリスの

ウェイトレスの声が部屋に響いた。


『ここが夢の狭間だからです。』


気がつくと俺と彼女は

純喫茶ティアリスの、

悪夢の本をテーブルに置いた

あの日、あの時間の店内に

座っていた。


奥からウェイトレスが

パタパタと下駄を鳴らし歩いて来た。


「君は一体…?」


『いらっしゃいませ。今から私の知る限り、全てを説明させて頂きます。』


気がつくと

あの日と同じ、

硝子製のティーカップに

2人分のウィンナーコーヒーが

注がれていた。


ウェイトレスは

憂いを帯びた表情で彼女の顔を

覗き込み、小さく『ごめんなさい』

と呟き、静かな口調で話し始めた。


『私も貴方と同じ、

天寿を終えた存在になります。

気がついたらここに居ました。

でも…現実の純喫茶ティアリスは

取り壊されていて、恐らくここは

夢の中の世界ではないかと

私は解釈しています。』


「俗に言うあの世ではなくて?」

俺は、心に浮かんだ疑問を投げかけた。


『はい…。この世界には基本的に

私以外の人は居ないんです。稀にあなた方の様な迷い人が訪れる事はありますが。…想いを遂げられると、行くべき場所へと旅立ってしまいます。』


『貴方は、レアさんに想いを伝えられなかった事を未練に感じていました。そして…何らかの奇跡が起きてレアさんの魂がこの純喫茶ティアリスに辿り着きました。』


俺は思わず立ち上がり、

ウェイトレスに切り返した。


「レアの魂って…?

まさかレアもあの時

死んでしまったという事なのかい?」


ウェイトレスは

落ち着いた様子で説明を続けた。


『いえ…レアさんは酷く憔悴してしまい、1日の大半を眠って過ごす様になりました。事故の影響ではなく、精神的なものになりますが…段々と昏睡状態に陥る様になり、現在のレアさんもずっと眠りについております。』


「未練が無くなると、

貴方はここに居れなくなるから…。

だから貴方のプロポーズを

聴かない様にしていたの。」


彼女は雨の様に

大粒の涙を流していた。


『でも、あなたは違和感に

気づき始めていました…。

未練を無くす事…

そして、自身が死者である事を

実感する事も、

ここに留まる事が出来なくなる

理由になります。』


確かに

ずっと同じ仕事…

同じ日々が続いていた。

今思うと全てが明らかにおかしかった…。


「このまま、レアがここに居ると

どうなるんだい?」


『私にも分かりませんが、

何日も昏睡状態が続いているので

最悪命に関わると思います…。』


「今、俺が旅立つとレアは助かるんだね。」


『この世界に立ち入る事は

出来なくなると思いますし、

恐らく昏睡状態からは

抜け出す事が出来ますが…。』


もう…

時間は残されていないという事か。


俺は決心し、彼女に、レアに呼びかけた。


「レア…。今までありがとう。

俺、レアに嫌われてたんじゃないかなって。それが凄く怖かったんだ。

でも…こんなになるまで愛してくれて、

本当に本当にありがとう。」


レアは赤く腫れた目で俺を見つめた。


「正直、俺に死んでしまった実感は無いし、この先レアと一緒に居れないのは辛い…。」


言葉が震えて来た。

俺も辛いし

声が詰まるし

泣きそうだ…。


「でも…でもさ。どうしようも無い事なら、せめて最後のその瞬間まで、

君を愛して旅立ちたい。

そして…君にはちゃんと生きて、

元気で居てほしい。」


レアと俺は椅子を立ち、

お互いに駆け寄って

抱き合って泣いた。


「うわぁぁぁぁん…!」

2人は感情が溢れ、声を出して泣いた。


俺は

レアの涙を拭い、そっと頭を撫でた。

この先、レアの心に雨が降った時…

その時の為にも涙を拭った。


ウェイトレスも

指で涙を拭い、2人の行く末を

見守った。


「もう会えなくても…

ずっと君の事は大切に想ってるから。

いつかまた、

天国で会えたら一緒になろう…。」


俺はウェイトレスから

手渡されたウサギの指輪を

レアの指にはめた。


元々小さな手だったが、

更に細くなった事を感じていた。


「また…幸せになろうね。」

レアの言葉が救いだった…。


俺も何かレアに残す言葉を…。

「レア…愛してる…。」


ウェイトレスは

俺達に誓いの言葉を奏でてくれた。


『たとえ死が分かちても…

再び2人が会えるまで

愛し抜く事を誓いますか?』


「誓います…」

「誓います…」


レアの身体は消え、現実へ。

俺の身体は光に包まれ、天国へと

旅立っていった。


『いつか誓いが叶うまで…』


純喫茶ティアリスの

ウェイトレスは

2人に対しいつまでも

祈りを捧げていた。

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純喫茶ティアリス〜ウサギの指輪篇〜 @shiroppurabbit

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