とても短くて、幸せな人生でした

ずみ

とても短くて、幸せな人生でした


「わたし、高校卒業できないんだって」

 そう、神原絵里香は笑って見せた。涙を流す様子もなく、悔しがる様子もなく。

「単位も出席日数も足りないの。ずっとこの白いベッドに引きこもってたからかな」

 いつものように。俺がベッドの脇に腰掛けて冗談を言い合っているときのように、そう優しく微笑んで見せる彼女は、つまりこう言ったのだ。

 もう、三か月も生きられない、と。

「思ってたよりも少し早かったなぁ。進路の心配をしなくていいのが少し楽だなぁ。あ、ひろ君はアメリカの大学にいくんだっけ。君、昔から頭よかったものね。んまあ、大学に行ったら楽しみなよ。人生って思ったよりも短いんだから」

「……んで」

「それでさ、彼女さんなんて作っちゃって。浮気なんてしちゃだめだよ?私が天国から見張ってるからね。でも、ひろ君に彼女ができるのは少し悲しいかも。ま、死人に口なしってことでさ。じゃあ浮気に口出しできないじゃん!! ははは!」

「なんで! そんなに、そんなに笑顔でいられるんだよ!」

 思わず叫んでしまう。饒舌に話していた絵里香の方がビクン、と揺れる。

「なんで……絵里香がそんな早く死ななきゃいけないんだよ……」

なんで絵里香が、絵里香が。

「……ひろ君、こっちにおいで」

「……」

 ベッドサイドに立つ俺の手を引いて、ベッドの中に引き寄せ、自身の胸に抱きよせる。

「私はね、ひろ君。この人生をこんなに長く、十八年も生きたいわけじゃなかったんだよ?君がいたから。君とするお勉強が楽しくて、一緒に見る映画が面白くて、君と一緒にいる時間がうれしかったから、私はこうして今も生きているの。だから、そんなに気負うものじゃないよ。私のことを忘れないでいてくれれば、貴方の記憶の中に私は生きられるから」

 すりすり、と。優しく俺の頭を撫でる絵里香の手のひら。彼女の、不健康なまでに真っ白な、ガラスのように弱々しく透き通った細い腕。

「……だから、少しだけ。三か月だけのお願いがあるの」


「わたしに残された、この三か月間をあなたの記憶に焼き付けたい。忘れられないものにしたい。だから」


「私、神原絵里香を、村岡宏の恋人にしてください」


     ***


 神原絵里香は心臓病である。生まれついて健康な時など一度も無かった彼女をむしばんでいるのは現代医療では治せないような、そんな難病。

 世界でも数件の症例があるものの、いずれも十代を脱さずに亡くなってしまっているらしい。


 絵里香とは幼馴染だった。家がとなりで、いつも一緒に遊んでいた。小学生の頃は毎日校庭で走り回るほどには元気だったのだ。

 小学校は元気に卒業できたものの、中学校からたびたび学校を休むようになった絵里香は、高校に上がってからはほとんど学校に来れていなかった。だから高校に友達もいなかったし、だからと言って通信高校に通うのも嫌がった。唯一の友人の俺から離れるのが嫌だったらしい。

 だから俺も、可能な限り彼女のそばにいた。学校が終わったら病室に行って絵里香と話しながら勉強したりもした。

 そんな高校生活を送って、三年生のクリスマス。こんな海の近くにある町はよく冷える季節。

 神原絵里香に残された時間は、あと三か月。


     ***


「まぁ、恋人って言ってもこの病室から出られないからデートもできないんだけどね」

 あはは、と元気そうに笑って見せる彼女は、ベッド脇の椅子に座る俺の腿をベッドを少し起こした状態で横たわりながら右手でぺしぺしと叩いた。

「いつもと変わらなくていいじゃんか。俺は好きだよ」

「それでもさ。一回くらいは外に出たいでしょーよ。一緒にデートに行きたくないの? せっかくの可愛らしい恋人だよん?外出申請何回もしてるんだけどなぁ」

「無理でしょ。さっきお医者様に聞いたんだ。君にもう外出許可は出ないかもしれないって」

ピタリ、と俺の腿を叩いていた絵里香の右手が動きを止める。

「え、それホント? 私まだスタバの新作フラッペ飲んでないんだけど?」

 そう、深刻そうに震える絵里香。思わずはぁ、とため息をついてしまった。

「あ、何その顔。フラッペの美味さ舐めてるでしょ。私が十八年も生きられたのは五割ひろ君で残りはフラペチーノだからね?」

「キレそう。お付き合いして一週間ほどですが別れませんか」

「あーあ、そういうこと言っちゃうんだ。言っとくけど私に冗談は通じな……あ、待って帰らないでね謝るから」

 鞄に読んでいた本を放り込んで立ち上がると、彼女は体を起こして服の裾を引っ張って必死に引き留めようとしてくる。ひ~、とウソ泣きをしながら。

「そんなに好きなんなら今から買ってくるよ。免許取ったから」

「え、嘘! いつの間に!?」

「俺は二年の時点でアメリカの大学から声が掛かってたからね。だから三年の最初に免許取ってた」

「え言ってよ! 私君の運転で出かけたかったのに! あーあ、私人生でやりたいことランキングの結構上の方に『ひろ君の車でドライブデート(はーと)』がランクインしてるんだよ?」

 なんだよそのランキング初めて聞いたわ。

「とにかく買ってくるからちょっと待ってて。フラペチーノだけでいいんだよな?」

「うあ! あれ食べたい!なんだっけ、チョコレート……なんかカントリーマームみたいな」

「チョコレートチャンククッキーな。絵里香お菓子食べて大丈夫なんだっけ?」

「うん! 延命治療はもうできないらしいから支障ないって!」

 ずきり、と胸が痛む。

「……ちなみに聞くけどさ、なんで延命治療はもうできないの?」

「……副作用とかでさ。目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりするみたい。それで生き延びてもさ。ひろ君が近くにいるのにその存在を認知できなくなったら、それこそ私に生きる意味は残ってないし、その時こそ私の死なんだと思うんだ」

「……そっか」

 俺はまた、胸が痛くなるのを感じる。きっと彼女は死ぬのが怖いんじゃないんだ。

一人になるのが、とてつもなく怖いんだ。

「……じゃ、行ってくるよ。ちょっと待っててね」

 俺は耐えられなくなって病室を出る。駐車場に停めてある親のおさがりのNワゴンに向かって歩きながら、少し涙があふれてしまった。


 ドアを開けて車に乗り込み、エンジンを掛ける。すっかり暗くなってしまった。ライトをつけて車を出す。

 店までは車で十分ほど。田舎の大通りに面した店だったはずだ。ドライブスルーで十分かな。

「……クソ」

 必死に考えないようにしても、頭の中にちらつく。

 なんで、絵里香なんだ。

「クソ」

 なんで、あんなに良い子が。

「クソ!」

「なんでなんだよ! なんで……なんで死ななきゃいけないんだよ!」

 俺は叫んだ。せっかく一人しかいない車内だ、今くらいは叫ばせてくれ。

「絵里香が何をしたっていうんだ! 何か罪深いことをしたのか! 何か人様に迷惑をかけたっていうのか!」

 俺は涙が流れる続けるのを厭わずに、叫び続けた。

「誰か……教えてくれよ」


      ***


 そのまま、新年を迎え、バレンタインデーを過ぎて。

 絵里香はその元気そうな笑顔を絶やさず、俺はさらに胸を締め付けるような痛みを感じるようになった。

 絵里香の首筋に死神が鎌を押し当てて、ゆっくりと刃で撫でているように感じてしまって。

 そうして、三月を迎えた。


     ***


「外出許可、下りてよかったね」

 助手席でそう笑う彼女は、少しだけ。ほんの少しだけ痩せたように感じる。

「最後の外出なのに、家に帰らなくていいのか?」

「私の家族は一回もお見舞いに来なかった。だから帰るところなんて君の隣しかないんだよ」

 そう寂し気な顔で言う彼女に残された時間は少ない。だから病院も許可したのだろう。

「……そっか」

「いやー、初めてだよ海に行くの!すごい天気がいいし、まったく今日は海日和だね!」

「まだ外寒いからな。泳ぐなよ」

「泳げんてー!」

 楽しそうに笑う彼女を横目に、少しだけまた笑えた。

「江の島! あれ九十九里浜じゃない!?」

 森に挟まれた道路を抜けて海と江ノ電に挟まれた長い長い一本道に出る。やっぱり壮観だ。

 少しははは、と笑いながら車を駐車場に向かわせる。

「七里ヶ浜ね、あれ」


      ***


「楽しかったねぇ」

「そうだな」

 俺と絵里香は夜の七里ヶ浜のビーチを二人で歩いていた。楽しかった。冬の江の島とはいえ、それでも彼女にとっては久しぶりの外だ。

 生しらす丼を二人で食べて、一緒に江の島シーキャンドルに上って、一緒に江の島の広く青い海を見て。

「また二人で行きたかったねぇ」

「……そう、だな」

 携帯でいっぱい写真を撮った。生しらす丼を美味しそうに頬張る絵里香、江の島水族館でイルカを見て小さな子供みたいにはしゃぐ絵里香、江の島シーキャンドルから見下ろす鎌倉の街に圧倒されて少し口が開きっぱなしの絵里香。

「絵里香、もうそろそろ車の中に戻ろう。やっぱり三月の海は寒い」

「待って、もう少しだけ」

 そう言って彼女は海を前に座り込んでしまう。俺も彼女の横に座って夜の海を眺める。

「……ひろ君はさ、私にもっと長く生きてほしい?」

「……当たり前でしょうが。俺は絵里香と一緒に人生を過ごしたかったんだよ」

「本当に? 良かった、人生でやりたいことランキング堂々の一位、『好きな人に告白されたい』達成です」

 そうわざとらしく手を叩く絵里香の乾いた拍手が広い七里ヶ浜に響いて、むなしく消えた。

「……ごめんねひろ君、私、嘘ついちゃってた」

 彼女はその拍手を止めて俺の手を握る。

「死にたくない」

 震える声で言う。

「死にたくないよ」

 月明りに照らされて、彼女の両頬から砂浜に落ちる涙。

「もっと一緒にいたかった。ずっと一緒にいたかった」

 俺は何も言わなかった。きっと、彼女は我慢していたんだ。

 俺にいらない不安を掛けないために。

 でも、自身が死ぬというのに冷静になりきれるほど、絵里香は完成された人間じゃなかった。

「死にたく、ないよ……!」

 当然じゃないか。

 まだ絵里香は十八年しか生きていないんだ。

「ごめんね、こんなに泣いちゃって、すぐに止めるから」

そう言って手で涙を拭う絵里香を、俺は抱きしめた。

「絵里香はまだ大人じゃない。泣いていいのは子供の特権だから」

「……子供扱いしないで」

 彼女はそう、不満そうにボソッと呟く。それでも俺の手を振りほどくこともなく俺の背中に手をまわして、抱擁を受け入れる。

「ひろ君、私のことなんて忘れて、新しい恋人を……ごめん、やっぱり忘れないでほしいな」

「忘れるわけ、ないだろうが……!」

「そっか。忘れないんでいてくれるんだ」


「ああ、よかった……」


「とても短くて、幸せな人生でした……」


     ***


 三月十八日、神原絵里香はそのたった十八年の短い命に、静かに幕を閉じた。

 最後に安心したように笑った彼女の顔を、きっと一生忘れることは無いだろう。

 

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とても短くて、幸せな人生でした ずみ @Zumikas

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