20歳 6月
そんな風に毎日早苗と寝食を過ごし、零花さんとは顔を合わせない生活が半年続いた。最終的にはほとんど早苗の部屋で生活が完結するようになっていたから、数週間も零花さんの部屋には戻らないこともざらだった。そうすることで、僕は自分を何か薄暗いものから遠ざけようとしていた。
そして六月、僕は数週間ぶりに零花さんの部屋へと戻ってきた。来たる夏に向けて、夏用の服をいくつか回収したかったのだ。そしてその日は僕の誕生日だった。二十歳の、節目となる誕生日。僕はその日を、零花さんとではなく、早苗と過ごそうとしていた。
いつも通り合鍵で部屋のカギを開け、零花さんの部屋の中に入った。この部屋は、いつ来てもほとんど代わり映えしなかった。まるでプレハブ小屋みたいに、ずっと腰を据えて住むことを想定していないようだった。僕はクローゼットを開けて、僕の服をいくつか回収した。そう、クローゼットの中でさえ、僕がいたころとほとんど変わっていなかった。僕の服のためのスペースはきちんと確保されていた。僕は、毎朝このクローゼットを開ける零花さんのことを思った。
予定通り夏服を回収して、居間でそれらをかばんに詰めていると、居間の真ん中に鎮座するローテーブルにいくつかの郵便物が置かれていることに気がついた。そういえば僕は、大学に登録した住所がこの零花さんの部屋のものになっていることを思い出した。それなら大学からの郵便も何か届いているかもしれない。僕はその郵便物の束を取った。そしてその中に、一枚の手紙が入っていることに気がついた。
十一時を少し過ぎた頃、彼女が帰ってきた。彼女はあの頃と同じようにカジュアルスーツに身を包みながら、少し乱れた髪とメイクで部屋へと入ってきた。そして電気をつけようとしたときに、僕の存在に気づいたようだった。僕は黴臭いこの藍色の部屋で、彼女が帰ってくるのをじっと待っていた。
「夕くん」
彼女はそう言って、僕の前で立て膝になった。彼女の声を聞いたのも半年ぶりだった。僕はどうしようもなく泣きそうになった。僕は俯きながら手に握った手紙を睨んだ。
「今日の昼、机のうえにこの手紙があるのを見つけました。送り主は僕の父の名前になっています」
彼女は何も言わなかった。僕は、それがただ悔しかった。
「僕の最近の様子はどうだとか、勉強は順調そうか、だとか書いてありました。どういうことですか」
どうして、零花さんと父が手紙で繋がっているんだ。どうして、父は僕の近況を知りたがっているんだ。そもそもどうして、父は僕と零花さんが東京にいることを知っているんだ。わからないことだらけだった。僕は彼女に、色んなことをきちんと説明してほしかった。
すると、左肩に重さを感じた。遅れて甘い香りを感じる。彼女が、僕にもたれかかっていた。彼女はそのまま僕の背中に両腕を回した。
「ねえ、私としたい?」
彼女は消え入りそうな声でそう言った。僕は、頷いた。
ベッドに横たわった彼女に、僕は覆い被さった。そしてその白い首筋に口づけをしながら、彼女のシャツのボタンをひとつずつ外した。
「ごめんね、私ずっと君のお父さんと手紙のやりとりしてたの」
彼女の小さな鎖骨が露わになった。そこにはわずかに汗が滲んでいた。
「いつからですか」
「ずっと。君が大学に入ったときから」
ボタンを全部外し終えると、はだけたシャツの隙間から彼女の肌着が覗いた。そのままそれも捲し上げた。彼女の乳房を守る淡い色のブラジャーが見えた。
「どうして」
「そういう風に交渉したから」
交渉。僕は頭の中で反復した。そして彼女の乳房にやさしく口づけをした。
「ねえ、わかるでしょう? あの地域を担う跡継ぎが急に二人ともいなくなることを、彼らが許容できるはずないでしょう? 一緒にいなくなったら、私たちの繋がりが疑われてしまうことは当然でしょう?」
彼女のタイトスカートも脱がした。彼女のほっそりとした腰はやわらかく湾曲した輪郭を描いていた。
「大人達が、ただの子供のかくれんぼを見逃すはずがないでしょう」
僕は動けなかった。どうすればいいのかわからなかった。そんな僕を見て、彼女は僕の首に両腕を回した。僕は彼女に抱き寄せられた。
「だから私は交渉したの。私たち二人が逃げ切ることはたぶんできないから、せめて一人だけでも逃げ切れるように」
彼女は僕の手を引いて、ブラホックを外すように誘導した。僕は少しだけ手こずった後、それをどうにか外した。
「私は君のお父さんにお願いしたの。私が監督しますから、どうか大学四年間だけは、彼を自由に過ごさせてあげてください。大学を卒業したら、私が連れ戻しますからって」
ブラジャーを取り除くと、彼女の控えめな乳房が見えた。窓から零れた青い街明かりがそのきめ細やかな肌を照らしていた。それは息を呑むほど美しかった。
「最悪君を連れもどせなくても、私は確実に平泉へと戻ってくる。そう約束した。だから彼らにとって、二人とも失うという最悪のケースは回避できたわけだ。そこに、君の自由の余地が生まれた」
僕は、やっぱり彼女の手に促されて、彼女のショーツに手をかけた。そして、ゆっくりとそれを下ろした。彼女は腰を浮かしてそれを受け入れた。
「君は私から離れることができれば、私から逃れることができれば、本当に自由になれる。君を逃がしたのは私の責任になるからね。ねえ、だから君は、このまま私のもとからいなくなってくれればよかった」
僕はベッドに膝立ちになって、彼女の裸を見下ろした。一糸まとわぬその姿は、どうしようもなく美しかった。彼女のその姿はぜんぶ幻のようで、触れれば砂のように崩れて消えてしまいそうだった。
「なんでだよ」
声が震えた。なんで、この人はそうなんだ。
「一人なら、逃げ切れたんだろ。それなら貴女は一人で逃げればよかったんだ。僕を東京に呼ばなければよかったのに。どうして自分を犠牲にしたんだ」
そう言って僕が俯いていると、彼女は片手を僕の方に伸ばした。そして彼女はあのときのように、二年前のように、僕の頬に触れた。
「私があの街を抜け出そうと思ったのも、ちょうど十八歳のときだった。あのとき泣いていた君を見捨てていたら、私は大切なものをなくしていたように思う」
なんだよ、それ。ふざけるなよ。僕はずっと、何も知らないままだった。ずっと、子供のままだった。僕は意地を張りたかった。僕は何かを変えたかった。
「今から逃げましょう、二人で。二人なら逃げられないなんて誰が決めたんだよ。今からこのアパートも捨てて、どこか遠くに行きましょう」
「だめだよ。もう私の情報はぜんぶ親たちに渡しているんだから。追跡なんて簡単にできる。私が君と一緒にいる限り、君は本当に自由にはなれない」
そう言って彼女は僕を抱き寄せた。僕の身体は彼女の身体のうえにぴったり重なった。彼女の心音と僕の心音が同期して、二人の身体の境界が溶け合っていくようだった。僕は僕自身のそれを、彼女の中へと差し入れた。僕のそれはゆっくりと彼女に侵入し、そして止まった。僕は彼女の最奥まで来てしまった。それが、最後だった。僕は、もうこれ以上彼女の中へと入り込むことができなくなってしまった。僕と彼女の間には、皮膚と粘膜によって、絶対的な隔絶が生まれてしまった。
「それにね、私考え直したの。自分にとっては価値のないものでも、誰かにとって価値のあるものを守っていくのは、あるいはとても素敵なことなんじゃないかって」
僕はもう、彼女の言葉を肯定することも否定することもできなくなってしまった。僕らはどうしようもなく隔絶した、男と女だった。
最愛の女を抱いた日の夜、僕は傘を失くしたことに気がついた。そのことは少なからず僕を動揺させた。その夜は酷く雨が降っていて、僕はそれに対処する手立てをひとつも持っていなかったからだ。僕の手もとには何もなかった。タクシーを呼ぶ金も、助けを求めることができるような友人や家族も。そんな僕を置き去りにして、雨は一秒ごとに強さを増しているようにさえ見えた。しばらくは降り止みそうにない。そして僕は何よりも、一刻も早くこの場から離れたかった。
それだから僕は走った。十秒と経たないうちに全身が酷く濡れた。水を吸って重くなった服は僕の身体にぴたりと張り付き、肌の表面からじわじわと熱を奪っていった。そのくせ心臓はバクバクと動いて、身体の芯だけが燃えるように熱かった。十分な酸素を失った喉が締め付けられ、口の中に鉄の味が広がり始めたあたりで、僕は脚の動きを緩めた。もうこんなんじゃ走ったって意味がない。そもそも目的地すらないのだから。僕はゆっくりと身体を前に進めた。全身が重かった。まるで水中にいるかのようだった。光も届かないような、暗い海底。
「夕?」
名前を呼ばれて振り返ると、傘を差した早苗がいた。彼女は反対の手に僕の失くした傘を持っていた。そこで僕はようやく、その傘を彼女の家に置きっぱなしにしていたことに思い至った。
「よかった、もう、私心配したんだよ」
彼女は手に持った傘を開いて、僕に差し出した。僕は、反射的にそれを手で弾いた。その傘は彼女の手を離れ、ふわりと雨の中を舞った。その姿は鈍色の空に紛れて見えなくなった。
僕は彼女に背を向けて走り出した。それは最愛の女を抱いた日の夜だった。
僕は一晩中、雨の中を走り回った。走り疲れて、目についた公園のベンチに座った。そうしてそのまま、夜が明けるのを待った。だんだん太陽が昇ってきて、水色の光が街を照らし始めた。僕は少しだけ顔を上げた。公園の端に、雨に打たれて風にとばされ、ひしゃげてしまった一本の傘が見えた。僕はそれに見覚えがあった。それは、昨晩早苗が差し出した僕自身の傘だった。結局僕は、一晩かけて街をぐるりと一周しただけだったのだ。僕は、生まれた街を捨て、愛した女を捨てても、どこにも行くことができなかったのだ。
その傘を視界の隅に捉えながら俯いていると、ふと、ベンチの前に誰かが立っている気配がした。僕は顔をあげた。傘を差した早苗がそこに立っていた。彼女はやっぱり溌剌な笑顔で、僕を見下ろしていた。
「いつか帰ってくるかもと思って私の家で待ってたけど、やっぱり心配になって探しに来ちゃった」
彼女はそう言って、自分が差している傘を僕の方へと傾けた。僕は思わず身を捩ってそれを避けた。彼女は怪訝そうに僕を見た。
「どうしたの」
「僕が君の傘を受け入れてしまったら、僕は何か大事なものを失ってしまうような気がする」
「君が濡れて風邪を引いちゃうことよりも、大事なことってある?」
そして彼女は半ば無理矢理、自分の傘に僕を入れた。僕は彼女の瞳を見つめた。彼女のその言葉は、僕の心の底にあった澱みのようなものをゆっくりと解きほぐしていくように感じられた。
「大丈夫、一人でできるから」
僕は立ち上がって、公園の端へと歩いた。そして僕のひしゃげた傘を拾い上げ、それを頭上に掲げた。さっきまで僕の全身を打っていた雨は、傘のビニールによって僕に触れる前に弾かれた。その感触が持ち手にも伝わってきた。傘っていうのはこんなに重いものなのかと、僕はそのときはじめて気がついた。
傘を失くした 橘暮四 @hosai
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