19歳 11月
それからしばらくの間、僕の生活は、そして僕と彼女の生活は、凪いだ停滞が続いた。四月の頃は新鮮に感じていた東京での大学生活もバイトも、半年も過ぎれば完全に慣れてしまった。その生活にはもはや、閉鎖的なあの街での生活との積極的な違いを見いだせなくなっていた。そして零花さんもやはり、週のほとんどを男と寝て過ごした。それでも必ず日付が変わるまでに帰ってきて、僕とささやかなキスをした。そして今までと同じように、僕が彼女と寝ることは決して許されなかった。
その日は、零花さんがいつも通り仕事に行き、僕は全休で大学に行かなかった日だった。ただその日は昼からバイトが入っていた。僕がいつも通りアパートのエントランスから出ると、それに面した道の反対側に一人の男が立っていることに気がついた。彼は僕の姿を認めると大股で歩いてきた。彼は金色に染めた髪をしっかり固め、黒を基調とした服装と派手なアクセサリーで身を包んでいた。彼は険しい表情を意図して作っているようだったけれど、目つきだけがやけに繊細な印象だった。それだから彼の全体の見た目としては、とても傷つきやすそうに見えた。
「お前、零花のとこの奴だろ」
彼は威圧的にそう言った。近くで並ぶと、彼の身体はやけに大きいように感じられた。
「あなた誰ですか」
「いやこっちが訊いてんだけど」
「あぁ、零花さんの男の一人か」
「お前もだろ」
彼はあからさまに溜息を吐いた。そして一歩、僕に詰め寄る。僕はアパートの壁に背中を預ける形になった。
「なぁ、もう零花に関わるな」
彼はそう言った。思わず乾いた笑いが出た。
「あなたは零花さんの何なんです?」
「男の一人だよ。お前が言ったんだろ」
「男の一人が別の一人に、もう関わるなって? 独占欲の発露ですか?」
「違う、わかるだろ。お前が零花を縛り付けてるんだよ」
もう一度、鼻から笑いが零れた。でもそれは、さっきのものとは違う意味の笑いだった。その証拠として、僕はうまく笑みを保っていられなかった。
「縛り付けてる?」
「お前みたいなガキのお守りしないといけないから、零花はどこにもいけないんだよ。毎晩毎晩律儀にお前のもとに戻ってこないといけない。それに」
「それに?」
僕がそう訊ね返しても、彼は何も言わなかった。彼は何か逡巡しているように見えた。僕は、強がりの意趣返しのつもりで溜息を吐いた。
「何が言いたいのか知らないけど、それは全部零花さんの意志でしょ。それなら僕に詰め寄って何の意味があるんだよ。零花さんの気持ちがほしいのなら、あなたがあなたの力で彼女を振り向かせればいい」
その言葉はとても空虚な響きをもって僕自身に聞こえた。もう作り笑いもできなかった。ふと彼の顔を見上げると、彼は怪訝そうに僕の目を見ていた。そしてその表情はたちまち、激しい怒りを帯びたそれへと変わっていった。
「お前、本当に知らないのか」
「は、なにを――」
それ以上言葉が継げなかった。左頬に激痛が走った。途端に低くなった視界に、ようやく僕は殴られたことに気がついた。口の中に鉄の味がした。彼の方を見上げると、彼がその素朴な目元を酷く歪ませているのが見えた。彼の方が今にも泣いてしまいそうだった。
「今すぐ零花から離れろよ」
彼はそう言い残して言ってしまった。僕はしばらく呆然としていた。後頭部にどろりとした感触を覚えて、僕はようやくぶつけた頭が出血していることに思い至った。
簡単な応急処置だけして、僕はバイト先に向かった。なんやかんやでもう二時間近くも遅刻してしまった。僕のぼろぼろの姿を見ると、他のアルバイトや社員さんは酷く驚いていた。特に早苗の動揺っぷりは顕著だった。最後にはもうどちらが怪我人かわからなくなるほどだった。二人とも仕事ができるはずもないので、臨時で休みをもらった。
駅前のいつものベンチで、僕らは並んで座った。そして早苗に訊かれるまま、今日起こったこと、これまでに起こったこと、僕が東京に来るまでに経験したことを、洗いざらい話した。彼女はときどき過剰なリアクションを示しながらも、すべて親身になって聞いてくれた。
「夕、しばらくそのアパートに戻るのやめたら?」
彼女はそう言って、僕の頭に巻かれた包帯に手をやった。僕は少し恥ずかしくなってその手を払った。
「僕にはあそこしか住む場所がない」
「私の家来ればいいじゃん。駅近いよ」
彼女は当たり前のように言った。僕は驚いて彼女を見た。
「いいの?」
「そうして。このままアパートに帰す方がやだ。またその人みたいに夕のこと逆恨みしてる人いるかもしれないじゃん」
僕は俯いた。なかなか頷かない僕を見て、彼女は僕の手を取った。さすがにそれを振り払うことはできなかった。
「私さ、実は夕のこと尊敬してたんだよね。学費自分で払ってるって聞いてさ。私は今まで甘やかされっぱなしだったから。親にもバイトなんかしなくていいって言われてたんだけど、私は少しでも自立したかった。だからさ、なんていうのかな、私も頼りにされたいんだよ。うん、これは私のわがまま。夕が負い目とか感じる必要はないよ」
彼女は僕の顔を覗き込んで、そう言った。
「それとも、その零花さんっていうひとのところに戻りたいの?」
早苗の部屋は、僕らの、いや、零花さんの部屋とは全く趣が違っていた。必要最低限のものしかない零花さんの部屋とは対称的に、早苗の部屋はパステルカラーのクッションやインテリア雑貨などがかわいらしく並んでいた。そして何よりも、早苗の部屋には黴の匂いがしなかった。そのことは、僕の心を酷く落ち着かせた。
それから僕は、基本的に早苗の部屋で寝食の時間を過ごすことになった。零花さんがいないだろう平日の昼間を狙い、周囲に十分気を配りながら、僕の荷物をちょっとずつ回収した。服や本、勉強用具、日用品など。僕は結局、零花さんと鉢合わせることは一度もなかった。ただ部屋に残った零花さんの香りや黴の匂いだけが、僕の心を無性にざわつかせた。
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