遅咲きの恋と青春の扉

神崎 小太郎

第1話 キャンパスの奇跡 


 都会の喧騒を離れ、丸池の森に吹く木枯らしは、甘く切ない木蓮の涙のメロディーと共に、過ぎし日の懐かしい足音を運んでくる。


 僕がやっとの思いで合格した『青教大学』は百年の歴史を誇り、神聖な丸池の森が臨める景色で知られている。卒業生同士が結婚式を挙げるチャペルもキャンパス内に併設されるミッション系の大学だ。


 その正門には、クリスマスの光を待ち焦がれるかのように寄り添う一対のモミの木がある。冷たい風をものともせず、まるでカップルのように佇んでいる。


 僕と百合子がキャンパスで初めて出会ったのは、もう二十年以上前のことだ。けれど、彼女と過ごした日々の記憶は、一瞬たりとも脳裏から消えたことはない。


 特にクリスマスの懐かしいメロディーが街中で奏でられる季節になると、木枯らしがまるで僕の記憶のページをめくるかのように、生き生きと甦ってくる。


 -✽-


 あの頃、僕と百合子は二十一歳を迎えたばかりで、青春を謳歌していた。大学に入学してから同じフランス語専攻のクラスに所属していたが、この三年間、一度も面と向かって話をしたことはなかった。彼女はミスコンに推薦される美人で、名前と顔は知っていた。


 歳月は僕を待ってくれず、三年次で外国語の必修授業が終了すると、百合子に会う機会も少なくなった。このままでは、単位を取得し、卒論を書き上げても、失意のまま学生生活の扉を閉ざすことになる。


 彼女はいつも風になびく長い黒髪を揺らしながら、気取らずに男子学生へ優しい笑顔を向けていた。その自然体で美しい姿を遠くから眺める僕は、少しばかり嫉妬を感じていたのかもしれない。


 僕たちの大学では、レンガ造りの本館を覆うツタが枯れる一年生の秋までに恋人を見つけないと、卒業するまで恋愛ができないという不吉な伝説がささやかれていた。


 桜の花が舞い上がる四年生になっても、僕の学生生活には変わらず重苦しい雲が垂れ込めていた。そんな中、遅咲きの恋に向けて奇跡のような最後のチャンスが突然訪れた。


 午後からの授業が休講になっていることを知り、歴史ある煉瓦造りの本館、その奥にひっそりと佇む図書館に立ち寄った。友人たちと就職先の話題を交えながら、卒論のグループワークに取り組んでいた。


 ふと窓の外に目を向けると、庭先に艶やかな薄紫色の花を咲かせる一輪の木蓮の蕾が、涙で濡れたように感じられた。


 木蓮の花は桜のように華やかではないが、近くで見るとその凛とした美しさが心に深く響き渡る。キラリと光り輝く雫が花びらに宿っていて、まるで僕が密かに想いを寄せる彼女の姿が映り込んでいるかのようだった。それは、百合子への僕にとって、遅咲きの恋心の春だったのかもしれない。


 僕は友人たちの元を離れ、木蓮の花へと駆け寄った。そのとき、背後から静かな足音が聞こえ、女性の清らかな声が耳に届いた。


 振り返ると、百合子がそこにひとり立っていた。風になびくポニーテールに束ねた艶やかな髪と、その柔らかな微笑みが僕の心をすぐに魅了した。彼女は言葉を失った僕に気づいたのか、少し照れくさそうに話を続けた。


「私、木蓮の花が大好きなんです。ここの図書館から眺めるのが楽しみで……」


 どう答えて良いか思い悩んだ僕は、ようやく声を絞り出し、頷きながら答えた。


「そうなんですね。僕も、この花を見て百合子さんを思い出していました。いつも遠くから見守っていました」


 僕のためらいを含んだ言葉と普段とは異なる丁寧な表現に、百合子は少し驚いたような表情を見せたが、微笑みを浮かべて答えた。


「悠斗さんもそうだったんですか……。私たち、同じクラスなのにあまり話す機会がありませんでしたよね。でも、これからはもっとお話しできるといいですね」


 なんと彼女は僕の名前まで憶えていてくれたのだ。そのあと、僕たちはキャンパスの片隅にある小さなカフェで、学生生活の何気ない話をしながら、まるで示し合わせたかのようにホットチョコレートを楽しんだ。

 百合子は北海道から来て、兄のマンションに間借りしているという。内容よりも、ただ会話を楽しむことが重要だった。


 僕たちの会話が途切れた瞬間、窓の外に目をやると、新緑のプラタナスの葉が瑞々しい道を彩り、まるで絵本の世界が現実になったかのような心癒される光景が広がっていた。それはまるで、僕たちがともに歩む恋物語の最初のページのようだった。

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