第2話 ケンダル公爵令嬢ディアーヌ
アルバニー大公国。
国家元首である、大公の暮らすアルバニー城は山と湖に囲まれた、美しい場所にあった。
夕暮れの中、小高い丘に建つ城に向かって、明かりを灯した馬車が、ゆるやかな上り坂の道を一台、また一台と駆け上がっていく。
遠くから見ると、無数の明かりが等間隔で移動していて、どこか幻想的な光景を作り出していた。
「さあ、ディアーヌ」
「姉上、お気をつけて」
馬車は次々に城の正面入り口に止まり、紳士淑女が降り立って、次々と城の中へと案内されていく。
由緒正しいケンダル公爵家の紋章入りの馬車が止まると、入り口で待機していた騎士や召使い達がいっせいに動き出す。
先に馬車を降りた父と弟が、左右に分かれて、同時にディアーヌに手を差し出す。
鮮やかなロイヤルブルーのドレスを着たディアーヌは、ちょっと困ったような表情で左右の手を二人に差し出した。
さらりと長い金髪が流れ、大きな青灰色の瞳が周囲を見渡す。
自分に注目している視線に気づくと、ディアーヌは頬をうっすらと赤くして、馬車から降り立った。
内気そうな、優しげな顔立ちの令嬢だった。
ケンダル公爵は娘を安心させるように、彼女のほっそりとした手を取ってエスコートをし、弟のレオナルドは、姉にぴったりと寄り添って声をかける。
「姉上、ご心配なさらず。姉上は誰よりもお美しいです。それに長居する必要なんて、ないんです。大公殿下にご挨拶をしたら、さっさと屋敷に帰りましょう」
「レオ」
ケンダル公爵が息子をそっといさめる。
しまった、という顔で舌を出すレオナルドは、ディアーヌの二歳年下の十六歳。
公爵家の後継とはいえ、まだまだ少年である。
ディアーヌと同じく金髪で、ただ、青い瞳の色調はディアーヌとは少し異なる。
それでも姉弟はよく似ていた。
ケンダル公爵家の三人は、すみやかに城内に案内され、知り合いの貴族達と挨拶を交わしながら、まず控室に向かった。
今夜は、大公即位五周年を祝う、特別な夜会だ。
大公殿下への挨拶は、上位貴族から順番に行われる。
公爵家から始まるので、早々に呼ばれるはずだ。
***
「セドリック大公殿下、ご即位五周年、まことにおめでたきことと、お喜び申し上げます。こちらは娘のディアーヌ、そして息子のレオナルドでございます」
「大公殿下、ディアーヌでございます。この度はおめでとうございます」
「大公殿下、レオナルドでございます。この度はおめでとうございます」
玉座に座る青年、大公であるセドリックの前で、ケンダル公爵、ディアーヌ、レオナルドの三人が恭しく礼を取った。
ケンダル公爵は夫人と死別したとはいえ、まだ四十代に入ったばかり。
揃って金髪に青系の瞳をした、見目麗しい娘と息子を伴った姿は、夜会に出席した人々の注目を集めた。
「まぁ、ご令嬢が社交の場にいらっしゃるとはお珍しい」
「お美しいご令嬢とご令息ですこと」
「なんて仲がよろしそうなご様子かしら」
ご婦人方は、扇の下でささやきあう。
若き大公、セドリックもまた、夜会に出席したケンダル公爵一家を静かに見つめていた。
カーテシーからそっと顔を上げて、セドリックを見上げたディアーヌは、無表情に自分を見つめるセドリックに気づいて、戸惑った。
(すごく……整ったお顔立ちで、ご立派な方だけれど。何だか少し怖い)
ディアーヌは少し眉を下げたが、礼儀正しく微笑を浮かべたまま、父とセドリックが会話を交わすのに耳を傾けていた。
隣に立っているレオナルドが、ディアーヌを励ますようにうなづいた。
(大丈夫よ、レオ)
ディアーヌは弟に心からの笑みを向けると、最後にもう一度、丁寧なカーテシーをして、大公の前を辞した。
無事、大公への挨拶を済ませたケンダル公爵一家は、それからほどなくして馬車で帰宅した。
「ディアーヌ、大丈夫だったか? 大公殿下はもともと無口なお方なのだよ。気にすることはない」
屋敷の中に入ると、公爵はディアーヌを労るように、そっと額にキスをしてくれた。
「今夜はもう遅い。ゆっくり休みなさい」
「はい、お父様」
「父上、おやすみなさい。姉上、おやすみなさい」
「おやすみなさい、レオ」
ディアーヌは侍女とともに自室に戻り、着替えをすると、早々にベッドに入った。
ぐっすり眠ったのだ。
早朝に、屋敷に響き渡る声に、起こされるまで。
***
ベッドの上に起き上がったディアーヌは、夢を見ているのかと思った。
階下から響く、尋常ではない物音。
誰かが屋敷内をズカズカと歩き回っている。
侍女達の悲鳴のような声も聞こえる。
「ケンダル公爵はどこだ!?」
「隠しだてするな。たとえ使用人とはいえ、隠しだてすれば、容赦しない」
ディアーヌは真っ青になると、慌ててベッドを飛び出した。
「ディアーヌお嬢様!!」
寝室のドアが開き、侍女が飛び込んでくる。
「大変でございます! 旦那様が、騎士団に連行されて……」
「なんですって!? どういうことなの!?」
「こ、国家反逆罪だと」
ディアーヌは衝撃で立ち尽くした。
「まさか。ありえない」
ディアーヌは震える手で自分の両腕をつかんだ。
「すぐ着替えさせて。一番簡単な服でいいの。下に行って、状況を確認しなければ」
「は、はい。ただちに」
侍女は青ざめて衣装部屋に飛び込むと、すぐに着られるワンピースを抱えて戻ってきた。
手早く着替えると、髪を結うことも、化粧をすることもなく、ディアーヌは部屋から走り出た。
「お嬢様っ!!」
侍女が叫んでいるのが聞こえる。
しかしディアーヌは止まることなく、そのまま階段を駆け降りた。
「姉上っ!」
玄関前のホールでは、家令がレオナルドを必死で押さえていた。
「レオ、お父様は?」
「外に……」
「お父様!!」
ディアーヌは玄関から外に飛び出した。
長い、まっすぐな金色の髪が背後にたなびく。
ケンダル公爵邸の玄関前には一台の馬車が停められ、今まさに、ケンダル公爵が馬車に乗せられるところだった。
両手をがっちりと騎士に拘束された公爵が、ディアーヌの声に振り返った。
「ディアーヌ!」
ディアーヌは必死で父に駆け寄ろうとして、騎士に遮られた。
「ディアーヌ嬢、屋敷の中にお戻りください。あなたは外に出ることはできません」
「お父様!!」
「ディアーヌ、心配するな。私は何もやましいことはしていない。調べればすぐわかることだ。よいか、レオナルドを頼むぞ。何かあったら、私の代わりに、おまえが公爵家を守るのだ。領民を忘れるな。領民の暮らしを守るのが、我々の役目なのだから」
「お父様———っ!!」
ディアーヌは必死で叫び、父に手を伸ばした。
一体、この実直な父に、何が起こったのか。
どんな疑いがかけられてしまったのか。
ディアーヌの青灰色の目から、涙がこぼれ落ちる。
「お、お父様、心配はいりません!」
ディアーヌは淑女らしさをかなぐり捨てて、叫んだ。
「わたくしが弟を、公爵家を、そして領地と領民を守ります。お父様が戻られるまで。お父様が戻られるのを、待ちます!!」
さらに二人、騎士が近づいてきて、ディアーヌを抱え込むようにして、屋敷内へと連れて行った。
玄関のドアが閉まり、馬車が出発する音が聞こえる。
ディアーヌは、力が抜けたように、床に座り込んでしまった。
「姉上!」
泣きながら、レオナルドが走ってくる。
ディアーヌは、レオナルドをしっかりと抱きしめた。
「大丈夫よ。きっと何かのまちがい。お父様はすぐ戻られるわ」
***
しかし数日後、ケンダル公爵家には、最悪の知らせがもたらされた。
『ケンダル公爵は国家反逆の疑いにて逮捕、収牢されていたが、昨日その死が確認された』
ぱらり、と一枚の紙が、ディアーヌの手から床に落ちる。
「姉上!?」
ディアーヌとレオナルドが無言で見つめ合う。
レオナルドの青い瞳から涙がこぼれ落ちると、ディアーヌはしっかりと弟を抱きしめた。
(レオだけは守り抜かなければ。そして叶うことならば、ケンダル公爵家も。せめて、あと二年。レオが成人して、公爵家を継ぐまで———)
(考えなければ。レオを守るために。動けるのは、わたくしだけ)
普段はあんなにしっかりしているように見えて、レオナルドはまだ十六歳。
まもなく青年になろうかという体はまだ細く、幼い。
ディアーヌはしゃくりあげるのをこらえながら泣くレオナルドの背中を、そっとさすり続けた。
その日、早めに済ませた夕食の後、ディアーヌはただ一人、父の書斎にこもった。
ディアーヌは、装飾の少ない黒のドレスを着て、机の上に書類を広げていた。
手元には、かつて父がそうしていたように、コーヒーの入ったカップが置かれている。
今夜は風が強いのか、背後のガラス窓がカタカタと音を立てていた。
窓の外に目を向けるが、新月のようだ。
いつも以上に闇が深かった。
ディアーヌは、今日届いた通知を広げる。
父の逮捕、収牢、そしてその死を知らせたもの。
しかしそこに内務大臣の署名はあるが、大公の名前はない。
ディアーヌは、夜会で挨拶をした大公を思い出す。
現在、ケンダル公爵邸には公国騎士団から騎士が派遣されており、屋敷の人の出入りを見張っている。
ディアーヌとレオナルドの外出は禁止、召使い達もたとえ用事があっても、外出は厳しく制限されていた。
「大公殿下は了承されているのかしら……」
ディアーヌはつぶやく。
どう考えても、ディアーヌには理解ができないのだ。
愛する父が、国家反逆を企てていた、ということが。
「大公殿下は、信頼できるお方、なのだろうか……?」
その考えは、ディアーヌに衝撃をもたらした。
自分は何も知らない。
この国の君主についても、自分自身の考えを持っていなかった。
父に甘え、社交から遠ざかり、平穏に暮らしていた自分。
しかし、それではこの家を守れない。
「大人になるのよ、ディアーヌ」
ディアーヌはぐっと、両手を握りしめた。
***
「……ケンダル公爵が、亡くなった……?」
大公城の執務室に、セドリックの声が響いた。
続いて、ばさりと書類を広げる音。
「そもそも、公爵が逮捕されたことも報告されていない。誰が収牢を許可したんだ。裁判も開いていないだろう。なぜ、公爵の地位にある人間を———」
「死亡報告書には、内務大臣の署名がありますね」
「……!!」
セドリックは音をたてて椅子から立ち上がった。
「殿下!?」
グレッグは慌ててセドリックの腕をつかんだ。
「殿下、お待ちください!!」
「ケンダル公爵邸へ行く」
「……!! 何を言っているんですか。もう夜ですよ! それに、大公自ら国家反逆罪に問われた人物の屋敷に行けるわけがないでしょうが!!」
セドリックはグレッグの腕を振り払った。
「この一件は、つじつまが合わない。何かがおかしい」
セドリックの短い言葉に、揺らがない意志が見えていた。
グレッグはぎりぎりと歯を噛みしめると、深い息を吐いた。
「仕方ありませんね……その代わり、私の言うことには、従っていただきますよ、大公殿下」
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