寵姫ネルの結婚
櫻井金貨
第1話 アルバニー大公セドリック
「大公殿下、いかがでございますか?」
鏡の前に立っていた貴婦人がゆっくりと振り返った。
白い肌がまぶしい、まだ若い女性だ。
黒い艶やかな巻毛が小さな顔を縁取っている。
ほっそりとした首から肩、そして豊かな胸元は大胆に開き、黒に近い濃紺のドレスに飾られた細かな金のビーズがまるで星のように輝いている。
首と手首に巻かれた、繊細なアッシュブラウンの細いリボンには、
(私の色、だ)
そう気づいた瞬間、大公の黒い瞳が、貴婦人の印象的な青灰色の瞳と出会った。
「
セドリックは万感の想いを込めて、貴婦人の白い手に口づけた———。
***
「大公殿下、こちらが夜会の最終確認書になります。サインをお願いいたします」
若きアルバニー大公、セドリックは執務室の本棚をじっと見つめていた。
「それから侍女長のトレド夫人から、当日の夜会服が届いています。試着をしていただきたいと」
セドリックの補佐官が不審げな視線をセドリックの後ろ姿に向けた。
セドリックは、本棚に収められた数冊の本を、まだ見つめている。
「……殿下が興味がないのはわかっていますが、今度の夜会は、大公即位五周年をお祝いする特別なものです。この国の主だった貴族はすべて出席します。まあ、大臣達の考えはわかっていますよ。若いご令嬢達をあなたの前にずらりと並べて、あなたが少しでも興味を示せば、即婚約者候補入り! わくわくしますね〜!! さすがに、そろそろ婚約者を決めないといけませんから」
「グレッグ」
男の止まる様子のない滑らかな舌に、たまらずセドリックが振り返った。
さらりとしたアッシュブラウンの髪に、黒い瞳。整った顔立ちの青年だ。
そのまま、無表情にじ……っと同い年の補佐官の顔を見つめる。
グレッグはため息をついた。
「ケンダル公爵家のディアーヌ嬢も、今回ばかりは、いらっしゃるはずです。今年で十八歳の成人を迎えられましたが、あ、ご安心を。婚約者が決まったとの話は、聞かないです」
「わかっている」
ボキ! とすごい音がした。
グレッグが銀髪の頭を曲げて、首の関節を鳴らしたのだ。
「…………」
側近の自由すぎる振る舞いにも、セドリックは安定の無表情だった。
「殿下、ちょっと外に出てきます。その間に夜会服の試着を済ませておいてください」
「わかった」
セドリックがまたもや簡潔に答えると、グレッグは遠慮なく、いそいそと執務室を出た。
ドアの前で待機している騎士に何かを指示する声が聞こえた。
セドリックとグレッグは貴族の子弟が通う学園の、騎士科の同級生だった。
学友から側近への抜擢。
優秀なグレッグは、セドリックの護衛だけでなく、補佐官も務めるが、じっとしているのは苦手らしい
一人きりになったセドリックは、そっと本棚から数冊の本を取り出して、机の上に広げる。
『ケンダル公爵領農家に伝わる家庭料理レシピ集』。
『ケンダル公爵領「わが家の節約料理コンテスト」優秀レシピ集』。
『ケンダル公爵領「パッチワークキルトコンテスト」の記録/図版多数収録』。
どれも作者は同じだ。
小さく印刷された名前は、『ディアーヌ・ケンダル』。
セドリックは、一番古く、小さな本を開いた。
『リンゴとヤギとチーズ〜ディアーヌ・ケンダル詩集〜』
リンゴが大好きなヤギを主人公にした、詩集だ。
あまり表情の変化がないセドリックの顔に、かすかな微笑みが浮かぶ。
あの時、セドリックは十四歳だった。
遠い日の記憶が、鮮やかによみがえる。
***
それは、他界した父の後継として、厳しい大公教育を受けていた頃のこと。
学園にもなかなか通えず、セドリックの気が滅入っていた時だった。
当時の教育係が、気晴らしにと一冊の小さな本を持ってきた。
「リンゴとヤギとチーズ? おかしな題名だな」
思わずセドリックがつぶやくと、教育係は微笑んだ。
「詩集です。殿下より二歳年下の少女が書いたものなんですよ」
セドリックの表情に変化が起き、かすかに目が見開かれる。
自分よりも年下の少女が書いた、という事実に興味を惹かれ、セドリックは詩集を読み始めた。
すぐに夢中になって、最後まで一気に読んだ。
それは、ケンダル公爵領に住む、リンゴが大好きなヤギを主人公にした詩集だった。
作者はディアーヌ・ケンダル。
ケンダル公爵令嬢だ。
その小さな本を読むと、ケンダル公爵領が『リンゴの里』と呼ばれるくらい、リンゴがたくさん取れる土地であること。
ヤギの放牧が盛んで、土地の名産がヤギチーズであること。
ディアーヌが父と弟を大好きなこと、ケンダル公爵領が大好きなこと、そしてアルバニー大公国を心から愛していることが伝わってきた。
セドリックより幼い少女。
幼いながらも、家族への愛、祖国への愛をつづった小さな詩集は、セドリックの心に残った。
もちろん、自分だって、国を愛している。
大公としての役割だって、理解しているつもりだ。
でも、時々、心が苦しくなるのだ———。
この少女は、どうなのだろう。
責任を背負って、苦しくなったりは、しないのだろうか。
本に書かれた、ディアーヌ、という名前を指でなぞる。
いつか彼女に会いたい、セドリックはそう思った。
「この方はケンダル公爵のご令嬢ですよ。お年も近いことですし、近々お会いすることもあるでしょう」
教育係は、セドリックにそう言って、優しく微笑んだのだった。
ところが、ディアーヌは、正真正銘の深窓の令嬢だった。
ディアーヌは社交界に姿を見せることもなく、セドリックは彼女に会う機会がないまま、月日は流れたのだった。
***
セドリックは、本をまとめると、そっと本棚に戻した。
執務室のドア脇にあるコートハンガーに、夜会服がかけられていた。
膝丈のロングコートと、その下に着る、揃いのベスト。
流行のデザインだが、色は幸いなことに黒に近い、濃紺。
そこに落ち着いた金茶色の刺繍が施されている。
えり元はシンプルに、たっぷりとした白レースのクラバットだった。
まるでこれから結婚式を迎える花婿のような、華やかな白地のコートに金色の刺繍だったら、セドリックは無言で侍女長のトレド夫人に戻すだろう。
執務室の隣にある、小さな休憩室に入り、侍女の手も借りずに、ささっと着替える。
鏡で自分の姿を見るが、まあ、こんなものだろう、とセドリックはうなづいた。
再びささっと着替えて、元の服を身につけた時に、ふと思った。
あのグレッグでさえ、婚約者がいる。
名前は忘れたが、ずいぶん可愛らしい令嬢だった。
夜会の際には、あのグレッグが、その子リスのような令嬢と夜会服の色を合わせるという。
『私の瞳の色の宝石を贈ったり、ドレスを贈ったりするんですよ。私は彼女の瞳の色でコートの刺繍をさせたりですね』
遠慮のないグレッグは、「あなたはご存知ないでしょうが」とでも言いたげに、そう言ったのだった。
(彼女の瞳の色)
セドリックはふと思った。
ディアーヌの瞳は、何色なのだろう、と。
興味のなかった夜会が、もしかしたらディアーヌが来るかもしれない、ただそのことだけで、何かワクワクするものに変わったような、そんな気がしたのだった。
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