第26話 デート
「いらっしゃいませ!」
俺の部屋から十分ほど歩いた閑静な住宅街の瀟洒なマンション一階、看板も暖簾も出ていない、一見普通の部屋の入り口のドアを開けると、威勢のいい声に迎えられた。明るい店内は程よく広いが、カウンター十席だけだ。白木のカウンターの中にはネクタイに白衣の精悍な男性が一人立っていて、俺に笑顔でお辞儀をした。
「こちらにどうぞ」
奥さんだろうか、和服姿の女性が案内してくれたのは、奥から二番目の席。その席と、さらに隣の奥の席には「予約席」のプレートが置いてある。
予約したのは、東原さんだ。
彼女からのメッセージの返信は、『わかりました。お食事、行きましょう。日にちは少し先でもいいですか?』で、俺はもちろんオッケーした。するとさらに返信がきた。
『よかった。ちょうど行きたいお店があったんです。紹介制なので、私が予約します。笹井さんの都合のいい日時は、どんな感じですか?』
『平日は木金の七時以降、土日は何時でも』
というわけで、金曜日の午後七時五分前に、俺はこの店にやってきた。
「紹介制」だというしネットにまったく情報がないので(今の時代にこんなことがあり得るのだろうか)、実はものすごく高いのではと怖気づいたのだが、渡されたメニューを見てみるとそんなことはなく、普段、学生仲間と利用するチェーン店の倍くらいの価格で、商社マンだった時に使っていた店よりはずっと安い。
お造り盛り合わせ、和風サラダ、天ぷら盛り合わせ、焼き魚、漬物、出汁巻玉子、じゃこ飯など定番の和食の他に、パクチーとクレソンのサラダ、丸ごとトマトのお浸し、ゴボウのサクサク揚げ、いぶりがっことクリームチーズのポテトサラダ、コンビーフチャーハン、サツマイモのスティックフライ蜂蜜マヨソースなどのおもしろい料理が並ぶ。いわゆる創作和食の店か。
東原さんが来店したのは、七時ちょうどだった。
「こんにちは」
お店の二人に笑顔で挨拶をし、俺には「お待たせしてすみませんでした」と頭を下げる。
「いえ、五分くらいしか待ってないし、そもそも待ち合わせ時間、七時ですし」
「それなら、よかった」
そう言って微笑む東原さんを見て、本当に自然だなと思う。唇を読めるとはいっても、こんなに完璧に、即座に会話を成立させることができるものだろうか。
「ほんと、すごいよね。読唇」
「同じ難聴者でも得手・不得手はあると思うんですけど、私は読唇、得意です。たぶん勘が鋭かったり、予測や推測をしたり答えを会話の中で引き出すのが得意なのかな」
「へえ?」
俺が中途半端な返事をしたので、東原さんはさらに詳しく説明してくれる。
「はじめて笹井さんから幸一郎さんの名前を聞いた時、わかりませんでした。八文字もあって一体どんな名前だ? と。だからヒントが欲しいなって思って、『ずいぶん長いですね。由来は?』ってきいたんですよ」
「そういえば」
覚えている。
「そうしたら笹井さん、サビ猫が幸運を呼ぶ話と渡会さんのご主人の話、したじゃないですか。それでわかりました」
すごいものだな、と思った。俺たちが普通に会話しているより、もっとずっとセンサーを張り巡らせている感じだ。
「声の抑揚と大小はどうしてるの?」
たまにイントネーションがおかしいときはあるが概ね正確だし、淡々とした話し方はとても聞きやすい。
「いい質問ですね」
東原さんは、冷酒を一口飲んだ。
「抑揚も大小も、母が一生懸命教えてくれました。母は――父も――健常者なんですが、すごく一生懸命サポートしてくれて。私、声が大きい方なので、うるさくならないように気を付けてます――今、大丈夫ですか?」
「うん、ちょうどいいよ」
いつの間にか満席になって賑やかになっている店内で、ちょうどよく聞こえる程度の大きさだ。
「よかった」
東原さんは俺の方を見て(会話中はずっと見ているわけだが)、にこりと笑った。
「でもさ、東原さんの周りの人って、難聴のこと、知ってるんだよね? それなら、わからないことは素直に聞けばいいし、声の大きさもその都度確認すればいいんじゃ」
ないの? という俺の言葉を、東原さんは遮った。
「できませんよ、そんなこと。私のためにいちいち会話の流れを止めたくないし、気を遣わせたくないです。普通にその場に混ざっていたいんです――あ、ごめんなさい。厚意できいてくれたのについ」
「こっちこそごめん。配慮が足りなかった。鈍感でマイペースなところがあって」
謝ると、東原さんが「あはは」と、今までより少し大きな声で笑った。
「――ごめんなさい。鈍感とは思いませんけど、マイペースって、ほんとそうだなって思って。私一度お断りしたのに」
東原さんは声を潜めた。
「『たまにメッセージ送っていいですか』ってきいてくるし、スルーしたら、猫が足音を立てない話と研究内容のことを送ってきて。木から落ちてからは連絡ないなと思ったら、しばらくして退院の連絡とお礼について。さらに私が断ったら――」
東原さんがスマホ画面をスクロールして、例のメッセージを表示した。
『食事でもいいです。というか、僕は食事がいいです。近いうちにご馳走させてもらえませんか』
そして、とても楽しそうに笑った。
「ここまでされたの、初めてです」
「――すみません」
「いえ。おもしろかったし、楽しかったです。笹井さんからメッセージがくるたび、わくわくしました。今度は何が書いてあるんだろうって」
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