第23話 見舞い

 朝、目を覚まして大学に連絡を取る方法を考え、そして気付く。


 ああ、まだ夏休みなのだった。大丈夫か、俺の頭。不安になり午前中の回診にやってきた医師にきいてみると、


「一時的な記憶の混濁でしょう。レントゲンには異常がなかったですし。意識がしっかりしてきた証拠でもありますから、一般病棟に移りましょう。明後日の退院を目標に、無理のない範囲で院内を動くようにしてください」


と一般病棟に移ることのみならず退院まで仮決定し、六人部屋で昼食を食べ終える頃には、頭がさらにはっきりしてくるのを実感した。体の痛みも減ってきたので、一緒に病院に運ばれたリュックの中から論文のコピーを出して読み始めると興味深い数式にぶち当たり、自分で解いてみるうちに、ベッドテーブルはレポート用紙でどんどん散らかっていった。


 ちょうどすべての計算を終え、順番通りに並べたレポート用紙を満足した気分で眺めている時だった。俺は視線を感じ、ふと病室の入り口を見た。


「え――」


 そこに立っていたのは東原さんだった。


「どうして」


 驚きすぎて言葉を継げない。東原さんが、しかも平日の午後に来てくれるとは、思いもしなかった。

 だがそんな俺とは対照的に、東原さんは淡々と言った。


「渡会さんがメッセージで『今日はお料理教室で面会に行けない』と申し訳なさそうにしていて。だから代わりに私が」


 きけば、昨日は救急搬送だったから特別で、通常は十七時までの面会なのだそうだ。


「すみません、俺のために貴重な有休を」

「いえ。どうせ余りますから。午後半休ですし。よかったです、大丈夫そうで。渡会さん、すごく心配しているし、責任も感じていて。だから私が代わりに様子見に来た方がいいなって。スマホ、壊れちゃって簡単に連絡できないですものね――あの、入ってもいいですか?」

「あ、すみません――どうぞ」


 驚きすぎて、入り口のところに立たせたままにしてしまった。

 俺はベッドから降りて来客用のスツールを置こうとしたが、


「大丈夫。私がしますから」


 と東原さんは制した。そして自分でスツールを静かに動かすと、俺のベッドわきに座った。

 そういえば東原さんは、どんな仕事をしているのだろう。公務員とは聞いているが、一口に公務員と言ってもいろいろな種類がある。スーツを着ていないいわゆるオフィスカジュアルな装いであることからすると、一般事務みたいな感じだろうか。


「東原さん、具体的にはどんな」


 仕事をしているんですか、という質問は、東原さんの声にかき消された。


「私、驚きました。まさか幸一郎さんを庭で自由にさせていたなんて。木登りはもちろん、塀にだって登れるそうじゃないですか。幸一郎さんの気が向けば敷地から出てしまいますよ。それって、すごく危ないことです。迷子になるかもしれないし、道路には車が走っているし、庭の中でだって、もしかしたら毒のある虫を食べてしまうかもしれないし。また今回みたいに思わぬ事故につながることだってあり得ます」


 声の調子は相変わらず淡々としていたがいつもより早口で、目は真剣。俺はその迫力に気おされた。そして、俺も渡会さんも幸一郎さんをかわいがっているつもりでいて、彼の本当の安全について配慮が足りなかったという事実に気付かされた。


「――すみませんでした」

「いえ。謝るなら幸一郎さんに。生き物を飼うって、命を預かることですから。軽はずみなことをしてはいけないと思います」


 東原さんがきっぱりと言い、俺はまた「すみませんでした」と返し、二人の間に沈黙が訪れた。それがどのくらい続いただろう、不意に東原さんが口を開いた。


「それ、きれいですね」


 指しているのは、テーブル上の計算式だ。


「そう思いますか?」


 計算式を「きれい」と表現する素人さんは珍しい。


「はい。化学式みたい」

「数式なんですけど――言われてみれば、そうですね」


 文字や記号が沢山使われた何行にもわたる長い数式は、経済学に詳しくない人から見れば数学で習う数式よりも、化学式に近く見えるかも知れない。


「笹井さんは、そういう式を解くのが専門なんですか?」

「いえ――そういうわけではなくて――」

「じゃあ、作る方?」


 シンプルな問いかけに俺は笑ってしまった。


「いえ、それも違って、専門のごく一部というか――僕はデータを使って実証する方向に進みたいんですけど、それには数式を使いこなせなくてはならなくて……」


 経済学を知らない人に自分のやっていることをどう説明したらいいかというのは、いつも悩む。


「そうなんですね。すごく難しそう。教えてくださって、ありがとうございます」


 そう言うと東原さんは席を立ち、スツールを元の位置に戻した。


「そろそろ失礼しようと思うんですが、笹井さん、何か必要な物はありますか? もしあれば、下の売店で買ってきますけど。渡会さんが『まだ動けないと思うから、手伝ってあげて』と」

「いえ、大丈夫です。無理のない範囲で動くように先生から言われていて。必要なものは後で買いに行きます」

「そうですか。じゃあ、私はこれで――」


会釈して部屋を後にしかけ、東原さんは振り向いた。


「あの、さっき、言い過ぎたかも。私、何でもはっきり言うところがあって」

「いえ、そんなことはないです。俺たち、配慮が足りませんでした。これから気を付けます。また何か気付いたことがあったら、教えてください。」


 俺が答えると東原さんは安心したような笑みを浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る