第21話 笹井のピンチ

「……久しぶりに、登ってみようかしら」

「えっ?」

「これでも娘時代は『木登りの華子』で鳴らしたものよ。見える、幸一郎さんのところまでたどり着くルートが」

「……」

「嘘だと思ったでしょ」

「いえ……でもさすがに今はご無理では」


 若くは見えるが八十歳だ、落ちたら骨折どころで済まないことだって――。


「幸一郎さん、一人にしておけば飛び降りるんじゃないですかね? 俺たちがいるから甘えて降ろしてもらおうとしてるって可能性も」


 俺が言うと、渡会さんがすっとスマホを差し出した。


『猫が怪我をせず飛び降りられる高さは、およそ二・五メートルと言われています』


「惜しい!」


 あと五十センチ低ければ。


「……飛び降りなくても、登ったのと逆ルートで戻ることはできないのかな」

「無理でしょう、あの怖がりようじゃ。それに猫の爪って、木に登るにはいいけど、降りるには向いてない形状なの。だから幹のところまで戻っても、降りられない。頭を下にじゃなくて、お尻を下にすれば降りられるんだけどねえ。ほとんどの猫は気付けないんですって。あと、枝から枝に飛び移るとか、そういう工夫も駄目みたい」


 そうなのか……。


「あ」


 俺は思いついた。


「ちゅーるで釣りますか?」

「もう試したけど、だめ」

「幸一郎さん、どのくらいあそこに?」

「二時間。本当にごめんなさい、私が不注意だったばかりに」


 渡会さんがしゅんとして誤った。


「幸一郎さん! 俺に向かって飛び降りろ!」


 俺は枝の下に立ち、両腕を上げた。俺の身長が一七〇だから、俺に向かって飛び降りたのをキャッチできれば、怪我をしない高さだ。もしキャッチできなくても猫は運動神経がいいのだから、俺の胸に飛び込むくらいはできるだろう。


「イニャー!」

「頑張って、幸一郎さん!」

「ニャー!」


 よほど怖いのだろう、まだ明るいのに、幸一郎さんの瞳孔は大きく開き目が真ん丸で、耳は頭にぴったり貼りついている。これ以上恐怖にさらすのはかわいそうだ。



 そういうわけで、俺は今、ギンモクセイの木にへばりついている。木登りなんて、したことがないのに。周りにも木に登る子どもなどいなかったし、絵本や童話の世界の中だけのことだと思っていた。それが二十六にして初挑戦。


「そこ、右腕で枝を掴んで、左足で体を持ち上げて!」

「この枝ですか?」

「違う違う、もう一本上!」


 そして渡会さんの指示の元、枝に手をかけ、足をかけ、まるでウォールクライミングをするようにして、何とか幸一郎さんがのっている枝の高さまでやってきた。


「幸一郎さん」


 同じ視線の高さで話しかける。


「ニャアー」


 相変わらず枝の先で固まっている彼は、顔だけ俺に向けて鳴いた。


「落ちないし、折れないから、そっと体の向きを変えろ。こう、こうだ、こう」


 腕を大きく回して見せてみる。


「……」


 幸一郎さんは小首をかしげた。だめだ通じていない。


「ちゅーるがあるぞ」


 ポケットに入れてきたちゅーるを取り出して封を開け、思い切り腕を伸ばす。


「幸一郎さん、ちゅーるよ! 頑張って!」

「ニャ……」


 幸一郎さんがわずかに右足を、そして左足を動かした。


「そうだ、その調子。こっちを向くんだ。ほら、ちゅーる!」


 俺も幸一郎さんとの距離を縮めようと、右足をさらに上の枝に移動し、体重をかける。


「あっ、笹井君、だめ! その枝は‼」

「え?」


 言われて気付く。俺の体重を支える限界を超えた細さだったのだろう、枝がミシリと音を立てた――折れる。体のバランスが崩れる。落ちる――瞬間、俺は覚悟した。


「腕で枝、掴んで!」


 だが渡会さんの声ではっと我に返る。

 そうだ、腕で枝にぶら下がってしまえば、着地するのに問題のある高さではない。ちゅーるを地面に投げ、手近な枝を掴もうとした時だった。


 ガサガサッと音がし、見ると、いつの間に態勢を変えたのだろう、幸一郎さんが猛然と枝の上を走って俺に向かってきて、あっと思う間もなく、俺の胸に飛び込んできた。


 違う、幸一郎さん。今じゃない。


 そう思いつつ、枝を掴むはずだった右腕で、聡一郎さんを抱えた。そしてバキリという音とともに足元の枝が折れ、俺は聡一郎さんを抱きしめたまま、木から落ちた。

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