第20話 幸一郎さんのピンチ
その日、東原さんからの返信はこなかった。
「返信がないってことは、だめじゃないってことだよな?」
俺は良い方に解釈し、ベッドにやってきて足元で丸まろうとした幸一郎さんにきいてみると、目を真ん丸にしてしばらく考えていた幸一郎さんも「ニャ」と肯定(多分)してくれたので、もう一通、メッセージを送ってみることにした。
『こんばんは、笹井です。今朝メッセージを送りたいと思ったきっかけがあるんです。幸一郎さんのことです。幸一郎さん――猫って歩く時音がしないんですよ。知ってました?』
翌朝。目を覚ますとすぐにスマホに手を伸ばしたが、東原さんから返信はなかった。幸一郎さんの足音の話くらいじゃ、反応しないか。猫が足音を立てないって、あれから調べたら割とよく知られているようだし、知らなかった俺の無知をさらけ出す結果になってしまったかもしれない。
どんなメッセージなら反応したくなるだろう。
朝のキッチン。足元で旨そうにカリカリを食べる幸一郎さんを眺めながら餡とバターを塗ったトーストをコーヒーで流し込んでまた考え、ああそうだ、友人知人はもちろん、親戚にもよく聞かれる質問があった、と思い出した。彼らは揃って聞く。
「文哉はいったい何を勉強してるんだ?」と。東原さんも興味があるだろうか。
『大学院では国際経済学を専攻しており、企業の貿易パターンとそれが経済厚生に及ぼす影響について計量分析をしています。経済厚生とは消費者余剰とか生産者余剰のことで、計量分析とは、データをたくさん使って何らかのパターンや相関関係や因果関係を見つけることです』
引いてだめなら押してみろと言うし、幸一郎さんの軽い話題でだめだったから、今度は硬派なやつでいってみるか。俺は送信ボタンをタップすると食器を片付け、昨日と同じようにスマホを家に置き、聡一郎さんを渡会さんに預けて――久しぶりに一日一緒に過ごしたいと渡会さんが言っていたので――大学に向かった。
大学からの帰り、アパートの前を通ると、
「笹井君、よかった! いいところに帰ってきてくれて‼」
と、ブロック塀の向こう、ギンモクセイの木の下にいる渡会さんが、大きいが品を保った声で叫ぶのが見えた。
表情は安堵と緊張が半々で、こんな渡会さん、はじめてだ。
「どうしたんですか?」
「幸一郎さんが!」
急いで庭に入り、渡会さんが指している先を見ると、三メートルほどだろうか、ギンモクセイの枝の先に幸一郎さんがのっていた。その体はこわばり縮こまっていて、目が真剣だ。俺を見ると「ナオ~ン!」とこれまで聞いたことのないような情けない声で鳴き、降りようと右手を少し前に出したが、枝がゆっさと揺れたのに怖気づいたのだろう、また右手をひっこめて固まった。
「なぜあんな高さまで?」
「インコがとまっていたの」
「ああ、なるほど」
この辺にいるのだ、ペットだったのが野生化したインコの群れが。名前は何といったか、黄緑色で大きくて、インコというよりオウムみたいなやつ。けりぐるみに似た派手な配色が幸一郎さんの興味を引いたのだろうか。
「私が止めればよかったんだけど、あれよあれよという間にするすると登ってしまって。高さに気付いた時の幸一郎さんの顔ったら」
ふふっ、と渡会さんは思い出し笑いをし、「――ごめんなさい、こんな大変な時に――」と謝ったが、その瞬間を想像すると、やっぱり俺も笑ってしまうし、今の姿でも十分おかしくて、つい写メを撮ってしまった。
「ナオ~ン‼」
パシャリ、という音に反応して幸一郎さんがまた鳴いた。「なに呑気に写真撮ってんだよ!」と言わんばかりに。
とにかく降ろしてやらなければ。
「……渡会さん、脚立とか梯子、ありますか?」
「それがねえ、ないのよ。植木のお手入れは全部植木屋さんに頼んでるから」
「……」
俺たちは顔を見合わせた。
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