第18話 けりぐるみのエビ

 幸一郎さんがやってきてからうまくいかないことが多い。まさかあいつ、本当に不幸の猫なんじゃないだろうか――そんなことを考えながら


「ただいま」


 玄関のドアを開けると、幸一郎さんがいつも通り座っていたが、その前にはけりぐるみ――一番のお気に入りの、エビの形をしたやつだ――が置いてある。


「なんだ、廊下で遊んでたのか?」

「……」


 幸一郎さんは答えず、真ん丸な目でもの言いたげに俺を見上げると、右手ですっと、けりぐるみを俺の方に押した。


「……壊した?」


 直してほしいのだろうか。

 手に取ってみてみるが、どこにも異常はなさそうだ。

 猫の気まぐれか。


 部屋に入ると他のけりぐるみはいつもどおり床に散乱していて、それを片付けながら湯を沸かしてタイマーをセットし――音の聞こえない東原さんは、こういう時どうしているのだろう――インスタントラーメンを茹でた。さっさと食べて、論文の続きを読もう。その後は、留学について詳しく調べたい。これまでは就職後にサバティカルで行くことを漠然と考えていたが、今日松本先生の話を聞いて、博士号を米国で取ることに興味がわいてきた。コースワークや論文執筆だけでもかなり大変だろうし、金銭的な不安もあるが、その後の学者人生を考えると、無理をしてでもやるべき価値のあることだろう。


 深夜一時、眠ろうとベッドに入ると、幸一郎さんがけりぐるみのエビを咥えてついてきた。そしてグルグルと喉を鳴らしながら、俺の枕の上にポトリとエビを落とし(こんなことは初めてだ)、俺はぎょっとした。洗っているが毎日ではない、幸一郎さんの涎だらけのエビはちょっと匂う。


「だめ。戻してこい」


 思わず指示したが通じるはずはなく、俺はエビを掴むと、けりぐるみのカゴに向けてぽいっと放った。幸一郎さんは放物線を描くエビを目で追ったが取りに行くことはせず、灯りを消すと、いつものように俺の足元で眠りについた。


 翌朝、俺は気持ちよく自然に目覚めた。まだ早いのだろうか、幸一郎さんに起こされる前に起きられるとは、彼がこの部屋に来て以来だ。だが足元を見ると幸一郎さんはおらず、次見スマホを見て驚いた。十時を過ぎている。慌ててカーテンを開けると入ってきたのは残暑の強い日差し。


「⁉」


 いつもとあまりに違う朝。訳が分からない。これは夢か?


「幸一郎さん⁉」


 思わず大きな声で呼ぶと、「ウルニャン」と機嫌良さそうに鳴く声がし、キッチンのドアの隙間(彼は自分でドアを開けられるが閉められない)から尻尾をぴんと伸ばした幸一郎さんがキャットウォークで現れた。そして床に落ちていたエビを咥えると、すたすたと早足でやってきてベッドに上り、俺の膝の上にポトリと落とした。


「だからだめだって、それは」


 また投げると、幸一郎さんは何か言いたげな目で俺を見た。

 腹が減っているのか。


「もう朝ごはんの時間、だいぶ過ぎてるぞ? 何で起こさなかった? それにスマホのアラーム止めたの、幸一郎さんだな?」


 今日は日曜日だからいいが、平日にこれをやられたら困る。


「絶対にやっちゃだめ。スマホ禁止。わかった?」


 スマホを幸一郎さんの鼻先に突き付けてきつい調子で言ったが、多分通じていないだろうなと思うと、自分の行動が滑稽で笑えてきた。

 そして思う。ああ、こういうたわいないことを東原さんと共有できたらいいのに。

 

『東原さん、こんにちは。昨日から幸一郎さん、ちょっと変なんですよ。いつも起こしてくれるのに放置だし、スマホのアラームまで消して。あと、エビ。預かってもらう時に持たせていたお気に入りのやつ、覚えてます? あれを頻繁に俺の所に持ってくるようになりました。何なんでしょうね』


 送るつもりのないメールを――というのは、メールならアドレスさえ入れなければ誤送信は起りえないからだ。第一、俺は東原さんのメアドを知らない――書いて、ふと思った。


 あのエビはもしかして、幸一郎さんから俺へのお詫びの印なんじゃないかと。そう考えたら、これまでの幸一郎さんの思考が見えた気がした。


 勝手に送信ボタンを押して、文哉(と俺のことを呼んでいるかどうか知らないが)に叱られた→だからお詫びの印にエビを置いて玄関で待とう→だが文哉はまだ機嫌が悪い→もう一度エビを差し出すが効果なし→朝は起こさずそっとしておこう


 幸一郎さんのいじらしさが急に愛おしくなり、俺は幸一郎さんを抱きしめた。

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