第17話 意外な結末

 カフェに行くと東原さんはすでに来ていて、窓際のテーブル席から笑顔で俺に手を振った。


「大学院、忙しいですか?」


 席に着いた俺に穏やかな笑顔で聞く。

 ああ、こういうところが好きだ。


「まあ。それなりに」

「メッセージの送信時間、三時過ぎでしたけど、いつもそんな時間まで研究を?」

「いつもというわけじゃないんですが――昨日は寝付けなくて」

「幸一郎さんは夜、どうしてるんですか? 猫って夜行性でしょう」

「昨日は俺と一緒に起きだしてました。いつもは一緒に寝て、大体朝まで一緒にベッドにいます。目を覚ますのはあいつの方が早くて、アラームが鳴る少し前に、俺を起こしてくれます」


 東原さんがにっこりと笑った。


「どうやって?」

「胸の上に乗って、手で額をぐいっと押して、それでも起きなければ冷たい鼻先を俺の花にくっつけます」

「かわいい」

「かわいいですけど、でかくなりましたよ」

「今、何キロくらい?」

「五キロ」

「すごい。お米の袋と同じだ」


 また、東原さんが笑う。


「いたずらもします」

「うん」

「実は昨日のメッセージ送信したの、幸一郎さんで」

「そうなの?」

「肉球でボタンをぽちっとしたら反応しちゃって」

「そうか、それでなんですね。あんな時間に送ってきたの」

「すみません」

「でも書いたのは、笹井さんでしょう?」 

「それは、もちろん――」


 俺は、駅前で東原さんを見かけたことを話した。


「で、思ったわけです。週末の夜、食材抱えて――その――お付き合いしている人の部屋に――行くのかなと……」


 東原さんはじっと俺の顔を見てきいていた。


「すみません、立ち入ったことを。それで、あの、実際どうなんでしょうか」


 俺は急に恥ずかしくなり、もぞもぞと消え入るような声で会話を終えた。

 けど、答えはききたい。

 男がいるのか、いないのか。どっちなんだ、東原さん。


「お米です」


 だが東原さんはいたずらっぽい笑顔で言った。


「昨日はお米五キロとお野菜も買って、重くて歩くのが大変だなと思ったから、ちょっと贅沢だけど自分の部屋までタクシーに乗ったんです」

「え――それだけ?」

「はい」


 じゃあ、電話はどうしてだろう。なぜかけ直してくれなかったんだろう。

 東原さんは俺の疑問を察して答えた。


「お電話、ごめんなさい。私からも連絡を取った方がいいかなとは思ったんですけど、電話、二、三ヵ月にそれぞれ一度きりだったでしょう。留守電は入っていたけど、笹井さん、メッセージは送ってこなかったから、だからきっと重要な要件ではないんだなと思って」


 思って?


 その言葉に俺は、違和感を感じた。


『急ぎの要件ではないんですけど、なんとなくどうしているかなと思って。もし気が向いたら連絡ください』


 それが、俺が留守電に何度か入れた言葉だ。


「それに、あの――すごく思い上がってるかもしれないんですけど――もしかして笹井さん、私のこと気になってるのかなと思って――」


 東原さんは目を伏せてカフェラテのストローを華奢な指で弄びながら囁くような声で言った。氷がカラカラと乾いた音を立てたのとは対照的に、ざわついていた店内から急に音が消えたように感じた。やがて東原さんは目を上げ、問いかけるような視線で俺を見た。きた。はっきり答えるタイミングだ。


「気になってます」


 俺が言うと、東原さんは「そうですか」と小さなため息をついた。


「とても嬉しいです。ありがとうございます。笹井さん、大切な試験の朝だというのに幸一郎さんのことが気になってあの場所から動けなくて優しくて、三人でお世話を始めた時も、たまに出張のお土産くれたり、私が疲れた顔をしていたら、『今日は疲れてますか?』って気にかけてくれたり。すごく嬉しかった」

「じゃあ」


 期待が大きすぎて、俺は東原さんの話を途中で遮ってしまった。


「でもお付き合いとかそういうのは、難しいです。私、健常者じゃないんです。耳がほとんど聞こえません」

「え? だって、普通に話して――」


 頭が混乱した。こんなに普通に会話が成立するのに? それに、聞こえなければ話せないのではなかったか?


「訓練によって話せるようになるんです」

「聞こえないのに、そんなに自然に?」


 たしかに、たまにすこし舌足らずに聞こえることはあるが、それでも、東原さんの話し方はかなりしっかりしていて、自然で、言われなければ障害があるとはまったくわからない。


「それに俺の話だって、理解できてるよね?」

「唇を読んでるから。一対一で明るい場所でならほぼ読めます。でも三人以上になると大変だし、暗い場所でも難しいし、幸一郎さんの鳴き声も聞こえないんです」


 そう言われて俺は、初めて東原さんに会った日のことを思い出した。

 ゴミ収集所の段ボールの中で激しく鳴いていた幸一郎さんに、東原さんはまったく気づかなかったのだ。


「難聴の人と何度かお付き合いしたことはあるんですけど、なかなかうまくいかなかった。こう見えて私、けっこう我が強いんですよ。恋愛って難しいですよね、お互いのエゴが出て。障がい者同士でうまくいかなかったんだから、健常者の笹井さんとだと、きっともっと嫌な思いをさせると思います。もし――もし万が一にですよ――結婚するとなったとして、笹井さんのご両親、悲しむと思います。それに――私、結婚はしたいけど、子どもを持つことには迷いがあるんです。難聴って遺伝する可能性が高いらしくて。そういうわけで、ごめんなさい。お気持ち、本当に嬉しかったです」


 俺をまっすぐに見つめた東原さんは、すっきりとした笑顔だった。

 たぶんこの人は、こういうことに慣れている。

 この笑顔は、相手に罪悪感を感じさせないようにするための表情だ。

 そう考えたら、俺はもう何も言えなかった。

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