第16話 返信

「なんてことするんだよ!」


 つい怒鳴ってしまった。幸一郎さんはイカ耳になり、上目遣いに俺を見て、右手で俺の手をそっと触った。何か悪いことをして叱られた時によくする仕草だが、俺がその手を握り返さなかったのでよほどまずいとおもったのだろう、トン、と机から床に飛び降りると部屋を早足で横切ってベッドの上に乗り、香箱スタイルでしばらく俺を見ていたのだが――やがて大きなあくびを一つ。


(寝ようぜ、もう遅いんだし。やっちまったもんはしょうがねえよ)


 と言っているように見えた。さっきまでの殊勝な態度はどこにいった。


「いいよな猫は呑気で」


 これが犬だったら猛省を促すところだ。



 なんとか三時間ほど眠った俺は、幸一郎さんと一緒に朝食を済ませ、また論文を読み始めたが、どうにもスマホが気になって集中できない。だから大学の図書館に行くことにした。何であんなメッセージを打ってしまったのだろう。


「じゃあな、幸一郎さん。夜まで帰ってこないから、留守番よろしく」


 スマホは家に置いていく。


「にゃん」


 玄関に行儀よく座って俺を見送る幸一郎さんは、昨夜のことなどすっかり忘れている様子だ――そもそも、猫の記憶力って、どのくらいもつんだ? 帰宅したら調べよう。



 大学図書館は一般的に公立図書館より開館時間が長く、うちの大学は月曜から日曜まで――つまり休みなしだ――八時から二十二時まで開いている。広いキャンパスの中央、プラタナスの樹々に囲まれたガラス張り(蔵書には日光が当たらないよう配置に工夫がなされている)の空間は一人用に区切られた閲覧席が多くてとても居心地がよく、つい足を運んでしまう。必要な論文はほぼ大学が電子ジャーナルを契約していて、学内のネットワークに入れれば、構内はもとより、家でもどこでも読めるのだが。


 今読んでいる論文は古くて珍しいものなので他大学から取り寄せたのを紙で読んでいるが(ほとんどすべての国内の大学は文献をやり取りするネットワークでつながっており、図書館で依頼すれば、一週間ほどでプリントアウトしたものが郵送されてくる。お互いに所蔵している文献を有料で送り合っているのだ。この時代、ファイルでやり取りすればいいのにと思うのだが、著作権法上できない場合がほとんどなのだそうで、日本全国を相当数の学術論文が郵便で行き交っているのを想像するのは、ちょっと愉快だ)。


 昼食は、偶然会った指導教官の松本先生にご一緒させてもらい、食事しながら俺の論文について有益なアドバイスをもらうことができた。食後はカフェに移動してごく個人的な話も聞かせてくれた。ゼミの教官だった石井先生も魅力的な人柄だったが、修士は松本先生の所に着て本当によかったと、俺は思っている。


 松本先生は元財務官僚で、俺とは、数年でキャリアチェンジをしたという共通点がある。留学が転機になったそうで、「笹井君は留学、考えているの?」ときかれ、「はあ、まあ、ぼんやりとは。サバティカルを使って」と俺は答えた。


 経済学の本場は米国なので、留学する経済学者はとても多い。ありがたいことにサバティカルと呼ばれる有給の研究休暇制度のある大学があり、そこに就職すれば俺にも一、二年海外で研究する機会が与えられるだろう。


「うん、サバティカルもいいけどさ。笹井君ならセンスと英語力があるから、博士課程から行ってもいいと思うよ」

「博士課程から?」

「大変だけど、得るものは大きい。早いうちから人脈もできるし。今は共同研究が主流になっているから、人脈は大事だよ」



 海外の博士課程、そして人脈か。


 うっすらと理解してはいたが、実際に松本先生の口からきくと、急に現実味を帯びる。もし海外に行くとなったら、東原さんはついてきてくれるだろうか? ――ふと身勝手な想像し、俺は耳が熱くなるのを感じた。付き合ってもいない相手を自分の人生設計に入れるとは、図々しいにもほどがある。そして東原さんにはおそらく男がいる。

 松本先生と話した後急に現実に引き戻された俺は、東原さんから返事は来ただろうかとまた落ち着かない気持ちになり、結局、夕方には大学を後にした。



「おかえりなさい」


 アパートに戻ると、渡会さんが庭で水まきをしていた。名前は知らないのだが、この時期の渡会さんの庭は、白い大きなブドウの房のような花をつける木が美しい。


「今年も暑いわねえ」

「ええ」

「今日は大学に行ってきたの?」

「ええ」

「珍しいね、土曜日に」

「ええ」

 早く部屋に戻ってスマホを見たいのに、こういう時に限って人は話しかけてくる。返信はきているだろうか。それともきていないだろうか。

「幸一郎さん、少し庭で遊ばせたら?」

「はい?」

「幸一郎さんを庭で遊ばせない? って誘ったの。ちょうど水やりが終わって涼しくなってるし、木登り、気持ちいいんじゃないかと思って」


 幸一郎さんはここ数ヶ月で木登りを覚えた。だが、なぜか一人で降りられないので、そばについていてやらなくてはならない。


「私、見てるから。よかったら連れてきて」

「ありがとうございます。すぐ連れてきます」


 東原さんからのメッセージを読むなら、一人で落ち着いての方がいい――返事がきているとも限らないのに俺はそんなふうに考え、部屋に戻ると、いつものように廊下の端でちょこんと座って俺を待っていた幸一郎さんを抱き上げ、「木登り、いくぞ」と庭に連れ出した。


 そしてまた部屋に戻ってスマホの電源を入れると――新しいメッセージが一件、入っていた。開くと東原さんで、俺が大学に向かった直後に送信されたものだ。


『メッセージ、ありがとうございました。会ってお話しできればと思いますが、ご都合のよい日時、教えていただけますか?』


『今、大丈夫です』


 送信すると、すぐに返信がきた。


『迅速ですね。わかりました、じゃあ、十分後に駅前のカフェで待ち合わせましょう』 

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