第15話 帰宅後の幸一郎さんとの時間

「ただいま」


 玄関のドアを開けると、俺の足音でわかるのだろう、幸一郎さんはいつものように廊下の端に姿勢よく座って待っていて、俺を見ると「ンニャ」と小さく鳴いた。


「今日もたくさん遊んだか?」

「ウニャウ」


 成猫になったというのに、幸一郎さんの好奇心と遊ぶ意欲は一向に衰える気配がない。こいつは活発だ。


 ゴロゴロと喉を鳴らして足にすり寄る幸一郎さんを抱き上げて部屋のドアを開け、灯りをつけると、いつも通りにけりぐるみが散乱していた。他のおもちゃもあるのだが、幸一郎さんはこれが一番好きで、かごに入れてあるのを全部出してしまう(なぜそんなにあるかというと、ことあるごとに渡会さんがプレゼントしてくれるからだ)。俺が帰宅して一番にする仕事は、それらの片付けだ。何とか幸一郎さんに片付けを仕込もうとしたが、だめだった。猫は、犬と違って何か役に立つことを覚えるということはないのだろうか?


「今日さ、東原さんを見かけたよ」


 片付けを終え、カリカリを準備しながら話しかける。


「ウニャ」


 幸一郎さんは、早く寄越せと俺の脚にぐいぐいと身体をこすりつけている。


「電話してみようと思うんだけど、どう思う」


 床に皿を置いてやると幸一郎さんは猛烈な勢いで食べ始め、


「フガ」


 と返事をした。


「そうか、してみるか」


 俺は幸一郎さんの返事を都合のよいように解釈し、思い切ってスマホを操作した。一コール、二コール,三コール……『おかけになった電話は電源が入っていないか、 電波の届かない場所にあるため……』――やっぱりつながらないか。


 幸一郎さんの皿を洗って片付け、今度は自分の食事の準備を始める。とはいっても、冷凍うどんをチンして水で洗って皿に載せた上に、適当な大きさに切ったトマトと作り置きしてある肉そぼろ、冷凍オクラを盛って麺つゆをかけただけの簡単なものだが、これが意外と旨い――混ぜるとオクラが溶けて全体が冷え、残暑のこの時期にはうってつけなのだ――。もちろん教えてくれたのは渡会さんで、肉そぼろは彼女からの差し入れだから、俺がする調理といえばうどんをチンして洗うこととトマトを切るだけなのだが。


 それにしても、東原さんはなぜ電話に出ないのだろう。


 俺は駅前での様子を思い出した。


 たくさんの食材、タクシー。明日は土曜日。

 もしかして――いや、たぶんそうだ――付き合っている男がいるんだ。


「はぁ」


 思わず変なため息が出て、さっきから熱心に爪とぎをしていた幸一郎さんが手を止めて俺を振り返った。



 その夜はなかなか寝付けず、ついに俺はベッドから起き出し、机に向かって論文を読み込み始めた。大して頭に入ってこないが、ベッドの中で無駄に時間を過ごすよりはましだろう。足元で丸くなっていた幸一郎さんもいっしょについてきて、机の上の定位置に陣取った。ネットで調べて知ったのだが、これは多くの猫が取る行動らしい。飼い主が机に向かって勉強や仕事を始めると、そばに陣取って邪魔をするのだ。控えめな猫は膝に乗る程度だが、鉛筆に触ったり齧ったり、キーボードを叩く手にじゃれたり、画面と飼い主の間に鎮座したり、ひどいのになるとキーボードの上に寝そべったり。猫がこんなに人間の邪魔をするのが好きな動物だったとは、飼ってみて初めて知った。


 しかし人間の方も負けてはいない。ちゃんと対抗手段が編み出されている。それは、机の上に猫がちょうどすっぽり収まるサイズの箱を置くこと。そうすると不思議なことに多くの猫共は、その箱の中に入って大人しくなる――というわけで、幸一郎さんも今、百均で買ってきた箱の中にいて、呑気に足の毛づくろいなどしているところだ。


「なあ」


 集中できない俺は、また幸一郎さんに話しかけた。


「東原さん、やっぱり男いるよな」


 リズミカルに動いていた幸一郎さんの頭が止まり、俺を見た。


「……」

「返事は?」


 だが幸一郎さんは鼻を「フスッ」と小さくならしただけで、(うるさいなあ)という目つきで俺を一瞥すると、またグルーミング作業に戻ってしまった。


「おいってば」


 自分が集中できないのに集中している幸一郎さんがちょっと憎たらしくなって、俺は幸一郎さんのお腹の毛(ふさふさだ)をぐしゃぐしゃとしてやった。


「ニャアー」


 グルーミングを止めた幸一郎さんは不満そうな声を出すと箱から出てきて、机の上に広げてあった論文の上にゴロンと寝転んだ。そしてぐいーんと体を伸ばし、右手で、机の端に置いてあったスマホにタッチした。そのままの態勢で真ん丸な目で俺を見る。まるで、「うるさいなあ。グダグダ言ってんならさっさとメッセージ送れよ」と言わんばかりに。


 こうして結局、俺は東原さんにメッセージを書き始めた。


『ご無沙汰してます、笹井です。何度か電話して留守電も入れたのですが、もしかして何か失礼なことを言っていたでしょうか。でしたらすみません。俺、鈍いところがあって。自分では何が問題だったか気付けていないので、もしご迷惑でなければ、指摘していただけるとありがたいです。何か失礼があったら、きちんとお詫びしたいです。それで、東原さんの近況をお伺いしたいです。今年の夏も暑かったですが、お元気にされていますか。ごく近くに住んでいるはずなのに、不思議ですね。三月に最後に幸一郎を預かってもらって以来、一度も会っていないなんて。実は昨夜、お見かけしたんです。駅前のスーパーの所で。それで、俺としてはけっこうな大声で呼んだんですけど聞こえなかったみたいで、東原さん、タクシーに乗って行ってしまって。もしかして、だれかお付き合いしている方、いますか?』


 ……何だこの情けない文章は。それに最後の一文。まるで告白じゃないか。


 誰が言ったのだったか、「夜中に手紙を書くべきではない」というのは本当だな。

 消そう。

 メッセージを書くのは、一度寝てまた起きてからだ。もっと軽い感じがいい。幸一郎さんの写真でもつけて。


 そうしてメッセージを削除しようとしたその時。そばでじっとしていた幸一郎さんの手が突然にゅっと伸びてきて、あっと思う間もなく、スマホ画面をトン、と叩いた。


「……え⁉」


 まさか猫の手でタップできるはずはと思いつつ画面を見ると――そこには送信済みの恥ずかしすぎるメッセージがしっかりと表示されていた。

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