第2章

第14話 大学院入学後

 大学院での生活に、俺はよく適応した。コースワークやレポートの課題は順調にこなしているし、修論のテーマと構成も固め、夏休みの現在は、先行研究のリサーチをし、英語論文を読み込んでいる。子供の頃海外に住んでいたおかげで英語に対して抵抗がないのは、ありがたかった。


 退職しての進学は、実は単に社畜生活からの逃げではないかと心のどこかで自分を信じ切れていなかったのだが、結局のところ、興味という直観に従った決断は正しかったようだ。


 大学は東京郊外にあり通学に一時間ほどかかるので、この機会に引っ越すという手もあったのだが(家賃が安くなるし定期代も浮く)、住み慣れた部屋だし、街自体も気に入っていたので、動かなかった。


 そんな俺を渡会さんは、「幸一郎さん連れてお茶しに来ない?」とか、「ご飯食べに来ない?」とか、「今日は日差しが気持ちいいから、しばらく庭で日向ぼっこさせない?」などと、毎週のように誘ってくれた。最初は「特に猫好きではない」と言っていた渡会さんが、今ではすっかり幸一郎さんの虜で、数年ぶりに出版する新刊は、「猫ちゃんの幸せ手作りごはん」。これまで幸一郎さんのために工夫して作ってきたレシピをまとめたものだ。


 匂いでわかるのだろう、渡会さんが幸一郎さんの餌の準備を始めると、幸一郎さんは「イミャーン、ウミャーン」と鳴きながら、渡会さんの足元をくねくねと八の字を描くようにいたり来たりする。そして待ちに待った餌が供されると、わき目もふらずにガツガツと食べる。


 ゴミ収集所で見つけてから約一年。成猫になった聡一郎さんは、デブというわけではないのだが、体重五キロの立派な体格に成長し、そのつややかな毛並みはまるでべっ甲(実際、英語圏では「べっこう猫」と呼ばれているらしい)のようだ。

 幸一郎さんはよく食べて寝て遊び、健やかそのものだ。



 渡会さんと頻繁に合っている一方で、東原さんはというと、この半年、一度も会っていない。生活サイクルが少しでもずれていれば、近所に住んでいても案外会わないものだ。現に、幸一郎さんを拾ったあの日まで、俺たちは面識がなかったのだから。

 意外だったのは、東原さんが、俺はともかく幸一郎さんに会いたがらなかったことだ。とてもかわいがってくれていたので、俺が正式に飼うことになってからも、たまに預かりたがるんじゃないかな、一晩くらい泊まらせるのもいいな、などと、俺は勝手に考えていたのだ。

 それが、なしのつぶて。

 知らないうちに、何か気の触ることをしてしまったのだろうか。



「あら、笹井君、東原さんのこと好きになっちゃったの?」


 土曜日の午後、渡会さんは笑いながら、豆大福と冷茶を出してくれた。


「いえ、そういうわけじゃ……」

「連絡とればいいじゃない。携帯番号知ってるんだし」

「……何度か電話してみたんですけど、いつも不在通知で」

「……あら……じゃ、メッセージは?」

「平日の夜、休日の朝、昼、晩など、時間や日にちを変えてもだめだったんですよ。もちろん留守電も入れてます。それなのに返信がないって、俺、もしかして嫌われるようなことし たんじゃないかと――そこにメッセージまで入れたら、ストーカーっぽくないですか」


 そこまで言うと、渡会さんは笑った。


「そんなことないと思うけど。二人が一緒にいるのを見たのはお鍋の時だけだったけど、なかなかいい感じだった」

「いい感じ?」


 どんなふうにいい感じだったのか、もっと聞きたくて俺は身を乗り出したのだが。


「ミャ」

 

 渡会さんの膝に座っていた幸一郎さんがぐいっと手を伸ばし、俺の頬を押した。

「あ、こら、何するんだよ」

「ふふ。幸一郎さんは、『無粋なこときくな』っていいたかったのよね~。私も同意見。あとは自分で何とかしなさいな」

「ニャ」 


 渡会さんが言うように、東原さんと俺は、なかなかいい感じだったのではないかと思う。


 鍋の日以外、一緒に過ごしたのは幸一郎さんを受け渡すごく短い時間だけで、二言三言言葉を交わすだけだったが、ほっとするというか、とにかく、麗奈や、それまで付き合った数人とは全然感じが違っていた。しっかりと俺の目を見て話を聞く仕草、ゆっくり丁寧に話す口調。屈託のない笑顔――東原さんの表情を思い出し、俺はふと違和感を感じた。目を見られていたと記憶している割に、東原さんと目が合った瞬間というのは、実はそんなに多くはなかった気がする。じゃあ、どこを見ていたんだろう。顔全体?


 そんなことを考えながら、大学帰り、駅前の交差点で信号を待っていると、スーパーから見慣れた人影――東原さんだ――が出てくるのが見えた。


「東原さん!」


 考えるまでもなく、右手を振り、叫んでいた。

 横断歩道を挟み、距離は五十メートルほど。夜九時を過ぎて車通りはほとんどなく、俺の声は十分届くはずだ。それなのに、彼女はこっちを見ない。両手にたくさんの荷物の入った大きな買い物袋を持って車道に向かって立ち――あれは、タクシーを拾おうとしているのか――?


「東原さん!」


 もう一度叫ぶ。周囲の視線を感じたが、そんなの構っていられなかった。


 だが間もなく停車したタクシーに東原さんは乗り込み、行ってしまった。

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