第11話 幸一郎さんのお世話
できあがったカレーを味見すると、まずかった。
玉ねぎを炒めるのが足りなかったか、安い豚肉を買ったのが悪かったか、煮込み足りなかったか。いつも通りに作ったはずが、どこか上の空だったのかも知れない。
朝食は普通に食べられたが、昼食は月見うさぎ、夕食はカレーの味見だけ。時間が経つごとに腹は減るはずなのに、食欲が落ちてきている。認めたくはないが、麗奈とのことはショックだったのだろう。たしかに黙っていた俺は悪かった。だが俺はまだ二十五だ。正直、麗奈ほど具体的に結婚や家庭というものを考えることはできず、それよりは、たとえ会社を辞めるというリスクを冒してでも、自分のやりたいことをやってみたかった。なのに麗奈はそれを認めようとしない。そんな一方的で頑なな態度に、腹が立ってきた。
冷蔵庫からビール缶を出して開け、一気に喉に流し込んだ。
視線を感じて段ボールを見ると、幸一郎さんが小首をかしげて俺を見上げている。子猫というのは、こんなにしょっちゅう小首をかしげるものなのだろうか。
「これはビール。人間の大人の飲み物だ。幸一郎さんは、ミルクな」
まだ六時間には少し早かったが、俺は今日三回目のミルクを用意して幸一郎さんに与えた。相変わらずいい飲みっぷりで、排せつを済ませた後は段ボールの壁をひっかいたので、外に出してやった。そして飽きもせず部屋の探検をする幸一郎さんの様子を酒のつまみにビールを飲み続けた。窓からはきれいな夕日が見えた。
「……麗奈?」
頬に湿ったぬくもりを感じた。そしてぼんやりとした頭で思い出す。麗奈はもうここには来ないのだ、と。じゃあさっきのは? と考えて目を開けると、目の前にビー玉くらいの黄色く光る玉が二つ浮かんでいて、「うわっ!」と俺は跳び起きた。その瞬間胸から何かが転げ落ち、
「ウニャッ!」
鳴き声――そうだ幸一郎さんだ――もしかして幸一郎さんか俺の胸の上に乗って――なんでだ? まさかもう段ボールから脱走できるように――そこまで考えて、ああ違う、と俺は気付いた。幸一郎さんが部屋を探検するのを見ながら、酔いつぶれて眠ってしまったのだ。
「大丈夫か?」
床を見ると、幸一郎さんはソファに手をかけて「よいしょ」とでもいうように立ち上がったところだった。思わず両脇を掴んで持ち上げると四肢を伸ばし、「ニャ」と鳴いてゴロゴロと喉を鳴らす。その姿が何とも愛らしく、俺は彼を胸の所で抱いた。すると幸一郎さんは、その額を俺のあごにこすりつけた。
「ずっと一人で何してたんだ? 俺と一緒に寝てたのか?」
まさかな。
何気なく部屋の灯りをつけ、俺は驚いた。ティッシュペーパーが床一面に散乱していた。
「というわけで渡会さん、ティッシュボックスには気をつけてください。こいつ、左右の手を器用に使って、すごい勢いでティッシュを引き出します。食べたりはないんですけど」
いったいどうやったのかと、俺はあの後新しいティッシュ箱を犠牲にして実験したのだ。
「あらあら。それは大変。隠しておかなくちゃ。他に気を付けるものはある?」
「電気のコードです」
「ああ、わかる。猫って、紐にじゃれるものね。注意する。笹井君、帰りは何時?」
「七時には戻りたいです」
「無理でしょ」
渡会さんが笑った。
「いつも深夜じゃない」
「それはそうですけど。そんな時間まで預かっていただくわけにいきませんし、もう辞めるまで半年ですし」
激務からフェードアウトしたい。周りに白い目で見られようと、これからは定時退社を目指す。
「あまりお勧めしないわねえ。一応今までお世話になった会社でしょ。残業代も全部出るんだし。急に『今日から定時帰りします!』よりは、徐々にシフトしなさいな。退職後も、どこで前職の人たちとつながりがあるかわからないし」
「じゃあ、大家さんが深夜まで預かってくれるんですか?」
東原さんが俺の顔を見て言った。話をするとき相手の顔をしっかりと見るのは、この人の癖なのだろう。
「うーん……それはあまりに厚意に甘えすぎなんで、ペットシッター探そうかと思ってます」
週明け、ごみ収集所の前で鉢合わせた東原さんと俺は、駅までの道を並んでに歩いている。彼女とゴミ収集所で会ったのは前回が初めてだが、それもそのはず、朝六時半には家を出て七時出社する俺に対し、彼女は八時に家を出て九時出社だという。今日一緒になったのは、俺が大阪出張でいつもより遅い出発だったからだ。
「シッターさんの時間は?」
「六時から九時まで。ここの学生、来てくれないですかね」
俺たちが歩いているのは国立大学の構内で、ここを抜けるのが駅への近道だ。
「ミルクと排泄の世話以外は、寝かせておくか、適当に遊んでやってくれればいいので、猫好きな女子学生なんか、応募してくれるんじゃないかなって」
「なるほど! いい案ですね。時給は?」
「千二百円」
「……」
「安いかな」
「いえ、そんなことは。楽しいお仕事ですし――あの、笹井さん」
校門を抜けたところで横断歩道の信号がちょうど点滅し、俺たちはどちらともなく走り出し、横断歩道を渡り切ったところで彼女はきいた。
「そのバイト、私じゃだめですか?」
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